(つづき)
「専門家」として技術や知識の排他的独占を守る技術決定論者  坂村健は,「工業規格は切り捨ての思考であり,文化とは多様性である。文化規格として考える必要がある。どこかが仕切ると多様性は失われる。むしろコンピューターで登録するほうが良いのではないか」(*20)という。また,次のようにも書いている。「文字の背番号はだれが決めているかというと,通産省の下にある工業技術院日本工業規格――いわゆるJISの委員会の人達である。文化庁ならいいというつもりはないが,日本の文化に枠をはめるようなことを『工業』技術院がやっているのである。……実は文化とコンピュータの制限の衝突。さらには,文化とコンピュータの商売との衝突なのだ」(*21)
 前項で出て来た「活版対コンピュータ」という図式の裏には「文化対工業」という二項対立図式が貫かれている。しかし活版もコンピュータも工業であり,文化であることは論ずるまでもない。文化観や工業観のちがいを「文化対工業」というステレオタイプにあてはめるのは,自己の文化観の提示によってJIS漢字コードに対峙するのではなく,ただ相手に“文化と対立する工業の担い手,文化破壊者”とのレッテルを貼り,論難するためでしかない。しかも「どこかが仕切ると多様性は失われる。むしろコンピュータで登録するほうが良い」と語るが,そのコンピュータを扱うのは人間ではないのか,ある人間が仕切ることなく動くコンピュータというものが存在するのか,問いたい。
 人間がコンピュータに向かうとき,コンピュータを客観,公正,中立なものとする幻想が生まれやすい。電脳建築家を自称する坂村健がまさかそのような幻想に囚われているとは思えないが,逆にそのような幼稚なステレオタイプ思考から解放されているようにも思えない。誤字,俗字に新たなコードを付けようとして,坂村健の主張する「登録するコンピュータ」に与えたとすると,どうなるのだろう。コンピュータの役割は,与えられた情報や命題が真か偽かの解釈だ。しかし,それはコンピュータを仕切る人間がいて意味を持つことだ。たとえば「私って嘘つきなのよ」という命題を与えられたコンピュータは無限ループのなかで死ぬ。これを自己言及パラドックスという。誤字かどうか,誤字は誤字ゆえに誤字であると定義づけを堂々巡りさせてもはじまらないし,誤字という規定付けはしないというのもひとつの考え方としてありうるかもしれない。しかし誤字は誤字であるがゆえに字義でも字体でも合意がとれないからコード化できない。一点一画のちがいもおそろかにせず,すべての文字を別コードとして,コンピュータに登録するという主張は破綻しているのである。
 情報が意味を持つのは,そこに人間の目的意識(動機と志)が貫かれるからである。考えてもみようではないか。水とは何か,必要な情報を得たいという場合,水の働きと本質は,人間のどのような目的意識がそこに貫かれているかによって変わって来る。喉の渇きを癒すための飲み物としての水なのか,火事を消すための水なのか,それによって求められる情報の性質も変わって来る。求められているのはいかなるコンテキストにおける文字のコードなのか。
 批判者たちに共通するのは,判断停止という甘えだ。目的や用例などのコンテキストも示せず,規準もあいまいなまま一点一画違う字は登録しろと要求する,ここには,変化しながらも「漢字の常識」として歴史を生き続けて来た豊かな包摂の伝統に対する無理解がある。ある哲学者がどこかで「世界史の皮肉は,すべてのものをさかだちさせる」と言っていたが,どうやら漢字文化の伝統に対する一知半解の側が“漢字を救え”と言っているさかだちがある。文字コード問題がむずかしいのは,歴史のとくに長い「漢字」の世界と歴史の浅い「コンピュータ」の世界とのいずれもが文字独占階級からすれば他者を差別する格好の材料となる分野であり,文字コード問題はその両方の知識が必要になることに起因する。田中克彦が指摘しているとおり,言語は差異しか作らず,その差異を差別に転化させるのは,いつでも文字独占階級である。彼らの存在そのものが,文筆特権階級としての自己保身意識に反映する。
 文芸家たちは,自分自身も書き手だということは棚に上げて,文筆特権階級としての心情を吐露している。
 島田雅彦はいう。「オンラインでは誰もが書き手になれるし,意見を述べるインテリにもなれるし,言論を駆使したテロリズムに走ることもできます。その点では平等なんだけれども,その平等がもたらしたのはカオティックな言葉の“夢の島”状態ですよね。誰もがオンラインで作品を発表しているけれど,ただ目立ちたいという動機で,半ば狂気のような情熱で自分の書いたものを世界に流すことに憑かれているような気がしますね(笑)。
 それが日記であれ,エッセイであれ,小説もどきであれ,オンラインでは質の悪いものが多く流通しています」(*22)
