『悍』第1号 pp.18-37(抜粋)

反逆には やっぱり 道理がある

津村喬

 略

 私が文革に手もなく共鳴してしまったのは,六七年夏の大民主の雰囲気にふれたせいだ。上海や北京で工場や学校を訪ねた。自由で闊達な,のびのびした気が流れていた。むろんあちこちで殺伐とした対立があったり強姦があったりということも聞いていたが,そんな場所には外国人は近寄れなかった。いろんな気功の先生は酷い目にあっていて,農村で重労働とか便所掃除とかさせられて心身を病んでいたのだが,当時は知らなかった。むろん文革の残酷な側面,老舎が辱められて自殺したり,造反派が実権派をいじめて死に追い込んだりしている状況は漏れ聞いていた。しかし当時はそれをやむをえないものと見なしていた。祝祭としての暴動には行きすぎはつきものだった。誰も苦しめない革命なんてあるだろうか。それは今も思っている。ただやりかたに工夫は必要だ。

 それは六七年五月の五・一六兵団の問題から七月の武漢の百万雄師の造反の時期であり,各地の造反派がいっせいに自分の言葉で語り始める前夜だった。この感触は今ありありと残っている。そのまま中国に居残ればその後の「裏切られた革命」,つまり毛沢東による造反派の棚上げを目撃したかも知れないが,スーツケースひとつに紅衛兵たちの小報を入れて私は日本に帰った。早稲田の日中の仲間たちにぶっとんだことをしゃべり,理想化された革命について語った。

 早稲田では六八年バリストに向けて着々と時が熟していた。しかし日本でコミューン運動が成熟しているとは思えなかった。諸党派はスケジュール化された街頭闘争をしていて,そこから何かが生まれそうではなかった。私たちは革マルの制圧した言論空間で苦労しながら自分たちの言葉を作っていった。

 私の最初の中国体験は六四年,高校一年生の時で,そこでは主として太極拳と気功を習った。父親の病気治療につきあってのことだった。中国の民衆と知識人が太古から伝えてきた世界を知った。もうひとつ,大連にいた父親と離れて各地を連れ回してもらったときに,南京の虐殺博物館に行った。うかつながら初めて,日本人が中国でしてきた残虐行為の一端を知った。そして六七年の訪中で紅衛兵の最盛期の活動にふれた。私の中では今もこの三つ――気功と太極拳,南京,造反派――が中国認識の基本だ。

 山本直樹の『レッド』を読んで,赤軍派やその他の非合法活動をしていた人たちの中に「中国に行って根拠地を作ろう」という意識があったのを知った。彼らは,銃砲店を襲撃して銃を奪ってからかえって動きがとれなくなる。北海道のアジトで偽装麻雀をしながら「ずっと権力から逃げ隠れるばっかりじゃ消耗するばかりだよなあ」「群馬から栃木,新潟,札幌」「射撃訓練もできないしなあ」。すると一人の女性同志が言う。「海外に根拠地を作るのはどうかしら? 中国とか」と言い出して一気に夢が膨らむ。「中国か―」「面白いね,いい考えかも知れない」「毛沢東と連携すれば革命戦争も起こせるな」「赤色軍もオルグして連れて行こうよ」

 略

 山本の描いている「ごく普通の少年少女」が革命衝動にとりつかれて,銃砲店を襲ったり銀行強盗をしたり,中国で本格的に訓練してもらいたいと思ったりするというその思いはどこから来るのか。現象としては「運動部の合宿みたいな」ことで警察に圧殺されていくのだが,その深層に何があったのか。大部分の同世代の者は親が敷いたレールに乗ってマイホーム主義の道をたどっていて,大学封鎖も迷惑としか感じなかった。彼らももともとそういう人たちの一人だったのだが,いつしか別のストーリーに入り込んでいく。何本かの銃を持ったからと言って,それで何十万の警察や自衛隊を相手にできると本気で思っていたわけでもあるまい。それは革命戦争の戯画だった。にもかかわらず,そこには戦後のマイホーム主義に代わるなんらかの「公」を打ち立てて,大義のために生きたいという衝動が芽生えていた。

