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「外部」は権力まみれの「私たち」の真っ只中に未来として賭けられる
太田直里さんに応えて

小野俊彦

『悍』第4号掲載の太田直里さん「名乗らないことで自分をどこに位置づけるか」に反論的に応答します。共感した部分もありましたが、それより疑問を持ち、あるいは反発した部分のほうが明らかに重要なので、そういう部分について反問的に応答を試みます。

 太田さんはいわゆる社会運動と呼ばれる営みの近辺を動いてきた自分の経験から、運動内部の組織や集団に対するある種の違和感を書いています。そんな彼女と決して遠くない感覚は僕にもあると思うし、僕もまた集団の可能性と限界についてずっと考えてきました。しかし、僕は、彼女の文章には、活動組織の集団性に対する違和感と同時に意識しておかなければならない、ある重要な問題意識が欠落していると思います。

 たとえば「日本人」や「男」や「健常者」その他、この社会で多数派の強者として生きる人間ほど「自分は何の集団にも属さないし、個人として生きてゆける」と言えてしまうのではないのか、というのが僕が言いたいことの一つです。もちろん太田さんの書いていることはそれとは少し違うのですが、見方によってはさほど違わないことを書いてしまっている。そういう、自分が嫌でも持ってしまっている集団性を自分自身で抉りとるように問わなければ、「個人である」ことを求める資本や国家の要請に「あえて」乗っかったうえで余裕をかましてみせる、かわしてみせる、という太田さんの感覚ないし戦略は、「単なる強者の余裕」と区別がつかなくなると思います。太田さんの文章において、自分自身の強者性を意識する契機が弱いことは、単に紙幅の都合で書けなかったというのとは違うと僕は思います。僕は彼女が強者だと断定したいのではありません。文脈抜きに個人がどれほど強者か弱者かなどとあげつらっても無意味です。そうではなく、彼女の、いや、僕たちの言動が他者に届く普遍的なものであるためには通過しなければならない重要な論点があるはずだと考えているのです(その論点に関することとしては、読みにくい文章ですが『悍』3号の拙文もご参照いただければ幸いです)。

 集団に属していようが個人でいようが、嫌でも国家や資本はわれわれに絡んでくる、という主旨のことを太田さんは書いています。でもその書き方は、あくまでも国家や資本に対して自分は「外部」にあって、国家や資本に対しては「外的」に関係を持つに過ぎない「市民」としての感覚から言われています。こういえば太田さんは「私は市民などを名乗るつもりはない」と反論するかもしれませんが、僕がいう「市民」性というものは「自分をどこに位置付けるか」という自意識の問題では応えられない、社会的関係性の問題です。太田さんの感覚の中には最初から「外部」が担保されてあるように見えます。その「外部」の中で彼女は「個人」であるという意識を持っている。別の角度から言えば、国家や資本が自分たちを日々、存在ごと「国民」や「労働力」にしている、という視点が弱い。しかし、それでは僕たちは、簡単に「無自覚な強者」になってしまいかねないのではないか。このこともまた、単に内省的に「自分の強者性を意識せよ」というだけの問題ではなく、国家や民族が、ある人々を「国民」にする一方である人々を「非国民」に、また、資本がある人々を「労働力」として買う一方である人々を「非労働力」として排除しているという現実と自分自身の生き方との関係性の中でしか問えないことであろうと思います。

 僕が考えてきたのは、これまで「労働者」としての集団が担ってきた労働運動に対して、そのような集団には単純に属することができない、むしろ、そこから逸脱してしまう「フリーター」的な存在(ヒキコモリやニートなど含め)を対抗的な集団性として打ち出すことです。だからそれは、生き延び、闘うための「苦し紛れの集団性」でもあります。それは、ある集団に属すか否かという狭い問題ではなくて、各人が自分自身を、他者とともに、反権力的に組織化する過程こそが重要だと僕は考えます。だからこそ、あらかじめ用意された選択肢としての集団に自由に出入りすることなどではなくて、自らがどう名乗るのかを僕は問うのです。もちろん、こんなことをキャッチコピー的に言うは易し、であり、僕も集団として運動をやってゆくことにブザマに失敗しながら、ああでもない、こうでもないと愚図愚図と考えているに過ぎないのですが。