 「島田 ……さんが,創作から印刷,配布に至るすべてをひとりでこなすガリ版刷りの同人誌をオンライン上でやっているようなものとおっしゃっていました。手作業のほうにある種のノスタルジーを感じていらしたようだけれど。
柳瀬 ガリ版はまともな字を書けなければできないし,技術を要しますから。パーじゃできませんよ(笑)。
加藤 技術の蓄積が必要ですからね。
島田 触覚的な労働の技術がね。
柳瀬 NIFTYの落書きなんて見てごらんなさい。アホですよ。
加藤 文化人類学的な資料になるかもしれませんが,あの情熱はいったい何なんでしょう(笑)。
柳瀬 何でしょうね。僕はそう思ってるし,島田さんもそういう考えかどうか,バカは物をいうなという結論なんですよ。」(*23)
なお,島田は島田雅彦。柳瀬は柳瀬尚紀。加藤は加藤弘一。
 この対談に見えるパー,アホ,バカの連発に文筆家としての自らの地位が脅かされることへの本能的な恐怖やヤキモチ,嫉妬を読み取ってしまうのは私だけだろうか。表現に向かいはじめた人を先ずその時点で嫌悪し,罵倒してかかる島田らの態度に,髪一筋の共感も覚えないと富田倫生が指摘しているが,私も心からそう思う。島田は,『群像』誌上で「ばか」「山下清」という言葉を投げつけた相手の町田康から「言葉に携わる仕事をもう十年以上もなさっている」島田が「なぜそういう言葉を使ったのか」「そのようにおっしゃった存念を伺いたい」と問われ,一瞬ヒヤリとしながらも,「大江健三郎はばか」「中上はすごくばか」と意味をこっそりすり替えて言い逃れた。文字独占階級の暴力は,たいていの場合,自覚が欠如しているだけに余計に始末が悪い。こうした識字の暴力は手話言語の問題ではいっそう露骨に現われる。手話言語は,一つの言語として独自の完全な文法を備えたもう一つの言語であることは,文字独占者たちにはもうほとんど理解することができない。
 莫迦にもいろいろあるが福田和也も言っている,頭のいいバカほど困ったものはない,と。

文字認識システムの本質と「精神なき専門人」  アルファベットでも書体のちがう文字を重ねてみると,人間の文字認識システムはボケ足でとらえていることがわかることを鈴木一誌が指摘している(*24)。宛先の文字が滲んでも手紙は届く。タイポグラフィはボケ足の狭い範囲内でのデザインの個性だ。しかし,日本語も戦後50年も経つと,手書きの素養と伝統はほとんど絶滅寸前である。筆で書いた文字は単純な線でなく,太い細いから擦れや滲みまで同じではない。筆は毛を束ねたもので,あたかも人間の筋肉の繊維構造と同じで,つまり筋肉の延長にある道具として手の動きをいっそう豊かに機能させる。どんな用字系を使う言語でも,手書きが豊かな文字文化の土台をつくってきたことは否定できない事実だ。戦前までは,筆写文字として原稿に書いたハシゴ高が印刷物上で印刷文字(明朝体)としてクチ高になることは不思議でもなんでもなく,同様にツチ吉のほうが安定がよく書きやすいからという理由で,漢代以降,サムライ吉と同字であっても筆写文字ではツチ吉が多いという,これも「漢字の常識」だったのである。
 こうした伝統を破壊した客観的条件としての書の伝統の衰退を主体的に加速したのが,戦後の受験競争体制下の国語教育であり,一点一画にこだわる字形拘泥主義であった。終筆部をはねるかはねないのか,点画をつけるか離すか,常用漢字表(1981年)が解説でデザイン差は「字体の上からは全く問題にする必要のないもの」とし,さらに漢字表そのものを明朝体という印刷字形で示したからといって「これによって筆写の楷書における書き方の習慣を改めようとするものではない」と強調したが,教育現場では無視,とはいわないまでも軽視されている。“漢字の渡り”という「常識」はますます理解されなくなりつつある。子どもたちの成績に点数の差をつけるためにささいな違いを挙げつらう以外になかったのだとしたら,あまりにも悲しい。
 某メーカーは最近,「人名専用の『俗字・異体字』フォント」を売り出したが,その宣伝文句がすさまじい。「誤字俗字も何のその!」「異体字のバリエーションもこんなに! 渡辺の『辺』が65種類,斉藤の『斉』が31種類,佐藤の『藤』が14種類……」というのだ。だれが何のために使うのか,人間の目的意識(動機と志)はどこへ行ってしまったのだろうか。「世界史の皮肉は,すべてのものをさかだちさせる」という哲学者の言葉はここにも生きている。まるで“必要は発明の母”どころか,発明が次々と「必要」を生み出していっているかのようである。字が足りない,字が欲しいという出発点には確かに実感の裏付けがあった。しかし「発明」された「65種類の辺」は,だれがどうやって指定し,検索し,使いこなすのか? そもそも何のために使うのだろうか? いや,はたして本当に必要だったのだろうか?
