白色テロへの血の債務





1967年7月

斎 藤 龍 鳳


『武闘派宣言』1969年4月 三一書房 所収
(初出:『現代の眼』1967年7月号)

 被支配階級によって,支配階級が打倒されかかったとき,支配階級はかならずゲバルトを行使する。なぜなら,彼らは支配の制度をもちつづけるためにこそ暴力装置を具備しているからである。けっして手をこまねいてみずから構築したところの秩序が崩壊するのを傍観視していたりはしない。平和裡に革命を……これはたんなる希望であり,かつて歴史上,どこで権力が平和的に移行したことがあるだろうか? ありはしない。一度たりとも,そんなムシのいい歴史を人類が経過したためしはない。だが,希求がこの上なく頭のなかでふくれあがり,最初おどおどと「もしそんなことが可能ならば……」と願ったとする。長い年月のあいだに,その願いは「もしも」ではなくなり,ありもしない可能性を机のまわりでまさぐりはじめ,「敵方の出方によって決定する」に修正され,やがてはブルジョア議会内で権力奪取がなされるかのようなひどい錯覚にとりつかれてしまう。

 昨年〔1966年〕秋,東京田無の日特金属,名古屋の豊和工業に襲撃デモをかけたヴェトナム反戦直接行動委員会と,丸の内の三菱重工本社に武器製造中止のビラまきにいった非暴力直接行動委員会が合同で集会し,ヴェトナム反戦直接委の側が「われわれは暴力に対して最後まで非暴力でたたかい抜く自信がない」と,しごく当然なことを,変におごそかに発言したり,非暴力のほうが〈暴力とは何か?〉と聞くまでもないシンポジウムを開いて議論するなどと書いてあるものを読むと,心底明治百年のあいだに人間がすっかりダメになったなアと,なさけなくなる。

 エンゲルスを引き合いにだすまでもなく「暴力は新社会をはらんでいる旧社会の助産婦であるということ,さらに暴力は,それをもって社会的運動が自己を貫徹し,そして硬直し麻痺した政治的諸形態を粉砕する道具」(反デューリング論)である。その道具が革命的にもちいられるか,反革命的役割を演じるかは,革命の側,反革命の側の力量関係で,その分量もなにがしかの流動変化がおこる。けっして“非”が冠せられるようなものではない。だが中途半端な味方のゲバルト行使は,敵に口実をあたえ,安っぽい観念論で身づくろいをさせ,強力な公認の暴力の敵に大量殺りくを許すだろう。したがって味方が行使するときは徹底的行使でなければ危険である。

 「プロレタリア国家のブルジョア国家との交代は,暴力革命なしに不可能である」(レーニン『国家と革命』第一章「階級社会と国家」)。これは学説であるばかりか,すぐれて政治的煽動でもある。それはたんに大言壮語ではなく,無内容で古典的なおしゃべりでもない。階級あるかぎり,永劫にわたって裏側にへばりつく,ある種の運命的な鉄則であり科学である。

 毛沢東は一九四五年一〇月一七日「重慶交渉について」でさえ,――すこし殲滅してやれば,すこしさっぱりし,たくさん殲滅してやれば,たくさんさっぱりし,徹底的に殲滅してやれば,徹底的にさっぱりする――と武装解除をほのめかすような言動は,すこしもとっていない。彼は,反動派がいついかなるときにゲバルトを行使して襲撃しようと,それに対応しうる武力闘争の準備をととのえていた。――優勢であるが準備がないならば,真の優勢ではなく,また主動性もない。劣勢ではあるが準備のある軍隊は,この点がわかっていれば,つねに敵にたいし不意に攻撃にでて,優勢な敵をうちやぶることができる――一九三八年五月の最悪状況下においてさえ毛沢東は右翼日和見に陥没することなく「持久戦について」のなかで右のような政治煽動を敢行している。何年経ても時期尚早をとなえ「敵の出方を待って革命のあり方をきめる」と二一年一日のごとく,わめく日本革命に責任ある前衛諸党派と,毛沢東の発言はいかにへだたりのあることか。