 太田さんの感覚や戦略は、国家や資本が「絡んでくる」ことに対しては自分の個人的振る舞いでどうにでもかわせる、という確信に基づいており、また、国家や資本が絡んでこれないような「あなたと私との関係」や「外部」を持つことも、心の持ちよう次第で簡単に達成できるし事実として人はそのように生きているではないか、と言っているように読めます(「嫌でも絡んでくる」という部分との関係はやや曖昧に思えます)。仮に資本や国家から隔絶された「外部」のような場所での人間関係がそんなに簡単に形成できるものならば、国家や資本をことさら問題として煽り立てる運動などというものは、もちろん滑稽で有害でしかない。では太田さんは、なぜそのような、権力が人々を分断し抑圧することに関わる問題をも問うているはずの「運動」の周辺にいるのでしょうか。

 太田さんは国家や資本の分断なり弾圧なり介入を身軽にかわそうとする。しかし、国家や資本の暴力によって、よりストレートに打撃を受けてしまう人々がこの社会にはおり、日々生み出されているのだとして、それと太田さんの言うような「かわす」戦略をとれる人との違いは何なのでしょうか。集団を(中心的に)担わなければ打撃をかわせるのでしょうか。というか、まずもって国家や資本に対する端的な「外部」なんて存在しない。存在するとしても、それは難民や失業者や野宿者のように「外部」に放逐されかかりながら、どうにか生き延びるしかないということであって、「外部に立つ(移動する)」という戦略を任意に選べる人間などそんなにいないはずです。いるとしたらそれは外部にいる「かのように」振る舞える強者でしかないということです。もちろん太田さんが単に強者であることに開き直ってはいるとは思わないのですが、彼女の書いていることは、そのような強者の態度を連想させてしまうし、そうでなければ、それこそ運動の「内部」でしか通用しない振る舞いにしか見えない。国家に弾圧されて(パクられて)も「それは私の失敗」に過ぎないと言ってやり過ごすなんていうのは、パクられたことを武勇伝にして自慢するような活動家的感覚の裏返しでしかないような、結局は活動家界隈でしか通用しない物言いではないのでしょうか。

 太田さんの文章の問題の一つは割とはっきりしていて、太田さんの文章では、一方で、国家や資本に対する端的な「外部」というものが想定されており、他方では、国家や資本に絡まれ、抑圧されながら生きざるをえないことに抵抗し、闘うために形成される集団の「外部」(ないしは集団の周辺)という話があり、両者が論点として整理されていないのです。しかし、それもまた、単に論点を整理すれば書けるというような偉そうな論文指導みたいな問題ではない。それは彼女が「運動」に対して「外でもないし、内でもない」という立場を維持しようとしていることの意味に関わるのですが、そのような態度が、論点の混乱と重要な問題の回避にこそなっていても、運動に対する積極的な批評性を持っているようにはどうも思えない。ちなみに、これは付け加える必要もないことかもしれませんが、僕の反論・反問は彼女の「実践」などに関わるものではなく(僕はそれをさほど知っているわけではない)、あくまでも彼女の書いたもの、文章に向けられています(もちろん、書くことも実践ですが)。

 「私たちは境界線によって分断されてはいない」ということは、分断の事実を乗り越えるための広義の「運動」のただ中で、実感と希望が相半ばするものとしてギリギリにしかつぶやけないと僕は思います(僕は、太田さんも書いているように、そういう困難を直視するよりも「つながり」を事実として強調するような態度は全然好きではない)。結局、僕は太田さんの文章を読んで、彼女が「運動アレルギー」とか「個人であること」を強調しながらも、なぜ集団に、運動に関わって(こだわって?)いるのかが分かりませんでした。そして、僕が集会で彼女に対して問い返したのはそのことだったのです。

2010-05-19

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