編集後記(第3号)――――

暴力は使うとか振るうと言うが肉体の外にあるモノではないから“暴力する”と言うべし,愛撫を使うとか愛撫を振るうとは言わず,人間の滲み出る行為として“愛撫する”と表現するように―と言ったのは須藤久である。近年,映像や文字表現から暴力が一掃されてしまっている。そこには人間が描かれていない。かろうじてマンガには息づいている。俗悪上等! 暴力上等!▼アンコ,風太郎,立ちんぼ,労務者……,ルンペン・プロレタリアート(流動的下層労働者)はさまざまに呼ばれ,蔑まれてきた。本土が沖縄化し,労働者が労務者化した今,もう「特殊」な少数者などではない。フリーターと呼ばれ,非正規な雇用で職も食も住も恋人も選べない不安定な人びとが,日々大量に合流しつつあるからだ。今,「われわれ」の力はどこに見出し得るのか? 黒人解放運動が誇り高くブラック・イズ・ビューティフルと宣言したように,「われわれ」は名乗り得るのか?▼他者を妬み,イジメることしかできぬ在特会などの外道が,幻想としての「特権」を攻撃し,排外主義を振りまいている。彼らはいったい誰のどのような歴史を引き継いでいるのか。崔真碩さんは歴史意識再生という立場で「朝鮮戦争における虐殺を排除と捉える視点から,ネットカフェ難民・派遣社員・後期高齢者の排除を虐殺と捉える視点へ」と書いている。すでに棄民として殺されつつあるわれわれフリーターは既に「労働者」や「日本人」に成り上がる“夢”は幻にすぎないと知り始めている▼階級解体された「われわれ」を再生するためには何をなすべきか? 自己否定とは本来,プロレタリアートのものだと藤本進治は言い遺した。「フリーター」との名乗りを国民主義的な決着に対する拒否の証しとして貫き,その未決着状態に留まることを,国民たる「私たち」を解体する自由に転化できるか否か―小野俊彦さんの問いはわれわれの希望である。本誌にとってこれは「左翼同人誌」に留まることなく,在野の批判精神の復興という初志を実現できるか否かという問いかけだ▼一見もっともらしい「正論」をこそ疑おう。今克服すべきは,知ったかぶりとニヒリズムであり,代弁と弁解である。あれかこれかを選ぶ権利すら奪われ,日々,明日のアブレへの狂わんばかりの不安に曝されるわれわれは,帝国主義本国人としてアジアからの収奪による超過利潤のおこぼれに預かっている▼今号から「書物評論」を始めた。レヴューはネットを見ればいい。書評の原点,人間が拵えたモノとしての書物の評論を載せていく。心から賛辞をおくるのか,遠慮なく批判するのか。悪口と批判は違う。タコツボのサロンでの仲間褒めはつまらない。なれあいは仲間殺しの猛毒である。編集人・編集委員への批判も歓迎する。論争を▼次号特集は日本の社会運動の中の選良主義とスノビズムに対する徹底批判(予定,検討中)。(M)


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