連載:滴水洞 024

革命から過剰を奪い去るという偽善的欲望は、革命なき革命を欲することにすぎない



2006年01月11日13:43

前 田 年 昭

編集者

40年前(1967年)1月9日,毛沢東が中央文革小組に「上海全市の人民に告ぐる書」を『人民日報』に掲載するよう指示。同年2月5日の「上海人民公社(上海コミューン)」成立宣言はその1か月後であった。

スラヴォイ・ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』岩波書店2005年,は面白い。知的刺激に満ちたこの本は,訳者・長原豊さんによる巻末の「書誌的説明」で明らかにされているとおり「オリジナルとは異なる,いわば岩波版」,すなわちジジェク+長原版である。

「贖いの暴力」と題されたVII章はとくに示唆に富んでいる。「革命は,われわれが未来の世代の幸福と自由のために堪え凌がなければならない現在における苦難として経験されるのではなく,この未来における幸福と自由がすでにそこにその片鱗を見せているような現在における苦難として経験される」とするジジェク+長原さんは,「非常なる解放的潜勢力を解き放った出来事」における暴力について述べている(同書pp.129-150)。

【エイゼンシュテインの映画的シーンの原型とも言うべき,革命的な破壊的暴力の横溢する放縦(エイゼンシュテイン自身が「紛れもなく破壊的などんちゃん騒ぎ」と呼んだこと)が起きたが,それもまた一連の同様の出来事に属している。《十月 October》(一九二八年作品)では,勝利をおさめた革命派は冬宮のワイン・セラーに押し入り,高価なワインを大量に叩き毀すといった恍惚に充ちたどんちゃん騒ぎに浸ったし,《ベジン高原 Bezhin Meadow》(一九三七年作品)では,村の開拓者たちが自分の父に惨たらしく殺された若きパブリクの死体を発見して,教会に押し入り,その遺跡を奪い取り,イコンをめぐって諍い,その神聖さを冒涜するために法衣を羽織ったり,彫像に対して異端的な嘲笑を浴びせかけたりするなど……ありとあらゆる神聖破壊をおこなった。こうした,その目的だけに縛られた道具主義的な行動を宙吊りにしてしまう行為によってこそわれわれは,事実上のある種のバタイユ的な「制限なき消尽」を獲得する。したがって,革命から過剰を奪い去ってしまうという偽善的な欲望は,革命なき革命を欲することにすぎない。こうしたことを背景としてわれわれは,解放のための真正な行為であり,たんなる行為への盲目的な移行ではない革命的暴力というデリケートな論題に接近せねばならないのだ。
 まったく同様のシーンを数千もの紅衛兵が旧い歴史的モニュメントを憑かれたように破壊し,旧い壺を叩き壊し,旧い絵画の表面を塗り潰し,旧い壁を削り取るといった振る舞いをみせた,中国の文化大革命にも見いだすことができないだろうか? その全面展開する恐怖にもかかわらず(あるいはむしろ,それがゆえに)文化大革命は紛れもなくそうした実演されるユートピアの要素を含んでいた。毛自身がそうした行為を阻止する前に……,結果的に「上海コミュン」が出現し,国家さらには党それ自体の廃止や社会の直接的なコミュン的組織化を要求しながら,公式的なスローガンを真剣に叫ぶ幾万もの労働者が登場することになった。…】

まさに毛主席が言っているように「あやまりをただすには,度をこさなければならないし,度をこさなければ,あやまりはただせない」し,「革命は,客を招いてごちそうすることでもなければ,文章をねったり,絵をかいたり,刺しゅうしたりすることでもない。そんなにお上品で,そんなにおっとりした,みやびやかな,そんなにおだやかでおとなしく,うやうやしく,つつましく,ひかえめのものではない。革命は暴動であり,一つの階級が他の階級をうちたおす激烈な行動である」(『湖南省農民運動の視察報告』1927年)。

(おわり)


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