装丁/ブックデザイン/書物はだれのものか




2003年9月

前 田 年 昭
précaire編集者,元 組版者

『ユリイカ』2003年9月号 所収

だれのために,だれに対して,語られているのか。一部で語られる「書物の危機」とは,書くことを独占してきた人びとの悲鳴ではないのか。電子メールの普及が象徴するように,書き手と公衆とを隔てる垣根が低くなりつつある現代は,読者が同時に書き手になる時代の全面的到来を告げようとしている。競争に投げ込まれる,商品としての書物の姿はますますジャケット・カバーの表1で目立つことにかかる。結果,書店で背(文字)が並ぶ風景は退き,ジャケット・カバーの“面出し”にとってかわる。パーソナル・コンピュータとインターネットの普及,オンライン書店がこの傾向を加速する。新聞の見出しのランクは平準化され,記事は並列化していく……。近代の精神と知は職人・技術者の仕事にならい,機械と技術の模倣を必須とする。ブックデザイナーはアプリケーション操作法に習熟せねばならず,国文学研究者はスクリプト言語の習得から始めねばならない……。書物をつくったのはだれか。装丁/ブックデザインはだれのものか。
ブックデザインを思考する言葉が奪われている 日本における装丁/ブックデザインをめぐる言葉は現在,どのような状況にあるのか。
 装丁(装幀)や造本を書名の一部にした本を改めて十数冊読んだが,装丁/ブックデザインの世界ではこれこれこういうことが常識になってるんだよ,と説教されているようで,思わず「水性キンチョール」コマーシャルの大滝秀治をまねて「つまらん,お前の話はつまらん」とつぶやいてしまった〔注1〕。日常の書物への思い,たとえば文庫本で,某A文庫は本文の書体や組み方が汚くて読書意欲をそぐ,某B文庫はページが外れたり背が割れたりするほど綴じが弱い,某C文庫はカバーデザインのタイトル文字が下品なまでにデカイ,――など,書物/装丁/ブックデザインは,代金を支払った私自身のものにはなっていないという苛立たしさはどこへ持っていけばいいのだろうか。言葉は奪われたままだ。
 そんなときに,これをとおして装丁/ブックデザインの現状を考えてみようと思う本に出会った。新刊の『BOOK DESIGN NOW 2003 出版・装丁・紙の今をみつめる』(2003,六曜社)である。2003年6月21日から静岡の特種製紙総合研究所Pamで開かれた同名の作品展(主催は特種製紙と日本図書設計家協会,後援は日本書籍出版協会と日本雑誌協会,会期は9月13日まで)の図録である。153人の「出品作家」による「2000年以降に制作された近作」から一冊ずつのカラー写真(手札サイズほどの大きさ)と顔写真,コメント,略歴が収められている(イラストレーター,挿画家なども「作家」に含まれている)。巻頭には主催団体のあいさつとともに特別寄稿として臼田捷治「デザインの変容と「物質」に託された想像力の行方」が,巻末には展示作品リストとして用紙の銘柄の一覧,作家リストとして住所,電話とファクシミリの番号,メールアドレスが付いている。
 作家コメントは組まれたものから推測すると一人150字見当で募られたのだろうか。しかし,コメントなしの人びとが12人,全体の8パーセントもいる。それぞれの思いはそれぞれに個別にあるだろうが,他の人びと(複数)が率直に仕事の金額が安いことを述べたり,お仕事くださいと営業の口上を述べたりしていることを考慮に入れると,ノーコメント派は,“ブックデザインなんて言葉で語るものじゃないぜ,作品をして語らしめよだぜ”と主張しているように思え,これはこれで近代の美学の主流かもしれない。が,ブックデザインが言葉「によって」実現されるものである以上,ブックデザインの言葉にならない面を強調し,そこに閉じ篭もることはブックデザインの自殺行為に思える。
 装丁/ブックデザイン論議が現在,書物を受容する読者を置き去りにしてしかなされていないという「つまらん」状況にある(と,とりあえず断定!)とき,まず「作家」自身が装丁/ブックデザインをどう捉えているかについての言葉を拾い出しておきたい。
 語られたコメントは次の三つに分けることができようか。
 第1は,デザインはテクスト(本文,タイトル)に対して,またデザイナーは著者に対して,それぞれ“控えめ”であるべきという考えである。とりあえず,“遠慮深い第二ヴァイオリン派”と名づけておくことにする。
 ブックデザインに限らず、デザインはすべてそうなのかも知れないが、特に書籍のデザインは縁の下の力持ちでありたい。力不足は勿論危険だが、必要以上にデザインが力を発揮して目立ってしまうと、家が浮き上がって危ない。過不足なく支えて、著作物本体の力が充分に発揮出来るような援助をしたいものだ。(杉浦範茂)

