連載:滴水洞 004

義侠や同情は変質してしまった?



2006年08月05日02:12

前 田 年 昭

編集者

文化大革命は「専門家」が「素人」をおさえつけ,「都市」が「農村」を支配する社会の基本原理に対する造反=むほんだった。これが主要で,基本的な性格であった。繰り返すがこれは正しい。

「専門家」に対する「素人」の,「幹部」に対する「ヒラ」の,「富と知識を持つ者」に対する「富と知識を持たざる者」の,むほんであり,叛乱,復讐であった。永年にわたって積もりに積もった想い,叫びに似た沈黙は,あまりに巨大であったから,噴き出したとたん,それは爆発し,行き過ぎを伴った。差別され抑圧された人びとのむほん,叛乱,復讐は世界中に瞬く間に波及した。むほんの権利の根拠として,中国では貧農や革命幹部などの出身という血統主義が強調された。日本では,在日朝鮮人,在日中国人,沖縄・アイヌの人びと,身体障害者,「公害」被害者,女性が,その存在ゆえの権利と革命を主張した。出身階級も階級区分も何もかも混然とし,嵐のなかにあった。行き過ぎは,革命を反革命に転じ,反差別を逆差別に転じた。現在は,「専門家」「幹部」「富と知識を持つ者」による巻き返しの時期である。

魯迅の「剣を鍛える話」は示唆的である。父の仇を討ちに行く眉間尺(みけんじゃく)の物語である。途中で出会った黒い男は「その仇討ちはかなわぬこと」「おれがおまえのために仇を討ってやること」を告げる〔以下,竹内好訳『故事新編』岩波文庫pp.104-105,『魯迅文集』第二巻pp.277-278〕。

《あなたが? わたしのために仇を討ってくださる? 義侠のお方》
《いや,そのような呼び方はおれを辱めるものだ》
《ではあなたは,わたしたち孤児と寡婦に同情されて……》
《いや,子ども,そのようなけがらわしい呼び名を二度と口にしてはならぬ〔中略〕義侠,同情,それらのものは,昔はけがれない時もあったが,今ではすべて卑しむべき高利貸の資本に変った。おれの心には,おまえの言うそれらのものは何もない。おれはおまえのために仇を討つ,それだけだ》

そう当時はもっとも革命的といわれた「紅五類」や「被差別人民」は再び抑えこまれ,嘲笑されるありさまであり,彼らのために社会運動,反権力運動をするなどということはカッコ悪いことになってしまった。日本では労働貴族が「弱者救済」の旗を掠め取り,「専門家」「優等生」の国家権力は,被差別部落や山谷・釜ヶ崎,沖縄にジャブジャブと銭を流し込み,人びとの魂を腑抜けにさせていった。まさに「義侠,同情,それらのものは,昔はけがれない時もあったが,今ではすべて卑しむべき高利貸の資本に変った」のだ。だからこそ,現在の,犯罪被害者による「犯人を吊るせ!」というヒステリックな運動は最も醜悪な,反革命なのである。

むほんの権利の根拠はどこにあるのか。魯迅は「剣を鍛える話」でこう提起している。

《でも,あなたはなぜ,わたしのために仇を討ってくださるのですか! あなたは,父をご存じですか?》
《おれは前からおまえの父を知っておる。前からお前を知っておるのと同様にな。しかし,おれが仇を討つのは,そのためではない。賢い子どもよ,よいか,聞け! おまえはまだ知らぬのか,おれがどんなに仇討ちの名人かを。おまえのは,おれのだ。それはまた,このおれだ。おれの魂には,それほど多くの傷がある。人が加えた傷と,自分が加えた傷とが。おれはすでに,おれ自身を憎んでおるのだ》

「おれの魂には,それほど多くの傷がある」というのはどういうことか。これこそ,カール・マルクスが『ヘーゲル法哲学批判』1844年で述べた「普遍的代表者と感じられ認められるような」「その階級の要求と権利とが真に社会そのものの権利と要求であるような」階級とぴったり符合する。「逆に社会の一切の欠陥が或る他の階級のなかに集中していなければならず,また或る特定の立場が一般的障害の立場,一般的障壁〔拘束〕の化身でなければならず,またさらに,或る特殊な社会的領域が,社会全体の周知の罪とみなされ,そのためこの領域からの解放が全般的な自己解放と思われるようになっていなければならない」〔城塚登訳岩波文庫pp.90-91〕

(おわり)


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