連載:滴水洞 022

暴力論7 暴力は絶対悪なのか



2006年12月26日14:33

前 田 年 昭

編集者

太田昌国さんの「〈民衆の対抗暴力〉についての断章」は,全共闘運動(文化大革命にも共通する)に参加した私たち自身の多くが自覚的に行使した対抗暴力の意味をふりかえろうとする労作である(季刊『at(あっと)』6号pp.94-100,2006年12月,太田出版,掲載)。全共闘運動,文化大革命をふりかえって考えようとするなら,ぜひ読まれるよう,私はすすめたいと思う。

1960年代,第三世界解放闘争の多くは武装闘争の道を選んでいた。【…「傍観者」にも深い苦痛がはしる。だが,どうできるというのだろう,武力をもって最初に侵略した者が誰であり,解放運動の主体はそれに対して武力をもって対抗するしかない,と知っているからには……。/当時の私(たち)の思考は,ここで止まっていたように思える。】

肯かざるをえない。そのとおりだからである。

暴力の問題を考えようとするとき,ふたつの大きな思想問題があるのではないか。ひとつは,暴力と戦争は「人間の本性」だとする考え方であり,もうひとつは,暴力と戦争が人間を狂暴なものに変えてしまうとする考え方である。

太田さんは慎重に,しかし明確に,第一の「人間の本性」論には組みしていない。賛成である。他方で,私がどうしようもなくもどかしく感じてしまうのは,第二の,暴力そのもの,戦争そのものを絶対的に悪とする見方,考え方に対するあいまいさに対してである。彼の真摯な正義感と誠実な思索には,そうそのとおりと共鳴しつつも,あまりにも,現在の「〈民衆の対抗暴力〉が有効性を失った状況」「現実によって次第に追い詰められていること」に目を奪われ,悲観しすぎてしまっていないか。それはまた敵を過大視してしまっていることに起因する見方,考え方ではないのか。

来年(2007年)は日中戦争70周年の年である。毛沢東は抗日戦争の1周年を前にした1938年5月『持久戦について』を書き,速勝論とともに亡国論にも反駁した。そのなかで

【われわれは革命戦争のなかにおかれている。革命戦争は抗毒素であって,それはたんに敵の毒素を排除するばかりでなく,自己の汚れを洗いきよめるであろう。革命的な正義の戦争というものは,その力がきわめて大きく,多くの事物を改造することができるか,または事物を改造する道をきりひらくのである。】(『毛沢東軍事論文選』p.284,1969年,外文出版社)

と指摘している。そう,全共闘運動の,そして文化大革命のなかの〈暴力〉は人々の魂にふれ,いかに生きいかに死ぬべきかを考えるようになった多くの人々を生み出したのである。全共闘運動の,そして文化大革命のなかの〈暴力〉は人々を崇高にもし,醜悪にもした。これが歴史的事実であり,少なくとも,暴力が絶対的悪であるかの見方,考え方には,私は組みすることはできないのである。

(おわり)


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