 本来、良いブックデザインとは、著者の作品への思いや、版元の方向性・流通の事・書店の事・そして当然読者の事、全てを視野に入れてクリエイティブする事が大切であり、間違ってもデザインする側の自己満足にならないようにする事が、プロフェッショナルな行為だと考えます。(荒木慎司)

 ブックデザインは「料理」に似ている。生きの良い素材であれば、手を加えるのは最小限度でよい。素材自身が放つ香りや光を妨げないように、邪魔な要素を一つ一つ取り除いていく作業である。人為的によけいな飾りをつけ加えようとする発想は、決して人の心に訴えるものを持たないと思う。(奥谷晶)
 第2は,先のコメントとは対照的に,読者が手にとるとらないを決めるのも本の外まわりしだいだという考えであり,どちらかといえば自信を持って表明されている。これは“カバーは顔だ,ポスター派”とでも名づけることができる。
 本は読むが[ママ]第一義でなくなった。コンピューター、コピーの発達により、書物として所有したくなる魅力的な存在物であるべき時だ。内容だけでなく形体が不可欠。本は本として愛蔵されるための強いデザイン力が要求され、先端的な素材と時代感覚を有する知の存在物として、芸術を志向するものとなる。(山本美智代)

 装丁は扉(ドア)のようですね。これから始まる物語のイメージを知らせます。展覧会を観に行くような気分で本屋さんに立ち寄ることがあります。たまに、目を引く美しい表紙の本を衝動買いしてしまったりします。扉(ドア)一つで手に取ってもらえたりもらえなかったり。装丁って難しいですね。(石橋富士子)

 造本設計の仕事は楽しい。カバーの制作は、通り過ぎる人を一瞬ハッとさせるポスター造りの面白さに似ている。本表紙から本文頁には、緩やかな時間の流れの中に、本を手にする人への想いを重ねて造る嬉しさがある。それらは、その時代の証言の「形」となる。(宇野泰行)

 道ですれ違う女性の横顔や佇まいに心を奪われ、一瞬で恋に落ちるように、本も装丁や造本をチラリと一瞥したり、中身をパラパラやった段階ですでに香ってくるものがある。いやむしろ恋愛も本の価値もそこが勝負とまで言い切りたい。書店を歩く人々の心を、そんなふうにして捕らえる本が良い本なのだ。(中田薫)
 第3は,その他。テクストとの関係,執筆者との関係について何らかの思いや考えを述べたコメントであるが,モノとモノの関係も結局は人間関係である。著者や編集者への鬱屈した(?)思いを吐露している。
 一人でやるに限る。(香取正樹)

 装丁は、趣味ある職人でありたい、と思っています。装丁家でなく装丁屋でなく、単なる「装丁」。アレコレ口を出されるのはキライ、信頼されて誠実に仕事する、というのが理想です。(南伸坊)
 とは言っても,本づくりは共同作業でしかありえず,関係する組版,製版,印刷,製本などの仕事をする人たちとのコミュニケーション抜きには成立しない。このことは,装丁/ブックデザインの作者とはだれかという問題として後で考えてみることにする。
 コメントのなかに「シンプル」とか「シンプルで美しい本を作りたい」などとある一方で「当然のようにシンプルがベストではない[…]」というコメントもあり,それぞれの作品の写真をしげしげと比べてみたが,対立しあう言葉で表すほどの違いは見いだすことはできず,似たようなものじゃないかと思った。デザインはデザイン,言葉は言葉,これはこれ,それはそれということなのか。ことほどさように装丁/ブックデザインをめぐる言葉は軽い〔注2〕
 結局のところ,第3は別にして第1と第2の考えは,装丁は本文テクストとは別に「ある」ものという,根っこのところでは共通した考えのうえに立っていて,表現だけが異なっているのではないか。

