連載:滴水洞 001

63年哲学論文という先駆!



2006年07月31日00:26

前 田 年 昭

編集者

40周年になる文化大革命の歴史的総括を何回かに分けて考えてみたい。

総括の前提的立場として,今井恭平氏の「文革を失われた10年と描き,たんなるカオス,極左的妄動と描き,三角帽子を被せられたインテリの悲劇と描き出すことで満足することが,文革から何かを学ぶこと,何かの教訓を得ることになるのだろうか?それはむしろ単なるお粗末な精算主義であり,怠惰な忘却にすぎない」ももちゃん新聞2006.7.18付
http://blogst.jp/momo-journal/daily/200607/18 という指摘に同意する。

まず,第1回は文化大革命の哲学。毛沢東の哲学論文「人間の正しい思想はどこからくるのか」1963年5月
http://www.linelabo.com/maotsetu.htm は重要だと私は考える。文化大革命を準備した核心のひとつがここにあるからである。何が画期的で何が新しいのか。つまり,何が文化大革命を準備したといえるのか。

論文は「人間の正しい思想は……ただ社会の生産闘争,階級闘争,科学実験という三つの実践のなかからのみ生まれてくるのである」と指摘している。
生産闘争とは何か。人間の自然に対する変革の闘いであり,自然改造である。階級闘争とは何か。新しい階級の旧い階級に対する変革の闘いであり,社会改造である。科学実験とは何か。これには注釈が必要である。訳語が不適切だからだ。この論文で続けて「認識過程の第二の段階」と書かれている内容の,あらゆる分野,つまり,自然改造や社会改造も含めたあらゆる分野での「実験」であり,「実験」をつうじた,新しい思想の旧い思想に対する変革の闘いのことである。つまり,人間の思想変革,思想改造のことなのである。

毛沢東は,自然改造,社会改造,思想改造を「三つの社会的実践」だという,このどこが新しいというのか。日本の左翼は衒学的(ペダンチック)な言葉を散りばめた「××論」をありがたがっているうちに,思想と哲学の威力を理解できない輩が少なくない。情けないことである。

閑話休題。自然改造,社会改造,思想改造が「三つの社会的実践」というのはどういうことか。自然改造は資本主義でも「できる」。資本の利潤追求のために「列島改造」をやる。しかし,自然改造をやり遂げることはできない。「公害」など矛盾が噴き出ている。これを解決し,真に自然改造をやり遂げるためには社会改造が必要である。利潤追求のための階級を抑え込み,私心なき階級が社会をリードする必要がある。こうして政治制度を改めることは修正主義でも「できる」。しかし,社会改造をやり遂げることはできない。階級として私心なき階級といっても,それはあるがままの階級としては存在しないからである。旧い思想,文化,風俗,習慣は,政治制度が改まったからといってすぐには改まるものではない。思想改造が必要なのである。

ゆえに「三つの社会的実践」をさいごまでやり遂げる階級は,帝国主義に反対し,修正主義に反対する力,すなわち反帝反修の力を持った階級なのである。毛沢東が文化大革命の始まる3年前に書いた哲学論文「人間の正しい思想はどこからくるのか」はまた,文化大革命を準備する哲学的宣言でもあった,私はそう考えている。

(おわり)


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