連載:滴水洞 016

「わかりやすい説明」という陥穽



2006年09月19日08:12

前 田 年 昭

編集者

ちょっと前,『群像』2006年9月号で,大澤真幸さんが保坂和志さんとの「「自由」の盲点」という対談〔同誌pp.162-180〕で,文化大革命を総括するうえでも,とても面白い発言をしているので,少し長くなるが,学習ノートとして引用しておきたい。

【……ある衝撃的な出来事が起きると,たいてい,すぐに,それに対して,わかりやすい説明が,マスコミや評論家を通じて与えられ,流通します。学生なども,すぐにそういう流通している説明に影響されて,自分のレポートや論文に引用します。でも,わかりやすくて,誰もがすぐに納得してしまうような説明は,九十九パーセント間違っています。その出来事に最初に出くわしたときの衝撃を思い起こしてみれば,このことはすぐにわかります。そんな,どこにでも流通している説明や図式に回収できないからこそ,そもそも,衝撃を受けたわけです。でも,衝撃を受け,不安を感じている人は,自分の身の丈にあった,わかりやすい説明をまっていて,それに飛びつこうとするわけです。そういう説明で,衝撃や不安を解消しているだけです。

〔中略〕

 ただし,そういうときに,じゃあ当事者に話を聞けばすべてわかるんじゃないかと考えがちだと思うんですが,そこも気をつけないといけない。当事者であってもわかっていないところがあるんです。もっといえば,当事者自身もわかりやすい図式や流通している凡庸な説明に汚染されていることがある。当事者としても,聞かれれば説明せざるを得ないから,わかりやすく説明しちゃう。だから聞き方が重要です。

〔中略〕

 本人は恐らく,自分自身がいっていることに違和感を持ち続けている可能性があって,その違和感をどれだけ保つかということがすごく大事だと本当は思うんです。その違和感にどれだけ忠実になり切れるか。そこにみんな耐えられなくなる。どこかで違和感に妥協しちゃって,なかったことにしちゃう。

 僕が今大学の学部のゼミで,こういうのをやっているんです。まず,自分の興味のある社会的な問題を何でもよいから選びます。「クローン人間は許されるか」とか「安楽死は是か非か」とか,何でもかまいません。それについて,調べてきて,重要なことは,必ず,自分なりの結論を出させるんです。学生はすぐ両論併記みたいな形で終わらせようとするから,それだけではだめで,私はこうだというところまでいわせる。そのときに,微妙な問題がある。それは,どこまで違和感に耐えられるか,どこまで違和感を持続させることができるか,ということです。つまり,違和感に妥協しない結論を出せるかが,鍵なんです。

 例えば従軍慰安婦問題を取り上げたとします。おそらく,戦後生まれの今の学生にとっては,どちらの結論も,つまり右的な結論も,左的な結論も,どちらにも違和感を覚えるというのがほんとうではないでしょうか。そのとき,違和感をすぐに打ち捨てて,どちらかの結論に飛びついてはいけない。その違和感を,我慢してキープしながら,それを噛み殺さないような結論を何とか模索する。それが大事です。

 ちょっと話が迂回しましたけれど,どうしようもなく解消できない微妙な部分みたいなものにどれだけ忠実に文章を書けるかということです。私のことしか書いていない文章が,それでも人に訴えるものがあるのか,それとも,その辺はもう自分で処理してくれと突き放さざるを得なくなるか,そういうことが分かれ目になってくると思うところです。】pp.172-173

(おわり)


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