 坂村健のいう「文化の多様性」がそうであるように,他者との共生をかかげ最近流行の「多言語主義」も,実はひとつの世界観で統制したい,己の秩序のなかに位置づけたい,という欲望の反映である場合が混じっているようだ。事実,他言語習得に熱心なのが軍隊だったりする。そもそも「世界のありとあらゆる文字をコンピュータに載せよう」(坂村健)という発想そのものは,昔から文字独占階級のもので特に目新しいわけではない。小宮山博史御所蔵のフランス王立印刷所の活字見本帳(1845年)に集められた「世界のありとあらゆる文字」――そこには何と漢字や仮名も集められている――を見たとき,あぁこの王様,世界が自分の思うがままになるというのはやめられないほどの魅力なんだろうなあ,と感心させられた。
 坂村健や田村毅が収集した文字を前に微笑む今を遡ること約四百年前,朝鮮を侵略した豊臣秀吉の軍は活字印刷機具一式を掠奪し,技術者を強制連行,秀吉は持ち帰った李朝銅活字を天皇に献上した(1593年)。近世の日本における活字印刷は血まみれの歴史のなかから生まれた。こうした歴史への眼差しを欠いた輩が,文化の多様性を守れというとき,眉に唾を付けて聞く必要がある。
 マックス・ヴェーバー(1864-1920年)は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)の結語でアメリカ人の「文化発展の最後に現われる末人たち」として「精神のない専門人,心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は,人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた,と自惚れるだろう」と予言した(*25)。これは現代日本にもぴったり当てはまっているではないか。
 「暴君の治下の臣民は暴君よりもさらに暴である」とだれかが言っていなかったか。冒頭に紹介したエピソードのような字形拘泥主義がついには渡邊の邊を65種類にまで増やしてしまった。活字や写植でも客の無理を聞いて母型や種字の字数を多少増やしたということもあったようだが,コンピュータ上の電子文字は文字所有欲のパンドラの箱を開けてしまった感がある。しかし,本当にその字は必要なのか? だれのために,何のために? と問うてみる必要がありはしないか。ささいな字形の違いにこだわる異体字使用の主張は,視覚障害者を排除してしまう発想であることを反省する必要があるのではないか,とは,當山日出夫の指摘である。
 DTPになってからブラックボックスの部分が増えたという。しかし,ブラックボックスにしてしまうかどうかは実は人間が決めているのである。コンピュータを前にしたときの不安や脅えという自らの感情がコンピュータをブラックボックスにしてしまうことが多いのではないか。批判者たちは,漢字の知ったかぶりやコンピュータに対する脅えの感情をすくいあげ,機械打ち壊し(ラッダイト)運動ならぬJIS漢字コード批判へと誘い込んでいった。文化が「工業」や「コンピュータ」によって踏みにじられているという作り話は,目前で文化や文芸と称するものが危機に瀕しているときには真に迫って聞こえたのだ。“漢字を救え”運動はこうして凶暴化し,分析的思考は無力化され,想像力は奪われた。吉目木晴彦は先の「漢字を救え! 文字コード問題を考えるシンポジウム」で文字コード問題の解決には「国産のOSを用意しないと環境整備が出来ない」(*20)と国産OS・トロンの応援演説まで先走ってしゃべってしまった。しかし日の丸OSを掲げた坂村健のトロンがアメリカのマイクロソフトに対して勝つことができないのは,悲しいかな競争相手の「精神のない専門人」たるアメリカ人と同じ「精神のない専門人」同士の争いだからである。
 坂村健の提唱する「言語指定コードによる切り替え」による多国語環境では「各言語特有の正書規則」が実現できるというが,突き詰めていくと純粋日本国語なるものが存在するかのような幻想に彼らは囚われているのではないか。私の職場の中国人同僚が話す言葉は,ピジン・イングリッシュならぬ大阪弁と中国語の混淆状態だ。“北朝鮮の日本人妻”の「クッカ(国家)から援助がイッソソ(あって)生活に困ることはありません」という朝鮮語まじりの日本語などは純粋でないからということで正書規則が実現しにくかろう。また,新聞広告のなかの「電脳遊園地」という言葉のなかの「電脳」というのは日本語なのか,漢語なのか,どちらかに区分しなければいけないのだろうか,また区分できるのだろうか。別の階層にある文字と言語との混同という問題をさしおいたとしても,言葉が混ざりあうことがそんなにいけないことなのだろうか。近ごろ巷では中国風や台湾風,韓国風でなく純粋日本風書体を求める声が出てきているときく。ホラホラ,これが僕の骨だ――。
 やっぱり,なぜ日本人はかくも幼稚になったのか,シンポジウムを司会した福田和也にどうしても聞きに行く必要があるようである。
 しかし歴史は進む。漢字語重視,書き言葉重視から和語重視,話し言葉重視への地殻変動はじわじわと進み,日本語に新しい風が吹き始めているのもまた事実である。日本語ラップ「DA・YO・NE」の大ヒットは3年前だったか。「ら抜き」はいけないなどという規範意識による「過保護」にもかかわらず,日本語は変わりつつある。ひょっとすると文芸家たちの“異議申し立て”は滅びゆくものへの挽歌だったのだろうか。それとも断末摩の叫びだったのだろうか。



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