 内外の敵と長いあいだ戦いつづけ,一度たりとも議会に幻の夢を託さなかった鍛錬のなかから樹立された中国革命の戦略戦術は,粗暴であり,それゆえ理にかなった具体性があり,人間解放の野心に満ちている。

 なんといっても認識は実践からスタートする。これが革命の認識であり,弁証法的唯物論の認識論である。その後の経過は,その実践をとおり,理論的に一段とすぐれた実践にもどる。もどらずに理論だけが高まると革命の品格? は向上するかもしれないが,勝利することは不可能に近づく。常に理論と実践の関係は,前者が超俗的で後者が通俗性をおびた関係が革命にとっては不可欠である。その相関性は理論にとっても,実践にとっても有効的であり,同時に大衆に強いられる血の債務においても,少なくてすむ。

 つぎに理論的に武装した認識の物理的作用は,“革命”へと発展していく。これが感性的理論から理性的理論に発展していくだけにとどまるなら,革命にとって,量にもならなければ,質の向上ともなりえない。革命における認識と実践は,こうした反復運動を永続的にくりかえすことによって「国家の死滅」という主題を貫徹し,おわりに近づくのである。なぜ,こんなわかりきった認識をもちださなければならないのか。本当は「革命の革命化」,よりいっそう強化された革命の政治煽動文をしるさなければならない状況なのに,私たちをとりまく非革命的雰囲気は,理性的認識はおろか,感性的にも鈍さを増殖再増殖していくありさまである。右よりの学者Aと左よりの学者Bが,地方選挙をあらそうなどという図は,右にも左にもよりすぐれた実践者がないことをはからずも露呈したにすぎず,すくなくとも理論はそのことだけでけっして向上するはずはなく,いたずらに統一戦線イリュージョンで人びとの鈍い感性におもねるにとどまるだろう。

 〈下手な考え,休むに似たり〉――考えたふりをして休んでいるなどはオツなものだが,休みが休みのまま停止線に定着していることはない。「反動化している」「右傾化しつつある」と口先きだけで,動脈をこわばらせた非実践者がいくら叫んでも,意味のない日々の後退はまぎれもない反動への急転直下コースである。前進する速度より,後退の流れのほうが圧倒的に強いことを認めることが,まず第一義的である。そのことは,何も安保以来いわれつづけている「敗北を噛みしめる」などといった安っぽいセンチメンタルな感慨を吐露しているのではない。そんなものを噛みしめるんだったらチューインガムのほうがよほどましである。

 何度も何度も敗北ばかり喫せず,たまには大勝利に酔っぱらうことでも本気になって計画するべきだといいたい。そのあとに大反動がこようとも怖れず,つぎのつぎなる大大的勝利への勇を鼓すべきだろう。それが真にマルクス・レーニン主義的な認識論である。

 われわれをとりまく情勢は実践はおろか,認識さえうしなわれつつある。生活の改善が革命につながったり,大衆社会状況のよび名で,支配か被支配かの対置位相の問題がみごとにすりかえられたりする。おののく拷問への恐怖は,拷問を根絶させることには結節せずに,「拷問が先か,テロが先か」のごとき愚論でお茶をにごすあわれむべき結果をもたらしている。最初にしてついに最後までつきまとう,裏腹にして唯一の主題は〈革命か反革命か〉である。その認識をぬきに,いかほどの生活改善についての無駄話を喋喋喃喃しようと,それは有害あって一利もないことだ。

 現に私の住む東京都における一例をもっても,憲法もへちまもなく,人間があつまって歩きだすと棒で力いっぱいぶん殴られる悪法が公然とまかりとおっている。直接殴られる側の感性は生理的に痛むから,または頭を割られたうえに入院費さえかさむから,それほど鈍ってはいないが,まだ心のすみのどこかで「オレは公安条例にそむいている」と,中途半端な造反有理思想をいだいていないこともない。まして両側の舗道でその列を傍観している者にいたっては「それもやむなし」「自業自得」「関係ない」の各種さまざまな完全鈍感症におちいっている。革命か反革命かのテーゼを確持するなら,瞬間の迷いもなく,棒をふるって襲いかかる公認の徒党こそ,白色テロのまぎれもない実践者である。議会に走った学者や官僚が,この暴力を粉砕しないなら(してくれっこない!)地域の民みずからが,彼らから棒と職権をうばいかえさなければなるまい。

