連載:滴水洞 023

中国革命の原点、中国共産党の創立精神



2006年12月29日04:14

前 田 年 昭

編集者

毛主席は折にふれて「農村作風」を強調した。その内容は次のようなものであった。

「軍隊のなかで、封建主義を一掃し、なぐったりどなりつけたりする制度を廃止し、自覚的規律をうちたて、苦楽をともにする生活をしていた」
「戦闘が終るごとに、指揮員と兵士たちは戦闘におけるかれらの行動の成功と失敗について、すわったまま率直な討論を交した。……兵隊たちは自由に上官の誤りや愚かな行動を批判することが許されていた」
「その苦しさは誰もおなじで、軍長から炊事兵にいたるまで、主食以外は一律に五分(フェン)ぶんの食事しかとっていない。こづかい銭を支給するにも二角(チャオ)なら一律に二角にし、四角なら一律に四角にしている」
「軍隊は経済的には自給していて、だれにも負担をかけなかった。また給料という形式のものはなかった。士官と兵士は、それぞれ一区画の耕地をあたえられており、もし、かれが戦争に出て不在であれば、他の人たちがその土地を耕したり、世話をしてくれた。士官のための特別のクラブや病院、食堂はなかった。しかも、士官は兵士と同じ軍服を着ていた」

これは【『毛沢東選集』一、二巻およびジェローム・チェン『毛沢東』から河地重造が抜粋したもの。「毛沢東の農民革命論」一九七一年、『経済学年報』三十一集】として、新島淳良が『歴史のなかの毛沢東』(野草社、1982年)で引いているものからの孫引きである。

私(たち)がソ連式でなく中国式の社会主義に惹かれた理由のひとつが、こうした「農村作風」に裏打ちされたコミューンへの志向にあった。ここにこそ、中国革命の原点があり、中国共産党の創立精神があった。

“資本主義の道をあゆむ党内の実権派”との闘いは、全国的に政治権力を奪取する前も、奪取して後も存在したはずである。闘いは党内ではどうであり、党外ではどうだったのか。他の党派に対してはどうだったのか。中国革命の原点であり、中国共産党の創立精神であった「農村作風」はどう受け継がれ、貫かれたのか。長征の時期、抗日戦争の時期はどうだったのか。そして文化大革命の時期はどうだったのか。

九全大会(1969年)は、病をなおして人を救う立場から劉少奇らを除く大多数を団結させる大会となるはずだった……。文化大革命は、先行した農村における社会主義教育運動を都市へと拡大する性格をもっていた。すなわち、「農村作風」の都市への波及によって、「都市化」「近代化」と対峙しようとしたのである。残された課題は、ひとつは出身階級決定論への根底的批判であり、また、党外や他党派との団結の問題だった。思想の質としては、「農村作風」を導きにして、革命をいっそう大衆の事業にすることだった。

(おわり)


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