連載:滴水洞 020

「労働」をめぐる二つの路線の闘争



2006年10月10日11:09

前 田 年 昭

編集者

労働者農民が主人公である,とはどういうことだろうか。労働者農民が主人公である社会かどうか,はどのようにして判定できるのだろうか。

労働者農民が主人公という社会が実現していたら,労働者農民が尊敬され,労働者農民が社会で幅をきかせ,労働者農民の労働が尊敬されているはずである。少なくとも,「労働改造」と称して労働をいわば懲罰にはしない。はずである。悪い奴に罰として,敬意の対象である労働を与えていては,労働は尊敬されない。労働者農民は尊敬されない。

映画『夜明けの国』,半農半読学校でブタを飼育する場面がある。
「われわれの搾った牛乳や,取り入れた穀物が,中国の人民に,ひいては世界の人民に奉仕すると思うととても愉快だ,と一人の生徒は言った。」
このナレーションはとてもカッコいいと私は思う。

「満州国」皇帝であった愛新覚羅・溥儀の自伝『わが半生』にこんなくだりがある。
【…多くの人たちが,労働をあやまって神が人類に与えた懲罰だとみなしているのに,共産党員だけが,労働を正しく人類自身の権利だとみなしている】大安1965下p.215

『労農兵と結びつく道をあゆむ』外文出版社1970に収められている呉小明「永遠に貧苦牧民のよき継承者となりたい」にはこんなくだりがある。
【…学習をつうじてわたしは,貧苦牧民のなかで生活していながら,自分を牧民の上においていることに気がつきました。つまり苦しい仕事や疲れる仕事,きたない仕事は牧民がやり,自分は楽な仕事やきれいな仕事をやるのがあたりまえだ,という考えがあったのです。これでは,毛主席が教えているように,思想感情の面から勤労人民ととけあうことができましょうか。また勤労人民が自分を身内のように見てくれることができましょうか。】

こうした労働観を〈下放〉路線の労働観と呼んでおく。私自身,この立場観点をソ連型社会主義とはちがってとても新鮮なものとして受けとめた。それゆえ学校をやめ,3Kの肉体労働の現場に〈下放〉したわけである。

シモーヌ・ヴェイユの戦争と革命についての考察には惹かれながらもその労働観には強い違和感を感じる。『工場日記』を読むと,ひたすら痛い。
【第六週 10日……気分がすぐれなかったが,仕事をつづけた,――はやいスピードで。がんばった。しかも,しばらくたつと,一種の機械的な幸福感をおぼえた。これはむしろ堕落のしるしであろう……】

単調な反復労働のもたらす「機械的な幸福感」が,なぜ,どうして「堕落」なのか。

彼女は,歴史をつくるのは単調な反復労働の営々とした蓄積であること,社会をつくるのが単調な反復労働を担う人びとであることを理解していない。

他方で,精神労働は肉体労働より下位であり,労働は罰だと信じている観念に縛られている。あそらくそれゆえに,感性的認識である「機械的な幸福感」から理性的認識へと深めることを拒み,「堕落」と断じてしまっているのだろう。

典型的なインテリの自己憐憫である。

単調な反復労働の心地よい疲れのあとに呑む酒はサイコーである。そして人びとは食って寝る。

(おわり)


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