 私のいおうとしていることは,けっして理性的認識に訴えかけているような高次元の事柄ではなく,当りまえすぎるくらい当りまえなことを感性的にいっているにすぎない。

 殴りかかるやつが悪い。それを認め,権力の名においてそれをそそのかすやつはもっと悪い。黙って殴られるやつはさらに悪い。殴られたら殴りかえすことですこし罪が軽くなり,そそのかされたやつを味方の側に組織できたらやや責任をはたしたことになる。くわえてそそのかしたやつを罰し,そそのかしうる機構を根絶しうるなら,最初のささやかな勝利である。本格的な革命はそこからはじまる。だが,それ以前で停止したら,せっかくの勝利はたちまち敗北に逆転し,敵のゲバルトはさしずめ一週間もたたないうちに発動されるだろう。

 一九三六年,スペインの人民戦線政府は反革命の武力に対抗して二年と九ヵ月もちこたえた。兵士もいたが,なにより労働者農民が武装していたからである。

 われわれの国で,われわれの階級がもっとも危険にさらされるのは,われわれが信じて選んだ閣僚たちが平和維持をスローガンにして,反動をおそれたときである。そのとき,われわれは無防備のまま敵の矢面にさらされるだろうことは想像にかたくない。貧弱であるより優れた装備のほうが良い結果をもたらすにきまっているが,それさえ惜しむなら,貧弱でもいい。すくなくとも素手ではなく,反革命に対処できるような装備がわれわれの階級にもほしい。そして前衛と名のるほどの部隊なら,文字どおり劣弱な装備で訓練も満足にいきとどいていないわれわれよりも,一列は前方にでていてほしい。われわれを丸腰にし,前列に佇立させたまま後から,またはトラックの上から「議会を通じて平和的に社会主義を達成する」とか,「相手の出方に応じる」などとデマるやつは,人間の解放を真剣に考えない卑劣な策謀家であり,たんなる人心攪乱者にしかすぎない。それらはマルクス主義とは縁もゆかりもない悪質煽動者であり,多くの人びとを無駄死にさせ,革命を妨害する反革命者である。

 さいきん,私は,ある事件に積極的に介入した。敵は,あまり“名誉ある”とかいう形容を冠することはお義理にもできないが,すくなくとも伝統ある公党として永年,貧乏人のうえに君臨してきた党派である。したがって名指しすることだけはやめようと考えている。その権威や頭数をおそれるからではなく,あまりに世界の革命勢力から孤立し,ブルジョア権力の法律的庇護までうけなければ,自己の位置を維持することができないくらい弱体化した微々たる相手だからである。ほんらい,私は弱いものに同情する悪いクセがあるので,名指ししないだけのことだ。

 その党派の名を仮称「P」としよう。ピーと読んでも,パーと読んでくれてもいっこうにかまわない。略記号「P」が,隣国である中国の留学生寮の学生を殴打した。「P」が殴打というのは,ちょっとまわりくどいし,おかしいので,やはり,はっきり名指ししてしまおう。めんどうくさい! 日本共産党中央に指導された日共党員が中国の学生をひっぱたいたのである。これは一人の中国人A氏と,一人の日本人B氏がなぐり合いの喧嘩をしたという両成敗的性格のものでもなく,たまたまなぐったB氏が日共党員だったという不祥事でもない。それならそれでB氏個人があとで謝罪すればいいし,組織をあげ,機関紙をつうじ「長年にわたって,国際主義的な教育を下部党員にすることをおこたったもので……」とすなおに自己批判すればいい。

