連載:滴水洞 番外01

魯迅没後70年に際して



2006年10月20日00:32

前 田 年 昭

編集者

ことしは魯迅が死んでから70年にあたる。魯迅が上海で亡くなったのは1936年10月19日である。この年は,日本の2・26事件,ヨーロッパのスペイン内乱の年でもあった。

当時,中国の文壇では抗日民族統一の闘いをめぐって激しい論争のさなかであった。魯迅はだれよりも抗日民族統一戦線の実現を望む立場であった。しかし,その志をとおそうとするがゆえに,安易な妥協による統一戦線結成には反対した。このような魯迅の態度は非政治的で大局を認識しないものとして,「左翼」の主流から非難され。攻撃された。少数派であった魯迅は,その論争の真っ只中で戦死したのである。

私が魯迅から学んだことは多い。今夏,文革(文化大革命)の総括をやろうと決心したのもまた,私なりに魯迅の精神を見習って,のことである。

1925年から29年まで魯迅は許広平とかわした手紙『両地書』のなかでこう書いている。

【進取的な国民の中では,性急さも結構だが,中国のような麻痺した場所に生まれた以上,それでは損をするあDけです。どんなに犠牲をはらったところで,自分をほろぼすがせいぜい,国の状態には影響がありません。たしか以前,学校で講演したときも言ったと思いますが,この国の麻痺状態を直すには,ただ一つの方法しかない。それは「ねばり」であり,あるいは「絶えず刻む」ことです。コツコツやっていって,ともかく休まなければ,その効果は一時の「談論風発」に劣るとはいえぬでしょう。むろん,こうやっていると「苦悶,苦悶(この下にあと四つと……)」に陥ることがあるが,そのときはこの「苦悶」……に反抗するまでです。これは人に,辛抱して奴隷になれと勧めているように取られるかもしれないが,じつはその逆です。満足して喜んでいる奴隷には望みはないが,もし不満を抱くならば,ボツボツ有効な事業を仕遂げることはできます。】竹内好・松枝茂夫訳,筑摩叢書1978,p.45

最初の中国という言葉は,そのまま日本におきかえて読む。寂寞,日本のいまの寂寞そのものである。しかし,論争が生きていた時代がそう遠くない将来にかならずやってくると確信する。なぜなら魯迅のいうところの「しばらくは安全に奴隷でいられる時代」(『魯迅文集』第三巻p.149)は終わり、「奴隷になりたくてもなれない時代」(同)がそこまでやってきているからである。その嵐を準備よく迎えるために,コツコツと文革論としての「滴水洞」を書き継いでいきたい。

(おわり)


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