世界を「分ける」こと 装丁/ブックデザインがだれのものかを検討する前に,それがどこからどのようにして生まれるかを考えたい。装丁/ブックデザインのアイデア自体が「作家」が元々内在的に持っているものなのかどうかということである。
 あるとき,あるブックデザイナーと話をしていてその場にいない別のブックデザイナーのことが話題になった。「○○さんは行き詰まって頭でしか考えてないんじゃないか」と。その発言は,発言者であるそのブックデザイナーが鏡を見て,つまり自分自身のことを言っているように私はふと感じた。もっとも,その場ではそうは言えず黙っていた。なぜならその会話の少し前に,当の○○さんから逆に先の発言したデザイナーのことを「××さんは頭でしか考えてないのではないか」と評する言葉をきいていたからである。
 母親の胎内から生まれた人間はどのようにして言葉をおぼえ,生きていくのに必要な知識と情熱を学んでいくのか。一人ひとりのちがいは社会的に決まるのであって,けっして血液型や星座などによって決まるのではない。最新の科学は,子どもは生後20か月ごろ語彙数が50語を超え「語彙爆発」を起こすことを明らかにしている。人間が概念についてもっている素朴な考えを「制約」にして,素朴に考えたらありえない可能性を最初から排除することによって,はじめて聞いた言葉にその意味をとりあえず与えてゆくという。では人間が概念についてもっている素朴な考えとは何か。概念は,物理的な実在,できごと,抽象的概念に分けられる,物理的な実在は自然物と人工物に分けられ,できごとは意図的なものと非意図的なものとに分けられるという〔注3〕
 世界をこのように「分ける」ことから概念を学び,思想が生まれる。
 「分ける」ことは対象に対して何らかの働きかけをして「知る」ことと一体である。自然に対して,人工物に対して,そして人に対しての働きかけである。主体的,能動的な働きかけがなければ知ることはできない。世界を「分ける」こととは,人間の自然に対する,人間の人間に対する,そして人間自身の旧い認識に対する働きかけと闘争である。これを生産闘争,階級闘争,科学実験(思想闘争)の三大実践と言ったのは毛沢東である。彼は,感性を出発に据え,実践と行動のなかで飛躍を得,豊かにしていくという人間の思想認識のプロセスを明らかにした〔注4〕
 装丁/ブックデザインの能力もまた,一人ひとりのデザイナーの先天的なセンスもあろうが,基本的に認識とアイデアの力は,後天的に,社会的実践のなかで形成されるものである。
 認識とアイデアの能力の形成のすじ道がそうであるならば,言葉で闘う文筆家と装丁家/ブックデザイナーは同じではないが,そこに感性を理性化,意識化する,つまり言葉にする努力と闘いがあるはずだろう。
 ブックデザイナー・鈴木一誌は『ページと力 手わざ、そしてデジタル・デザイン』(2002,青土社)のなかで,次のようにデザインの批評は不在だと指摘した。
 […]デザインは、ことばによって思考され実現されるが、具現化されたデザインは、思考されたことばとおなじではない。[…]/デザインのことばにならない側面だけが強調され、作者であるデザイナー自身も、見えているものを記述することを恥じ、その結果が批評の不在を招いた。ある文章は新しい作風の紹介であり、ある言説は商品としての分析だし、ある記述は歴史のなかでの位置づけでしかなかった」(同書108頁)
 不在の証明は存在の証明より難しい。書誌学でも歴史学でもその他の分野でも,たいてい存在の証明は“事実”を挙げることによってほぼ勝負がつく〔注5〕。不在であることの証明はそうはいかない。デザイン批評が見いだせていないからといって,不在だといえるのか。
 批評とは何か。書評や映画評を人びとが読む。人びとが本を買ったり映画を見たりする,そのきっかけになったり,どれを選ぶかを判断するひとつの根拠ともなる。そういう日常の,繰り返されるあまたの事実を根拠に,書物や映画への批評の存在を証明する論理は成り立つだろう。援用し拡張して,ブックデザインについて書かれたものをきっかけにデザインされた本を買うことはあるかどうか考えてみれば,しかしこれはあまりない。また,漫画家黒田硫黄は自作『茄子』の帯に賛辞を寄せてくれた宮崎駿の,『千と千尋の神隠し』という作品に対して「他人の善意によっかかってるだけにも見える」と率直な批判を行なったが,こういう批評的関係はブックデザインの世界ではないと断定してもいいだろう。
 さらに,批評を単なる印象批評に終わらぬものとして,自身の感性(印象と感動)を自己分析し,たとえば,なぜそのサイズ,その書体の文字をそこに並べ,なぜそこで改行するのか,なぜこの罫線とその罫線との間隔を2歯(0.5ミリ)アキにするのか,……などという,装丁/ブックデザインの具体的な作業を対象化して解き明かすことであるとすると,皆無とは言わないが少ない。先に述べたように「シンプル」という言葉ひとつとっても,共通の理解と認識が得られる,定義が明示された,装丁/ブックデザイン批評の言葉にはなり得ていない。
 装丁/ブックデザインについての言葉を取り戻そうとするとき,書物をめぐって日常繰り返されるあまたの事実から私は考察を始める〔注6〕
 通勤電車のなかや喫茶店で,読者はなぜ,本を包んで読むのか。書店ごとの包装カバーには確かに素敵なものも少なくない。汚れるから,という。それもあるだろう。しかし,ある人びとは書店の包装カバーは捨てて,本のジャケット・カバーを裏返しにかけて読んでいる。裏は白いからよけいに汚れる。と考えると,汚れないようにという理由だけでは説明できない。むしろジャケット・カバーのデザインが好きになれず,恥ずかしいので見られたくないから,ともいう。それもありそうだ。自分が考えていること,思っていることの一端が,読んでいる本の書名として,他の人びとの目にさらされることに恥ずかしさをおぼえる,そういうことは私にも確かにある。
 ジャケット・カバーや帯は着物なのだろうか。そうすると,まだ買ってない本を書店で眺めたり,手に取ったりするときにはカバーを見ているにもかかわらず,買って自分の本になったとたんに隠す気持ちも説明できるかもしれない。二人っきりのときはいつまでも眺めていたい愛しい人の胸元だけど,連れ立って出かけた人ごみのなかでは逆に,あまりに露わだと隠したくなるような,そんな気持ちに通じるのだろうか。
 本は,そして人はどんなときに着物が必要なのか〔注7〕。帯はなぜ付いているのだろう。腰巻ともいうけれど,あんなものは必要なのだろうか。書店の包装カバーを着物とたとえると本のもともとのジャケット・カバーは下着なのか。いや,書店に華々しく並べられている本のジャケットは下着ではなく,よそ行きのおしゃれ着になるのか……。どうやらたとえ話を続けるには無理があるようだ。本のジャケット・カバーを取ってしまったときに剥き出しになった表紙はカッコいいものが少ないのはなぜだろうか。
 装丁/ブックデザインは包み紙といったほうがいいのだろうか。包み紙といえば美術家・赤瀬川原平である。30年ほど前,名作「櫻画報」を連載していた『朝日ジャーナル』の,他の記事から表紙までのすべてを包み紙呼ばわりして論議を呼んだことを思い出す。もっとも私はといえば,あれが包み紙だとしたら,あんなに読みでがあってお得なのはなかなか素敵,と思った当時の記憶は今も鮮明である。