 それがこともあろうに中央委員じきじきに出馬し,激励。機関紙は連日,気でもくるったように反中国キャンペーンを開始した。三月二日いらい,“革命”そっちのけで一日も休まず善隣会館問題を報じはじめたのである。そのあいだに都知事選で社共協定成立を報道したが,一〇日には,またもや一面で「華僑学生と盲従分子の計画的襲撃の証拠は歴然」と民族ブルジョアジーへの媚を見せ,民社にまさるとも劣らぬ“第二ぶり”を発揮した。

 二〇日すぎても,キャンペーンはいっこうに衰えをみせてはいないし,一九日には無署名論文「『人民日報』その他のわが党にたいする不当な攻撃と干渉を糾弾する」で一面と二面の大半を大長口舌でついやした。二二日一面では「妨害排除の厳重な処置,会館側と警察に申入れ」をおこなういっぽう,五面で「あわてた忠勤ぶりは西沢隆二の正体を暴露する」と題し,宮森繁なる人物が文中「……かれらの一味に負傷者があっても,それは自業自得である。かれらがなおも同様のことをたくらむならば,いっそう手ひどい打撃をうけるだろう。日本の民主勢力は無抵抗主義でないということを,はっきりいっておかなければならない……」とひらきなおっている。

 私の感性をもってすれば,結果としても岩村三千夫,西沢隆二みたいな人間と共闘することは虫ずのはしる思いだが,中国人の学生をなぐっておいて,なにが日中友好だというおもいがさきにたち,私の心は善隣会館につき動かされ,おもむかされた。

 あとから行かなかった理由づけをする男は,だれがなんといおうと行くことをしなかった人間のインチキ理論である。そこで調停者づらをするなら,あの狂暴残忍な機動隊だってできる。西沢みたいなやつとは共闘できないという理由は感情的にわからないことはない(かくいう私もそうなんだから……)。だが,それは,耐えて参加している人間へのはげましや,具体的な力にはならない。臆病者のいいのがれか,鈍感なやつの負け惜しみにすぎない。

 善隣会館一階の廊下の幅は約三メートルぐらい。中国人学生をなぐった日共党員がいる「日中友好? 協会」は正面玄関を左に折れた側,華僑学生と日本人青年学生は右側。そのあいだ,機動隊をあいだにはさんで長さは数十メートル。国際共産主義運動内部の突出した敵対矛盾が,そこには厳然と存在する。プロレタリア国際主義を守ろうとするなら廊下を右に折れればいい。

 相手の出方をみて,革命方式を決め,できるなら機関紙発行部数の伸びと議席数の増加だけで,無原則的な改良主義におちいろうとする自称“自主独立路線”派は左にまわればいい。そこには露骨な自党礼讃と民族排外主義がまちうけている。

 私が廊下を右側に折れた意味は,たんに「中国人学生が日本共産党員になぐられたから」という問題からではない。狂ったような暴行とキャンペーンに端を発した日本共産党の反革命性に自己を対置させた政治的意義をつかんだからである。まず,自分の内部の修正主義をたたき,長年にわたって「日中友好」を政治経済分野で食いものにしつづけ,日本の人民の信頼と革命を裏切りつづけた日本共産党の体質に,真向うから激突するためにこそ廊下を右にまがったのである。

 三多摩からきた若い労働者がいる。早大,明大,東学館闘争を闘いぬいてきた戦闘的学生がいる。分裂主義者,トロツキスト,米日反動の手先,挑発分子,対外盲従分子と,ことあるごとに自己の闘争の右翼的偏向をごまかすために日共が戦士らにはりつけたレッテル。そんなものをすべてはねかえす戦闘的部分が,鋭い階級的な反応をしめしてかけつけている。

 中国革命が,いつもわれわれと無関係に存在したかのように考えていた人もいるだろう。また,口で毛沢東思想を論じる非実践的な肯定論者もいた。また毛沢東思想をあたまっから信じられない人びとも,日共党員によって二二人の中国人学生が重軽傷を負ったと聞いた三月二日の時点ではいった〔?いた〕。たしかに,それはプロレタリア国際主義の観点からは重大な誤りであるという単純動機だけでかけあつまった党派もあった。

