連載:滴水洞 005

暴力論1 ファノンの提起,ルネ・ジラールの問い



2006年08月10日21:45

前 田 年 昭

編集者

加々美光行さんが『資料中国文化大革命 出身血統主義をめぐる論争』(りくえつ,1980年)の「あとがき」で,

【「没主体」的な「知」に対する批判は堅持しつつ,「没主体」的な情念に対して無反省な形で六〇年代に突入してきた中国の情況は,ちょうど同じ時期,日本が「没主体」的な情念に対しては批判意識を持ちつつ,高度経済成長初期の「没主体」的な科学的「知」に対しては無反省な情況にあったのと,全く同じメダルの表と裏のような酷似した情況にあったのではないか? ……しかしながら一九七〇年代に入ると……中国における「没主体」的な科学的「知識」に対する批判の後退,日本における「没主体」的な情念に対する批判の後退は,むろん相対的に他の批判側面を弱めてきているとみなすこともできるだろう。】

と指摘し(私はなるほどと同意する!),さらに次のように続けていることは,いまも宿題のままになっている大切な問題であると私はかんがえている。

【では六〇年代末と七〇年代のこうした世界史的同時性は一体どこから発しているのか,と問うならば,明らかにベトナム戦争の激化と終息が大きな影響を与えてきたといわざるをえない。ベトナム戦争には「没主体」的な近代科学,「没主体」的な情念,そして「主体性」の立場といったここで論じたすべてのことが含まれていたのではなかったか?……
 ただ明確にいえることは六〇年代末に日本,中国をはじめ世界の到るところで提起された諸問題はおおむね「主体性」の立場から発せられた問いであったが,これらの問いにはほとんど何の回答も出されないまま一九八〇年の今日に至っているということである。このように問題にふたがされてしまったのは「主体性」の立場が暴力に対する深い洞察を欠いたまま闘争を武装化していったことと無縁ではないように思われる。
 中国における武闘,日本における一部の新左翼の極端な武力闘争への傾斜,アメリカにおけるブラック・パンサーの登場など,運動の中期以後に現われた現象は何を意味するのか?
 本資料集のあとに続いて出されるべき資料集は,それゆえこの暴力の問題を解明する課題を担うものでなければならないとわたくしは考えている。
 アルジェリアにおいてフランツ・ファノンが「地に呪われたる者」達の復権のために,暴力を肯定した時,それは主体性(ファノンの言葉では本質性)の回復のためであった。
 「没主体」的な科学と,「没主体」的な情念とが席捲することになると思われる一九八〇年代にわたくしはこのファノンの問いに改めて反問しなければならないと考えている。】同書pp.281-283


これは,六〇年代末の「革命的暴力」の,明らかな「積極的共犯者」であった私の宿題だ――そのような問題意識をもちはじめてから数年になろうか。昨年夏,文富軾さんの『失われた記憶を求めて 狂気の時代を考える』(板垣竜太訳,現代企画室,2005年)に出会った。1982年の釜山アメリカ文化院放火事件の「首謀者」として逮捕,投獄された著者による,運動と暴力をめぐる自省の書である。

そのなかで,文さんはルネ・ジラールの「欲望は暴力を生み,暴力は宗教を生む」という指摘をひいて,次のように書いているが,私はその箇所に線を引いてからいままで,ずっと気になっている。

【……この章の私の話は,彼が生前に投げかけた次のような問いから準備される。「暴力はどこまで合理化されうるのだろうか」。私はこの問いが暴力を行なった権力に対しても,どんなかたちであれその暴力に連累している私たち自身にも,同時に投げかけられていると思う。】同書p.77

(おわり)


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