装丁/ブックデザインは書物の「外」にあるのか? 装丁/ブックデザインが包み紙だとすれば,装丁/ブックデザインは本の何を包んでいるのだろうか。そもそも装丁/ブックデザインは本の外側にあるものなのだろうか。
 人間の腸は顔についている穴と尻についている穴との二つの穴をつないで,人体の内側に存在する。その上の口と下の口とをつかんで表と裏をぺろっとめくり返し,こんどは外側になった粘膜に開口したあちこちのくぼみを外に引っぱりだしたら,ちょうどそれが樹木の幹と同じだという。そのまわりには血管がとりまいていたり,神経や体液の腺が走っていたりする。引っぱりだされたくぼみは,植物の葉であり根であり,根を張った植物は動物にとって初期で,太陽や外の自然は植物にとって初期の姿だという。この発生を逆にたどれば動物から植物,さらに自然の姿に,人間の身体の起源をみることができる。思想家・吉本隆明の紹介〔注8〕に惹かれて,解剖学者・三木成夫の本〔注9〕を読んだらそう書いてあって,その受け売りであるが。自然を大切に,などというが,その根拠として人間も植物の器官を自身の腸管として持っていることがあるんだ,と,これは吉本の指摘だが,びっくりするほど納得がいく。「人間的自然と自然的人間」などというマルクスの言葉も浮かぶ。
 いずれにしても,内側は外側で外側は内側だというのである。ふと思ったのは,世界を内側と外側に「分ける」ことは,装丁/ブックデザインにかぎらず,書物そのものの本質ではないかということだ。
 携帯電話「FOMA」のテレビ・コマーシャルで面白いものがあった。人気俳優の坂口憲二が「かつての同級生」役と画面付き携帯電話で話す。バスケット部の鈴木って覚えてるかときかれ,そうそう“マネージャー,おかっぱの……”,ここで携帯電話の小さな画面にその鈴木が突然,現われて言う,「おかっぱの鈴木でーす」と。画面のこちらでは彼女の出現にちょっとびっくりしているが,画面の向こう側では最初から二人は仲良く並んでいた。この携帯画面の“枠”にあたるのが,世界を切り取って見せてくれる書物ではないかと思う。
 2003年6月,チリの海岸に漂着した巨大な肉塊のような灰色の物体の正体について,サンティアゴ自然史博物館の科学者は三週間かかってマッコウクジラの死骸と結論付けた。科学者らは声明で「DNA鑑定は不要だ。サンプル分析の結果,この種にだけ存在する皮膚腺であることが判明した」と述べた。科学者らによると,マッコウクジラが死ぬと,体が腐敗し,皮膚と脂肪層でできた半液体状の物体の中で骨格が浮遊した状態となる。その後,皮膚が破れ,骨格が海中に沈む一方,皮膚と脂肪は浮上する。科学者によると,この時浮上した中身が,タコのような形をしたまま海岸に打ち上げられるという。
 たかが皮,されど皮。けっしてあなどれない。皮で「分け」られてなければ,モノとして認識しえず,ただ気味が悪いだけのぶよぶよした何かでしかない。「名もない草です」との付き人の発言を昭和天皇が「名もない草などありません」とたしなめたという話は,出典は知らないが,さもありなんと思う。世界はすべて自分の認識のもとにあると信じる帝王たちは蒐集や分類が好きだ。だが名づけは分類の基礎であるが分類そのものではない。分類とは世界の切り分けかたであり,言葉と密接に関係している。言葉を共有することで,共有された言葉において世界を共通の世界として捉える。
 デザインすることは,デザインを言葉に表し,言葉によって考えていくことによって支えられる。批評の言葉の不在は批評の不在を裏づけている。装丁/ブックデザイン批評の不在とは,批評を批評たらしめる哲学の不在である。
 先に着物や包み紙へのたとえを検討したのは,装丁/ブックデザインが書物の外側にあるというものの見方,考えかたを,一度は疑ってみて,根っこのところから検討したいと思ったからである。
 装丁/ブックデザインは書物のどこにあるのか。
 内容と形式,テクストとデザイン,中身と器……,これらについての二元論が存在するのではないか。“遠慮深い第二ヴァイオリン派”も“カバー(表紙)は顔だ,ポスター派”も二元論である。ちがいはただ,前者が内容やテクスト,中身の側を主要と主張するのに対して,後者が形式やデザイン,器の側が重要だと言い返しているにすぎない。いずれにしても書物はテクストとデザインとの二つの柱によって成り立っているという捉え方,考え方である。
 そしてこの二元論のおおもとには,解体すれば「素のテクスト」が文字のレベルで書体やサイズ,ルビ,文字列から行,ページのレベルで行長,行送りと行数,ノンブルや柱という衣を順にまとっているのが書物だという捉え方がある。言いかえれば,いっさいの夾雑物を脱ぎ捨てた「素のテクスト」が存在するという考えかたであり,順番に着せた「外側」は順番に脱がせることもできる,というわけである。
 「素のテクスト」が存在するという思い込みはどこにたどりつくのか,そのことを戯画的な事実としてあからさまに見せてくれたのが,1998年ごろ“コンピュータでは文字が足りない”と社会的に論議をよんだ「文字コード問題」だった。東大(GT)明朝プロジェクトのリーダーであった田村毅,山口明穂らは,筆写文字の伝統を受け継ぎそれをデフォルメしたデザインとしての明朝体活字の,ウロコとよばれる転折・終筆部を,不要な「かざり」と言い放ったのである〔注10〕。「素のテクスト」一元論者は,現前するモノのなかに蓄積されている,人びとの伝統と歴史が見えない。