 だが,廊下に機動隊をはさんで対峙する何日間にもわたる善隣会館闘争は,日本における階級闘争のなかで,形は小さくとも,どう政治的にとらえるかが,しだいに深い個所で結集しはじめた。三月四日,日共は三千五百人のデモ隊をくり出して善隣会館を包囲した。安保闘争以後,かつて民青系デモにはみられなかった激しいうず巻き,駆け足をふくむデモンストレーション。権力のまえでは羊のようにおとなしくなり,彼らが排外しようとする革命運動上の他民族に対するときはなぜかくも戦闘的になるのかが,しだいにだれの心のなかにも理解されはじめた。

 それは,日本革命の実践的課題と中国文化大革命を切りはなしたとらえかたしか考えられなかった人びと(私をふくめて)に,自己改造をせまる性質の闘争であった。戦前の歴史のなかで修正主義者のはたした役割が,やがて転向者の群れを生みだし,民族排外,反国際主義,反革命へと転落していったと同様,日本の革命を戦後一貫してサボリつづけてきた反革命集団との決定的な分岐を,私はいくらか感動的におこなった。われわれが深く自己検討し,革命の側にむかうのとは逆に,善隣問題を直接的契機に利用,自主独立路線をかくれみのに反革命の国際路線に足ばやにちかづこうとする日共の卑しい居なおりを,この闘争は,眼前で演じてみせた意味でも,私は珍しく激怒した。また,「プロレタリア国際主義」を口にしながら,「友好」をとなえながら,彼らが中国人民に対して,「戦闘的友誼」をもちあわせてなかったことが徹底的に,この闘いでは暴露された。同時に,われわれの頭のなかだけにしかなかった「プロレタリア国際主義」も,この廊下では実戦的に検証されなおす契機となった。

 中国人学生の英雄的闘争――これは日共もよくつかう用語だが,彼らのと中国人学生の闘いかたは月とスッポンである。三月二日,棍棒に対して素手でたちむかった中国の学生は血だらけになりながらも一歩もうしろへはひかなかったし,「危険だからやめなさい」と中国人女子学生をひきとめた日本人の商社マンらをふりきった彼女らの勇敢さは,まさしく英雄的と冠せられる質のものだった。日本人は激戦になると,はずかしくなるくらい「挑発にのるな」という言葉を発するが,中国の学生にそんな甘言はつうじない――がなかったら,たちまち善隣会館は民青三千五百のまえにうばいとられただろう。また同会館内には,昨日まで日共だった人びともいた。セクトについて,とりわけウルサイ日本人学生もいた。だが現実に負傷し,会館をまもりとおす原動力となった中国人の学生諸君の戦闘性にふれ,じょじょにではあるが国際主義が実りだした。最初に組織ができ,人間があつまったものでなく,最初から闘いがあり,それぞれの人がそれぞれの観点からあつまり,闘うなかから実戦的な政治的部隊ができたという意味で,この会館を支えた日中青学共闘会議の出生と,はたすべき役割は画期的であった。

 中国の同志らの闘いがたんに生活利益の擁護や,せまい愛国路線ではなく,たまたま日本の,それも東京を舞台にした「反修闘争」という国際共産主義運動の,より革命化の推進という点で,この闘争は世界的な色あいをおびたものであったことはいうまでもない。それが証拠に,右も左も口をそろえて「紅衛兵運動なら自分の国でやれ」といった反国際主義的合唱が各所でなされ,代々木が今や選挙対策上からではなく,本音から超国家主義集団となり,その唱和の音頭とりになりはて,ブル新で林健太郎あたりからも激励される徒党になったのも注目に値した。

 私の善隣会館闘争参加は,私の反修闘争への参加でもある。それはたんに宮本,野坂その他日共指導者の個人と闘うことのみを自己目的にするものではなく,その政治路線の総体と闘うことである。その路線上の対決点はソヴィエト修正主義団と中国人民の対決点同様「ヴェトナム革命戦争」への観点である。