 毛沢東が提起してこの六六―六七年の革命の時期に人口に膾炙した言葉に「破私立公」がある。何が「私」で何が「公」なのか。新幹線の車掌の部屋にprivateと書いていることで分かるように,「私」とは与えられた役割を演じてお互いに浸食しないということである。それに対してpublicというのは,誰でもがルールを守って参加できるという意味である。日本語のニュアンスではpublicが国家,privateが私人という感覚だが,本来はむしろ国家を越えた「公」と考えた方がいい。だからこそ「上海人民公社」という発想が出てきたのだ。毛沢東が「立公」をよびかけたからこそ「人民の公社」を作ったのになぜ止めるのか。警察や軍隊はどうするんだ,党はどこにいってしまうのだ,という毛沢東の狼狽ぶりは,言葉の発し手よりは読み手のほうがそこから深い意味をくみ取ってしまったことを意味している。毛沢東はごく若い頃に,五四運動にふれた文章の中で「我を拡張して宇宙を一大我とする」境地を書いている。紅衛兵造反派と向き合ったときに,毛沢東は五四運動の頃の自分に叱咤されている気持ちになったかもしれない。

 確かに米ソに包囲された中で中華人民公社になるのは無理な話だった。軍事系統は別だぞという意味合いが,当時のロケット打ち上げにはこめられていた。宇宙航空部門だけは奪権も造反も許さなかったのだ。米ソからもっとも遠い四川省の奥地には核兵器の秘密研究所が作られてもいた。そんなところに「造反」が及んだら大変だという意識があったに違いない。まだ中国は国家を超えていく用意はなかった。それでも毛沢東は夢見てみたかった。夢を造反派が共有してさらに拡張したときに,我に返って弾圧したのだ。

 初めは小さな部隊の武器庫を襲ったりしてわずかの武器を手に入れることから始まったに違いない。だんだんに紅衛兵が武装し始めた時に,解放軍に介入の命令が下った。しかしほんの一時期,国家が統制する軍の外で「鉄砲から政権が生まれる」と唱え,本気になっている集団が登場した。それは日本で銃砲店をおそって貧しい武装をした若者たちと五十歩百歩だった。そしてせいぜいお互いの殺し合いに使うしかなかったのも同じような結末だった。中国と日本の「造反派」のタイムラグは二年ちょっとのことで,まあ同時代のことと考えてよい。

 破私立公は「私」の立場――戦後日本のミーイズム――からすれば滅私奉公と同じことに見えた。滅私奉公の公は天皇にシンボライズされる超国家的国家のことだった。毛沢東の公もプライベートを尊重する立場からは同じように見えたに違いないが,それは違っていた。破私立公は否定されて,中国では個の確立が進んだが,それは人を蹴落として金持ちになる自由のことでもあった。あっという間に百万人のセレブと一億人の「日本人と今や比べられる金持ち」と一二億人の極貧層とに中国は分裂した。これまでは国家官僚だけが支配層だったのだが,再編集が進んだ。没落した官僚層こそ法輪功の信者の供給源だったことは前に見た。

 日本では急速にしらっとした消費社会が確立していた。意識的に「いらないものを消費させるために智慧をしぼる社会」のことだ。アンリ・ルフェーヴルは「指導された消費の管理社会」と呼んだ。二十年遅れて,中国も同様の消費管理社会が動き出した。

 日本と違うのは一二億人が積み残されていることである。一家にズボンが一本しかないような暮らしが続いている。魔法瓶だけが文化生活の象徴であるような崩れた家に彼らは生活している。「陳情」や暴動はたえず起こっている。民族暴動は目立つが,その何千倍の規模で貧しい農民の暴動は毎日起こっては鎮圧されている。

 四川の地震で,一億人の金持ちの層に衝撃が走った。小遣いをカンパしてみて,自分たちが必要な友愛や連帯から遠ざかっていることに気づくのだ。地震の被災者とつながることで,少し別の生き方が見えてくるかも知れない。日本経済も中国のこの仕組みに半身を組み込まれるに至っている。

 元紅衛兵たちはただ思い出だけに浸って眠り込んでいるのだろうか。あのときの「造反」の質を蘇らせようと,四川地震の救援やさまざまな「暴動」の中で思っているだろうか。それともそんな問い自体が廃墟の瓦礫の中に置き忘れられてきたのだろうか。

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