 生物が無生物的自然から植物,そして動物,人間へと連なっているように,書物もまた,単純な構造のものから複雑な構造のものへと連なっている。「素のテクスト」だけは自分のものとして自分で持っていたいと考える著者が,組版・印刷者に対して,校正の赤字を直した最終のテクスト・データの引き渡しを求めてくることは少なくない。しかし,組版された書物は,組版情報を付加されて組みあがった姿として存在しており,着物を脱がせるのも,一律にはいかない。小説などは比較的に容易であるかもしれないが,これとて,京極夏彦の作品のように,改行位置と改頁位置までストーリーの進行にかかわって設計されている書物から「素のテクスト」を抜き出したところで,はたしてそれが「作者」が自分のものと思い込んでいる「素のテクスト」そのものなのか。まして,辞書や辞典,事典などをみればわかるようにテクストのつながりは決して単線ではない。データを一意に配列し直した各種索引が別途必要なゆえんである。また,組まれた姿自体が新たな情報となっているため,すでに「原型」をとどめていないところから「素のテクスト」を抜き出す努力はあたかもらっきょの皮むきのようなものである。徒労の果てに残るものは“自分探し”と同様,実は空っぽである。
 内容と形式,テクストとデザイン,中身と器……,は互いが互いを成り立たせているため,一方が存在しなければ他方も存在しない。二元論の土台になっている,形式のない内容,デザインのないテクスト,器のない中身……,これらが存在するという捉え方は錯覚である。それは基本的には,何が何であるかすら容易には判明しないマッコウクジラの死骸のようなものでしかないのである。デザインのないテクストとは,さながら皮と骨を失ったマッコウクジラのぶよぶよした脂肪のようなものであると言えば言い過ぎだろうか。
 私はかつて,書物をつくったのはだれかについて次のように書いた。
 物が精神的なものとなり,すなわち資本が精神的なものとなり,人が物となるという逆転がおこる。テクスト−組版,内容−形式,なかみ−かたち等々の対立において,前者がより始源的であり,後者は従属的であるかの観念が強まる。その観念がきわめて歴史的に限られたものでしかないことはおおいかくされている。価値は社会的生産労働が生み出しているにもかかわらず,肉体労働と分離してしまった精神労働を占有する資本によって,作家主義は支えられる。ここでは人間の思想の土台には個別的な社会的実践が存在していることが意図的に忘れられている。〔注11〕
 装丁/ブックデザインとは何か。
 書誌学者・寿岳文章は「作家と装幀」(『書物の道』1934,書物展望社所収)で次のようにいう。
 装幀と云ふ言葉の内容についてはいろいろの説が行はれてゐるが、語義はどうであらうと、これを「書物に物質的形態を附与する一切の条件」と定義するのが、工芸的な立場から見て一番いいと私は思ふ。屡々私が言つてきたやうに、用紙、印刷、挿絵、製本などが密接につながりあつて構成される書物は、土台や笠石や屋根や垂木や壁などから成り立つ一つの建築物に、或は各種の楽音の諧和から生ずる一つの交響楽になぞらへることができるであらう。(同書71頁)
 「語義はどうであらうと」という大雑把な表現のなかに,実はきわめて厳密でラディカル(根源的)な規定が貫かれている。ここに,『BOOK DESIGN NOW 2003』での,鈴木一誌の次のようなコメントが重なってくる。
 ブックデザインは、いわゆる装丁(装幀)とはいささか次元を異にし、本文のフォーマットデザインを考え、それが全ページのレイアウトとしてどのようにページ上に定着するか、を見とどける行為だ、と考えています。
 これが,装丁/ブックデザイン批評の出発点,土台となるもっとも的確な規定だと私は考える。ブックデザインが扱うのは,ジャケット・カバーなどの「外まわり」だけでなく「書物に物質的形態を附与する一切の条件」である。装丁/ブックデザインの先頭で孤独な闘いを続ける鈴木一誌はこれをフォーマット・デザインとして言葉にする闘いに取りくみ,百科全書的なデザイナー列伝と作風談義〔注12〕を超え得た。すなわち,装幀か装丁かなどという枝葉の論議しか残らぬまでに「装丁」という言葉が死んでしまったとき,鈴木は「ブックデザイン」という言葉を持ってきて,ブックデザインの何かを説明しようとした。その「ブックデザイン」という言葉が手垢にまみれてくると「フォーマット・デザイン」という言葉を強調して,言葉の闘いを持続している。ワクワクするではないか。
 装丁/ブックデザインをめぐるジャケットなど「外まわり」と「本文」との二元論は統一したモノとしての書物のデザインに迫りえない。そこに決定的に欠落しているのは受容する読者の視点である。読者は外まわりが気に入らないとの理由でその本を買わないとはなかなか選択しにくく,せいぜいジャケットを裏返しにするぐらいしか意思表示できない。鈴木の前掲書『ページと力 手わざ、そしてデジタル・デザイン』の歴史的意義は読者の視線という他者の立場によって自己を対象化しえたことにあると私は思う。「視覚単位」や「動線」「構造明示子」など鈴木によって再発見された言葉が面白いのは,それらが作り手以上に書物の受容者(読者)の視線だからだ。