 アメリカ帝国主義者が理不尽にも海を渡り,ヴェトナムに侵略戦争をおこしている以上,私はそれを政治取り引きの具にして“平和”をと考えはしない。徹底的にアメリカを叩きだすまで,勝利するまで闘いぬかねば(軍事的に)社会主義の資本主義世界に対する優位はありえないと考えていた。何年つづこうと戦う。口先で北爆停止を叫ぶソヴィエトに対し,中国は現実に侵略されている南ヴェトナムの民族解放闘争に重点を置く。日本におけるヴェトナム反戦闘争の課題も当然,修正主義化されないなら,基地問題,軍事生産,輸送の問題に,するどい形で,私たちは攻撃をかけなければならないはずである。

 最初,文化大革命は教育の問題から端を発した。大学,高校の教育制度を根本的に変えようとしたのだ。それは中国が西欧資本主義国家から百年は遅れた封建国家であり,資本主義過程を急いでとおりぬけなければならなかった苦しみから由来している。教育制度は当然,西からはいってきた。だが現代中国は社会主義革命をやっている。そこでは丸暗記学問を必要としないし,学位が問題になったりはしない。むしろそういう人間が政府や社会で高い地位を占めることをたえまなく警戒しなければならない。スターリンは文化革命をやらず,大学・中学の教育制度を基本的に変えることに対して右翼日和見をおかした。そのために大量の知識人をこしらえ,それらの知識人が現在,各省の大臣になったり,州書記や州ソヴィエト議長になっている。彼らが,いま中国でいうところの実権派になっているわけである。陳毅副総理は「五ヵ月間に一千万人以上の青年が文化大革命に突入した。すこしも誤りをおかさぬとはいえない。真の文化大革命は破壊をもたらすが建設ももたらす。――最初は大学制度の徹底的改革が目的だった。中国では十数万人ずつ知識人が増産され,一七年後には数百万人もの知識人が生まれて鍬,ハンマー,鉄砲をもって働くことができず,北京・上海にとどまって生活するようになってしまう」と『華僑報』二月二五日号で警告を発している。資本主義の教育か社会主義の教育にするかではじまった文化大革命はやがて,政治,経済の面にまで発展,「裏切り者の教育は不要」の観点を樹立したのである。

 あの善隣会館のせまい廊下には資本主義制度を是認する反革命修正主義と,けっして彼らに背をむけない社会主義の青年像が対立していた。ある華僑は「何年かかろうとも会館内からニセ日中を叩きだす」と,ひどく大陸的に茫洋とした年月をしめしながらも,叩きだすについてはなまなましい実感をこめて語っていた。

 アイジェット,ならびにその周辺の指導部が「階級闘争を平和的にやる可能性」を模索しているとき,インドネシア共産党とインドネシア人民は徹底的な打撃をうけた。修正主義を口先だけで批判しながら,民族ブルジョアジーとの同盟に無原則的立場をとりつづけたさい,インドネシア共産党はプロレタリアートの利益を優先せず,民族ブルジョアジーとの同盟に配慮をうばわれすぎ,結果的に,インドネシア革命に甚大な損害をおよぼした。インドネシア共産党の苦い経験は,国際主義運動の敵,修正主義がインドネシア共産党にとっても大敵であったことを,大量に流された人間の血でおしえた。アイジェットは「よき,さらによき共産主義者となれ」のなかで「現代修正主義は潜在的な危険ではあるが,さしせまった危険ではない」と断言してのべたが,それから短期間のうちインドネシア人民の革命運動は,はかりしれないほど大きい犠牲をだした。

 一九五七年三月,中国共産党全国宣伝工作会議における毛沢東の言葉をもって私の稿のむすびにかえたい。

 「マルクス主義の基本原則を否定し,マルクス主義の普遍的真理を否定するなら,それは修正主義である。修正主義は小ブルジョア思想である。修正主義は社会主義と資本主義の区別を抹殺し,プロレタリアート独裁との区別を抹殺している。かれらが主張しているのは,実際には資本主義路線である。現在の状況のもとでは修正主義は教条主義よりいっそう有害なものである。思想路線におけるわれわれの重要な任務の一つは修正主義に対する批判をくりひろげることである」。

 走れ,走れ紅衛兵!

(おわり)


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前田年昭 MAEDA Toshiaki
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