『悍』第2号 pp.30-41(抜粋)

野戦之月海筆子になる
『阿Q転生』その後

崔真碩

 略

 一 北京での自主稽古

 略

 二 北朝鮮料理屋にて

 三日間にわたる北京での自主稽古を終えた翌日,自主稽古に参加した演出家の桜井大造氏,役者の阿花女氏,現在北京滞在中の丸川哲史氏と一緒に,北京市内にある北朝鮮料理屋に行った。そこは,冷麺をはじめとする北朝鮮の料理を出し,「喜び組」出身者と思われる北朝鮮の女性たちがウェイトレスをしているお店である。北京市内には二,三軒あるらしいのだが,そのうちの一軒に四人で行った。

 略

……どうやら,彼女の目に私たちのテーブルは異様に映ったようだ。無理もない。四人は日本語で喋りながらも,一人(丸川氏)は中国語で注文し,一人(私)は朝鮮語で注文し,また日本語で談笑しているのだから。訝しげに私たちを見つめる彼女に,私は自己紹介も兼ねて朝鮮語で説明した。「彼らは日本人で,二人は日本から来て,一人は現在北京にいて。私は日本育ちで韓国籍の在日朝鮮人です」と。すると,彼女は私に,「アア,クロミョン チョソンサラミムニッカ?(ああ,それじゃ,チョソンサラムですか?)」と聞き返してきた。私は即座に「ネエ,クロッスムニダ(はい,そうです)」と返答した。そのときの私は,おそらく,満面の笑みを浮かべながら,ほおえんでいたと思う。

 私はこの「チョソンサラム」という響きに特別な想いがある。朝鮮語でチョソンは朝鮮,サラムは人を意味する。すなわち,「チョソンサラム」とは,朝鮮語で朝鮮人という意味の言葉である。おそらく日本社会で,これは在日であれば誰でも知っている言葉であり,在日以外の人々はほとんど誰も知らない言葉である。在日はもはや私の下の世代は,民族学校を出てなければ朝鮮語ができない状態である。しかし,「チョソンサラム」という言葉は,在日であれば誰でも知っている言葉である。ちなみに,朝鮮語で人はサラム,愛はサランである。つまり朝鮮語においては,サラムとサラン,人と愛は同じ響き,同じ語源を持っており,ほとんど文字も一緒である(人と愛が同じ響きって,すごく素敵なことだと思いませんか!?)。

 略

 三 皮村にて

 略

 皮村に着くと,私はまっすぐ公演地だったあの廃校に向かった。事前に知っていたことであるが,廃校になった建物は「打工文化芸術博物館」となり,私たちが校庭に建てた青色のドームテントは劇場として活用されながら,その場所は現在,打工たちの打工たちによる打工たちのための文化の発信地となっている。二〇〇七年九月,公演をしたその場所がその後どうなったのかが気がかりで,今回の北京滞在中にぜひともまた訪れてみたかった。目的地に近づくにつれ,私の歩みは早まる。道に迷わずに着くと,大きな鉄柵の門が閉められていた。その日はちょうど月曜日で,門の脇にある案内を見ると,どうやら月曜日は休館日らしい。中を覗いてみても人影はない。さて,困った。私は途方に暮れる。

 どうするあてもなく,門前でただ立ち尽くしていると,建物の中から一人の若者が出てきた。私に中国語で話しかける。何を言っているのかわからない。中国語のできない私は,「ハングウレン,ハングウレン」と繰り返しながら,中国語が話せないことをジェスチャーも交えて伝えようとする。しかし,なかなかうまく伝わらない。ここは筆談しかないと思い,カバンからノートを取り出す。ノートに,「2007」,「夏」,自分を指さしながら「劇団員」と順々に書いていった。次は何を書くべきかノートを見ながら考えていると,彼はスッと手をさしのべてきた。握手を交わす。最初は疑わしそうに私のことを見ていた彼のまなざしが信頼の色に変わっていた。嬉しかった。

 彼はすぐに私が何者かを悟り,門を開いて中へと誘い,携帯電話をかけて,皮村公演を実質的に支えてくれた関係者を呼び出してくれた。顔は鮮明に覚えているのだが,名前は知らない彼が現れた。私たちはお互いに覚えていた。握手を交わす。その後はもどかしくもお互いにコミュニケーションを取れないのだが,彼は校庭に建てられた建物を指さし,あれを見ろといっている。それはまぎれもなく,私たちが建てたドームテントだった。ドームテントにはオレンジ色のシートがかけられ,ドームテントの周囲を取り囲むようにして増設された建物と合体させて,ひとつの劇場となっていた。

 彼は中に入るように促してくれた。中に入る。中は,照明も音響などの機材もしっかりと整っている立派な劇場だった。ドームテントの中は舞台,増設された建物の中は二百人は優に入れる客席になっていた。中に入ると,私はまっさきに青色のドームテントの骨組みに手を伸ばした。青色に塗られた木片に触れる。タコ(木片の接続金具の通称)に触れる。ボルトに触れる。ナットに触れる。力を込めて木片を握って揺らし,テントの強度を確かめてみる。思わず,涙が出てきた。テントは,生きていた。北京公演後,テントは打工である彼らの手に渡り,彼らはそこで打工たちの打工たちによる打工たちのための文化を発信している。だから,テントは生きているのだ。

 ドームテントの木片,タコ,ボルト,ナット,それらテントを形成する具体物に触れると,魔法にかけられたように瞬時に役者の身体になり,あの日ここで公演したこと,芝居をした感覚が鮮明によみがえる。そうだ。野戦之月海筆子のテント芝居の表現の原点にあるのは,この具体的な物との関係なのだ。公演後も皮村で生きているテントの,木片,タコ,ボルト,ナットに触れながら,あらためてそのことを悟った。もっといえば,この具体的な物との関係にもとづいたテントの建て込みとバラシという肉体労働こそが,テント芝居の表現を支えているのだ。そこには,〈冷戦のこちら側〉も〈冷戦の向こう側〉もない。そこにはただ,具体的な物との関係,具体的な労働がある。二〇〇七年九月,北京小組と野戦之月海筆子が一体となってテントを建てた時のように。解体されていないテントに初めて出遭ったからなのか,あるいは,そこが皮村であったからなのかはわからないが,私にとってそれは大きな再発見であった。

 むすび

 略

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