 にもかかわらず,鈴木の『ページと力 手わざ、そしてデジタル・デザイン』はまた,啓蒙主義と近代(モダン)への回帰ともいうべきねじれに満ちている。
 テクストとは,文字とは,文字コードとは,組版とは……,と問いつづけ,「語義はどうであらうと」,一度はそれらを疑ってみること,これがポストモダン(近代後)の精神ではなかったのか。それが「「六万四千漢字」への批評,あるいは問いかけ」(1998,パンフレット)から「明解日本語文字組版」(『明解 クリエイターのための印刷ガイドブック DTP実践編』1999,玄光社所収),『知恵蔵裁判全記録』(2001,太田出版)にいたる鈴木のここ数年の営為の精神ではなかったのか。この時期,鈴木と共闘した私の原点は,組版の現場に身を置きながら,その立場をさらに他者の目で対象化し,“すべてを疑ってみる”精神にあった。
 『ページと力 手わざ、そしてデジタル・デザイン』では「『印刷事典』の各版を参考にし」て用語解説をつけている。日本印刷学会編『印刷事典』の名を記すことは先学への敬意でもあろうが,それは同時に,「名」の神話化という陥穽に陥ることにならないか(たとえば「約物」を「記述記号の総称」とすることで抜け落ちるものはないのか)。ここ数年の,日本語の文字と組版を考える会や印刷史研究会をはじめとする在野の人びとの研究・発表活動をつうじて『印刷事典』の記述自体は問い直され,書き換えられてきている。また,本の帯の文は必ずしも著者が責を負わねばならぬものではないかも知れないが,『知恵蔵裁判全記録』の「ことばのたたかい、日本の現実」から,『ページと力』の「ページを生み、書物を生みだす力が世界を動かす。」へ,言葉と世界との“幸せな”一致を前提とした帯の内容への変化のなかに,私はモダンへの回帰を感じ取る。「歌は世につれ」であっても「世は歌につれ」とは言えないからだ。
 「知は力」という啓蒙主義には鏡のように野蛮が貼り付いており,言葉の一つひとつを問い続けることをやめてしまったとき,力は権力に転じていく。

