連載:滴水洞 013

暴力論6 国家によって独占された暴力



2006年09月07日03:10

前 田 年 昭

編集者

国家による暴力の独占。アンソニー・ギデンズの暴力批判は,国内では(目的にかかわらず)一切の暴力を非合法とする国家が,国外においては(目的次第では)暴力を認めている――国際法は交戦権という「権利」を前提にする――というダブルスタンダードに対する批判へと向かう。

しかしこれは幻想であり,事実に合致していない。奴らのスタンダードはダブルなどではない。国内における監獄の存在,典型的には死刑は国内における国家権力がしかけた戦争のひとつの形態である。交戦権が「敵国」の存在を前提とすることと同様,死刑制度は殺すことが合法的に認められた「非国民」の存在を前提としている。

憲法九条を擁護するなら死刑廃止を不即不離のものとして追求しなければならない。交戦権放棄と死刑廃止を一体のものとして捉える闘いこそが護憲運動にはじめて生命力を蘇らせる。そうでない護憲運動,平和運動はウソ偽りに満ちたものであり,結局は人殺し制度を支え,延命させるものである。

文化大革命は「近代」国家が,諸個人から奪い取った《復讐の権原》《暴力の権原》を取り戻そうとした,大きな実験だったのではないか。

こう書くと,では文化大革命の批判大会や日大全共闘の大衆団交のような「乱暴な」やり方の先に何があるのか,と人びとはあせって尋ねるかもしれない。

「滴水洞011」で紹介した「討論」でも対論者の「では君は,人民の正義をいかにして規範化しようというのか?」という問いに対して,M.フーコーはこう答えている。

【その問いには,ふざけていると思われるかもしれないが,「これから発明しなければならない」とだけ答えておこう。大衆は――プロレタリアも下層民も――これまで何世紀ものあいだ,この正義に苦しめられてきたので,どんなに新しい内容を盛ってみたところで,その古い形態を彼らに認めさせることはもはや不可能だ。〔中略〕フランス革命も反=司法的な反抗であった。フランス革命が最初にふっ飛ばしたのが司法装置だったのだから。パリ・コミューンもまた根本的に反=司法的なものであった。/今後,大衆は,彼らの敵,すなわち個人的にであれ集団的にであれ彼らに害を及ぼしてきた者たちの問題を清算する手段を見つけていくだろう。懲罰から再教育まで,さまざまな反撃手段があり得るだろう。ただ,裁判所という形態だけは経由してはならない。】pp.138-139

【僕も君と同じで,階級の敵への応酬としての正義行為を,闘争の全体に統合されていない,その場しのぎの軽はずみな自主性のようなものに委ねておくわけにはいかないと思う。実際に大衆のなかに存在するこうした反撃の欲求については,議論,情報などをつうじて,それを精錬してゆくための形態を見いださなければならないだろう。いずれにしても,二組の当事者と,即時かつ対自として存在する正義に応じて決定を下す中立的な審級という三者体制を基本とする裁判所は,人民の正義を政治的に明確化,精錬してゆく上でとりわけ有害なモデルであるように思われる。】pp.140-141

【裁判所という形態そのもののなかには,とにかく次のような事態が見られるのだ。つまり,二組の当事者に向かって,こう告げられるのだ。「あなたがたの言い分は,事の初めから正当であったり不当であったりするのではなく,わたしが判決の言い渡しを行う,その日を待って,はじめて正当なものとなったり不当なものとなったりするのだ。言うまでもない,その日までに,わたしが永遠の公正さをもつ法律と裁判記録のすべてを繙き終えているからである」と。これこそが裁判所の本質であり,人民の正義という視点からすれば完全な矛盾なのだ。〔中略〕つまり,公明正大に,わが身のことなど毫も気にかけずに判決を下す――あるいはそのふりをする――人々がいることにしてしまうと,そのことにより,判決が正当なものとなるためには,それが誰か無関係の者,知識人,観念性の専門家によって下されなければならない,という考え方が補強されてしまう。〔中略〕何が人民の正義であるのか,という一般的なモデルを作り上げようとする時に,もっとも悪質なモデルが選択されてしまうのではないか,…】pp.140-142

実験であるから,成功もあれば失敗もある。行き過ぎもある。行き過ぎのない実験,失敗のない実験ならば支持するなどというたわごとは,自分が何もしない卑怯者であることの告白でしかない(フランスの五月を「革命」と呼び,日本の全共闘運動を「紛争」と呼んで,疑うことのないほどに言語感覚の歪んだ莫迦・渡辺守章からフーコーを取り戻さなければならない)。

《復讐の権原》《暴力の権原》を国家から諸個人に取り戻し,しかるのちに〈放棄〉してこそ,復讐や暴力は廃棄されるだろう。

※著作権が諸個人に真に取り戻されてのちに放棄,公開されて活きる,というプランについては,拙稿「技術が〈人間と労働〉にもたらしたものへの問いかけ 歴史のなかの知恵蔵裁判」2001参照。
 http://www.linelabo.com/chie0011.htm

(おわり)


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