連載:滴水洞 018

「熱狂」という自覚的能動性の発揚こそが歴史をつくってきた



2006年10月05日09:37

前 田 年 昭

編集者

私は文化大革命は権力闘争で紅衛兵ら青年たちはそれに利用されたのだ,という見方,考え方には反対である。文革中も文革後も,そして今も,その立場である。第一そのような見方は私には馴染まない。それは「大東亜戦争で特攻隊として死んでいった青年たちは軍国主義に利用されたのだ」と教え続けた戦後左翼に対する不信の念と通じる。“騙された,バカで哀れな奴ら”という視線,そこに権力的な,啓蒙主義の思い上がりをみるからである。

人は騙されることもあるだろうが,一時的,部分的でしかない。日々働き,食って寝る,そういう日常をおくっている人間が身体をはって生命を賭すということには,時代と社会のなかでの何らかの自発性,自覚的能動性があるのである。権力争いが存在することを否定しようというのではなく,意見の対立の背後に必ず存在するはずの,対立の根拠となった社会的な事実と争点,これをとらえ,みていかなければ,歴史をつくっていく力は見いだせない,また死んでいった人たちの犠牲はうかばれない,と思う。

ここで考えなおしてみたいと思うのは,大躍進のことである。文化大革命に好意的な人びとでも,大躍進となるとほとんど否定的である。大躍進は1950年代末に行なわれた農工業の大増産政策であり,大失敗に終わった,というのが定説とされて久しい。

しかし,1944年技師として中国に渡り,以来35年,北京で人びとと苦楽を共にしてきた山本市朗さんの『北京三十五年』岩波新書1980,に次のようなとても興味深い記述がある。

【北京が下から盛り上がった「働け」「働け」の熱気にうかされて,無我夢中になって働いた時期であった。業種を問わず,地位を問わず,この時期ほどあやゆる部門の従業員の作業意欲の高揚した時期を,それ以前においても,それ以後においても,私は見たことがなかった。】下p.54

そう,人びとの自覚的能動性をひき出し得た運動だったのではないか。大躍進の力,文化大革命の力,これを私は考えなおしてみたいのである。「無我夢中になって働」けるというのはすばらしいことである。うらやましいことである。

〈翻身〉への糧でもあり,自らを表現するものとしての労働(下放)を,ふたたび「苦役」に,それどころか「懲罰」に,逆戻ししてしまったものは何なのか。誰なのか。

倦怠感のなかで,ただ日常を過ごしている,ひとりひとりが砂漠のように寂寥としたなかでばらばらに死んだように生きる,そのような社会が幸せであろうか。人びとが熱狂――ときにそれは「暴力的」なまでの昂揚を示す――のなかで,ひとりでは実現できない類的な生命力を発揮する時代と社会を私は望ましいものと思っている。

(おわり)


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