「集合名詞としての作者」がほどけるときに 鈴木は前掲『ページと力』で「作品をつくるとは、集合名詞としての作者名を作りだすことである」として「集合名詞としての作者」論を述べている。
 […]作品には作者名がついてまわる。本には著者名が必要だ。だがその名前は、特定の個人に所属する固有名詞なのではなく、集合名詞なのである。携わった多くの人間の束の総称なのだ。黒澤明の映像はすごいね、というとき、個人黒澤がフレームを決めキャメラをまわしたのではないことを知りつつ、名キャメラマンとそのスタッフを思いうかべながら、わたしたちは話をしている。作品の磁場において語られる黒澤明とは、集合名詞なのだ。/集合名詞のなかでも、著者が中心的な役割を演じていることはたしかだ。この著者の作品のためならがんばろうと思いもする。奥付に記載されている組版・製版・印刷・製本、デザイン担当者、さらには謝辞やあとがきで礼を述べられている編集者や協力者、そして無記名の多くの人間の仕事の集積として作者名がある。(同書95−96頁)
 集合名詞とは「集団・団体・家族などの集合体の名」を表す名詞のことである。大部分の集合名詞は可算名詞であるが,一部の集合名詞はそうではなく,「数えられるもの」「数えられないもの」「その中間のもの」がある。「集合名詞としての作者」とは,集合体をひとつのまとまった単位として見た「作者」なのか,それともひとつのまとまった作者集団のなかの複数の人たちなのか。配本関係者や書店員は入るのか入らないのか。「集合名詞としての作者」の構成員に入る基準はどこにあるのだろうか。
 大阪城は豊臣秀吉がつくり,法隆寺は聖徳太子がつくった,と歴史は記す。その名前は歴史と社会のなかでの代表者(もしくは簒奪者!)としての名である。ちなみに,日雇建設労働者の労働組合である全港湾建設支部西成分会の機関紙のタイトルは「大阪城」であった(私が所属していた30年前のこと。ここには生産が労働となった近代以降の労働観が反映している)。建築様式や技法をはじめ文化遺産としての大阪城や法隆寺は,つくられた時代の英知の結晶でもある。しかし,一人ひとりの大工,石工,建築労働者は,集合名詞としての豊臣秀吉,集合名詞としての聖徳太子を作りだすために,「この著者の作品のためならがんばろうと思」って働いたのではない。解体修理のときに外から見えないところ,天井裏や仏像の台座裏から,当時の職人や技術者たちの「落書き」が見つかったという報に接したとき,時空を超えて身近に感じられる落書きから伝わってくるのは労働というより生産(表現)の喜びや誇りである。
 本の後書きに,著者は担当編集者やデザイナーだけでなく,最近は組版者,製版・印刷者への謝辞を記すようだが,その手つき,目つきにヘソをまげてしまうのは私がひねくれだからだろうか。名前を書かれて突然日の当たるところへ出されたほうの感情は快か不快かといえばけっして不快ではないだろう。しかし,「名もない草」のごとき無名の歴史に生きる側の大多数の人びとからみれば,労働を見下ろされる視線,つまり一人の「作者」の視点のもとに存在と作業をわりつけられる(=「集合名詞としての作者」に回収される)手つきには違和感をおさえることはできない。この視線は著者から見れば,著者略歴にこれこれを「手がける」と自ら記す,そういう視線と一体である(「手がける」と自らの仕事や略歴を記す人びとはどんな職種の人びとかを考えると興味深い)。「集合名詞としての作者」の構成員へのクレジットの解放は,けっして,共同作業者のなかに歴然と存在する権限の差やそこからくる対立と闘争,衝突の解決ではない。発展の契機となりうるはずの,本づくりの現場のさまざまな対立を「集合」してしまうことで,何かが隠蔽されていると私は確かに感じる。冒頭に紹介したコメントの第3での,鬱屈した思いは,逃げ出したいが逃げられない共同作業者との人間関係への悩みの率直な告白である。
 すべてを奪われている者は,すべてを奪いかえすことによってしか,書物をこしらえつづけてきた歴史を発見し,取り戻すことはできない。気づくべきは,最初から失うべきあれこれの権利も持たされていなかったことである。書物をつくっているのはだれか。いままでの歴史観はみな歴史の現実の土台をおおいかくし,書物をつくっているさまざまな個別的な者たちを,存在しない「雇われ」としかみなしてこなかったのではなかったか。〔注13〕
 真のラディカル(根源的)とは,人間そのもののうちにある。“縁の下の人たち”の名を顕彰する最近の傾向はとかくうさんくさい。モスバーガーではたとえば,レタスをつくったのは○○さんと名が記されている。牛にも人間にも背番号が付けられ,素材ごとに作者/生産者の名が記録された食品は安全というわけだ。しかしそこで顕彰されているのは素材の作り手ではなく,彼らの名をつうじてその労働を利用する「集合名詞」としてのモスバーガー自身ではないのか。
 スター(作家)を作り出す,そのことと一体を成しているもの,すなわち,作り手としての公衆を崇める態度は,同時に,大衆の心性の腐敗を促進する。
 「すべての市民は,自由に発言し,記述し,印刷することができる」(『人および市民の権利宣言』1789,フランス)という権利は,読者の側から「作者」の側に転身することによって実現するのか。そうではない。一人ひとりが社会的物質的条件を手にし,読者である状態のまま“書物をつくる者たち”となることによってである。
 “書物をつくる者たち”がひとまとまりの「集合名詞としての作者」の姿をなすのは,たんに外から,上から見ての,つまり,監督し,統帥する者の想像のなかでのことにすぎない。“読者たち”が自らの手で書物をつくる権利を行使するとき,はじめて発信者−受信者−発信者というコミュニケーションが実現する。その瞬間,“書物をつくる読者”は実は一人ひとりにほぐれている。名を記さないことによって。



注1田中薫『本と装幀』(2000,沖積舎)では終始一貫,読者は“存在しない者ども”として扱われている。目次のノンブル計20か所のうち18か所が誤植である(誤植が多いことへの苦情ではない,念のため!)が,その対応ぶりは読者の視線に対して徹頭徹尾,無感覚無自覚である。別途挟み込まれた紙に「本書の目次に誤りがあります。全て本文が正しく、謹しんで訂正申し上げます」とあるが,タイトルも署名もなく,主体が不明なのだ。正誤表は著者や版元が読者との交通へ向かい合う意思表示としてはじめて意味を持つはずではなかったのか。 〈戻る〉
注2西野嘉章『装釘考』(2000,玄風舎)は“趣味”の書であり,今回,批評の対象としなかった。ただただ好きだ嫌いだと表明する他人の“趣味”を批評することは無意味と思ったからである。この本は,漢字を恣意的部分的に旧字,仮名を現代仮名遣いとする無原則的な表記を採用している。 〈戻る〉
注3山田奨治『日本文化の模倣と創造』2002,角川書店。 〈戻る〉
注4毛沢東「人間の正しい思想はどこからくるのか」1963 http://www.linelabo.com/maotsetu.htm 〈戻る〉
注5もっとも,アメリカがイラク侵略の口実とした“大量破壊兵器”について,事後!の現在にいたるも,挙証責任を負うアメリカ,イギリスは存在の“事実”を挙げていない(03年8月現在)。首相小泉純一郎は03年6月11日,国会の党首討論で「フセイン大統領が見つかっていないからといって,イラクにフセイン大統領が存在しなかったと言えるのか。大量破壊兵器もいずれ見つかると思う」と希代の詭弁を弄した。 〈戻る〉
注6マルクスはブルジョア社会の分析を「もっとも単純な,もっとも一般的な,もっとも基本的な,もっとも大量的な,もっとも普通な,人々が何億回となくでくわす関係」(レーニン『哲学ノート』,松村一人訳,岩波文庫版,下巻198頁)である商品交換から始めた。 〈戻る〉
注7衣服をつけることについての人びとの意識は絶対的規範ではなく,歴史と社会のなかで変化する相対的なものである。アフガニスタンの女性が身体をブルカで隠すことについて,それを抑圧されたものと一方的に断じる人びとの判断は相対化されてしかるべきだろう。それは限られた「歴史と社会」からの視線ではないか,オリエンタリズムに毒されていないか,自己検証が必要である。はたして女性が肌を露わにしている社会は「解放」された社会なのか。 〈戻る〉
注8吉本隆明。最近の本では『詩人・評論家・作家のための言語論』1999,メタローグ,『心とは何か 心的現象論入門』2001,弓立社,など。 〈戻る〉
注9三木成夫『海・呼吸・古代形象』1992,うぶすな書院。 〈戻る〉
注10人文系多国語テクスト・プロセシング・システムの構築に関する研究「ゆたかな文字文化を創りあげるために」 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/KanjiWEB/00_cover.html
批判は,拙稿「“工業に立ち向かう文化”という幻想」〔『ユリイカ』1998年5月号所収〕 http://www.linelabo.com/EUREKA3B.PDF 〈戻る〉
注11拙稿「書物をつくったのはだれか」2001,シンポジウム「『知恵蔵裁判全記録』を読む 誰が「書物」をつくったのか?」資料パンフレット http://www.linelabo.com/chie0104.htm 〈戻る〉
注12『装幀時代』(1999,晶文社),『現代装幀』(2003,美学出版)など臼田氏の“労作”は,典型的な“作家主義”による作家列伝であり,『装幀時代』では原弘から戸田ツトムまでの一人ひとりのスターたちが顕彰されている。そこには,レコード大賞や紅白を頂点にしスター誕生やさまざまなコンクール番組を底辺にした三角形と通じるものがある。装丁/ブックデザインの三角形の底辺は,さまざまなデザイン技法書であり実例集である。そうすると『装幀時代』が目ざすものは三角形の頂点なのか。2003年8月3日付『日経』は最近,文学賞が増えていると報じている。 〈戻る〉
注13注11と同じ。 〈戻る〉

(おわり)


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前田年昭 MAEDA Toshiaki
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