『悍』第4号 pp.123-126(抜粋)

「組織嫌い」の歴史的成因とその否定克服へ

土方健

 現代日本の学生を中心とする青年の革命志向派(いわゆる新左翼)は,その幅広く共通する自らの体質をどのように表現しているか。組織は個人の自由を束縛する,あるいはより新左翼的にいえば,組織は個人の主体性を抹殺する――これが新左翼に支配的な信念である。これはある組織に対して不信であるという域を越えており,いかなる質・いかなる形態の組織をも否定するという強い信念となっている。この信念は,「主体性の確立」「個人の自立」「個人の内的必然に基づいた闘い」「指導―被指導関係の否定」「教える―教えられる関係の否定」(関係そのものが否定さるべきなのではなく,学ぶことの出来ない奴が教えられる立場に立つことが否定さるべきなのだ!)「個の内面の世界」「個的状況から出発する」というような言葉を多用しつつ表現されている。こういう信念は一体どこから来たのか。すなわち何に対する否定として出てきたのか。この点をはっきりさせる必要がある。言いかえれば,こういう信念の歴史的生成過程を客観的に確定して,対立を明確にし,いずれに与するのか,即ちいずれの否定の方向に道理を認めるのか,をはっきりさせなければならない。〔中略〕

 まず第一に,こういう信念は,日本共産党の組織形態の否定物である。なぜ組織形態の否定の産物であるのか。それは,日共指導部に巣くう修正主義とその道具と化している民青を含めた下部に対する反発を,指導部の質なり内容なりにではなく,上意下達というその関係に求めてきたからである。つまり修正主義批判ではなく,指導―被指導の関係そのもの,あるいはより一般的に上下の関係そのものの否定という風につき進んだということである。〔中略〕第二に,日共の議会主義・平和主義という修正主義路線に反発し,それを否定し乗り越え,新たな真の前衛党を建設するという方向の運動がなかなか実を結んでこなかったことに対する絶望。結局は諸要求をより暴力的な方法で貫徹するというような日共の二の舞に堕していった諸セクトに対する絶望によって,日共の組織形態に対する反発が補強された。〔中略〕この二重の否定の産物が全共闘であり,その歴史的性格は第二次反日共系である。歴史的に二重の否定の産物であるがゆえに,厖大な数の小グループがそれぞれ「唯我独革」(我一人革命的なり)を唱って分立しつつも,これらの間には,この信念を保持するという巾広い共通性が与えられているのだと言える。〔中略〕

 今日われわれが当面している組織の問題は,要するに第三次反日共系の形成がいかにしてありうるのかであり,これは第一次・第二次の反日共系の質をいかなる方向で克服するのかという問題に帰着する。

 第二次反日共系=全共闘の質については,次の点で論理的にも実践的にも対決しぬくことを通じて否定克服の方途をさぐるべきである。

 第一点。一般的に言ってわれわれは自分自身の内的な必然性に基づいて生きているのか? それともわれわれの外にある必要に自らを合致させる方向で自らを律しつつ生きているのか?即ちわれわれの行動様式の基本形は,内→外→内なのか,外→内→外なのか,という問題。この問題についてわれわれの実践を総括する形で答を出すべきである。これは,われわれ一人一人が,自己改造を必要としている,そして自己改造をなすには,外に基準ないし点検者がなければならない,という当然のことを意識化できるかどうかの問題である。これはわれわれの生き方という問題に関して自己修養という方向を選ぶのか,それとも自己改造という方向を選ぶのかという最重要な選択の問題である。最重要――というのは,「だれのために,何のために生きるのか」という,革命派にとっては死活の対立をなす問題であるからである。即ち,私の利益のためか,それとも人民大衆の利益のためか,という最も根本的な問題に帰着する(因みに,人民の利益のために,というのは,私人の殺し方ではなく生かし方である。人民の利益に合致する方向に自分を改造しつつ私個人を生かすということである)。

 第二点。人と人とはどのような結合をするのかに関する現実の総括。人と人とは並列的・相互的に対峙しあうことはなく,必ず上下の関係で対峙する。従って人と人とのどんな関係も,上が下を押さえこむのか,それとも下が上を打倒するのか,という対立的契機を含んだものである。それというのも個々人は,必ず何らかの勢力をバックにし,その体現者として人と関係するからである。これが人と人との関係の普通の状態であり,そこにこそ発展の契機があるのだということを観念で否定して,全く対等の自己の内に存在基盤をもつ自立した個々人が平等に並列的に対峙しあうという,小学校以来たたき込まれてきた夢想的図式を固持し,現実をその夢に合わせようとするのは,余りにも悲惨である。それではどんな人間とも関係をとり結ぶことはできず,ただ抽象的に社会性を獲得しうるのみであるからだ。第二次反日共系の中に支配的な組織嫌いは,こういう夢想的図式の固持に基づく人間嫌いにその大きな因を持つと思われる。「だれにも踏み込めない個の領域」なるものの固持は自殺行為である。

 第三点。人と人との結合体は,いかにしてその発展を保障されるのか? 対立する相互がその質を外化し,集約し,そして分有するという関係を堅持することによってである。この集約せしめ分有する関係が,指導―被指導の関係であり,教える―教えられるの関係である。この関係の人格的表現が指導者―被指導者の関係である。即ち指導者は,被指導者の共同生産物でありそれ以外ではない。その集約者たりえず,分有の媒介たりえぬ指導者は,名ばかりの指導者で,「被指導者」はそれに対していつでも公然たる拒否権をもつ。造反有理である。

 以上の三点が第二次反日共系が絶望の淵に落ち込んで誤って保持した観念の病気の主要な症状とその治療の方向である。第二次反日共系によって総括された観念は,革命だの組織だの以前のごく普通のわれわれの生活上の事柄に関する観念である。誤って観念化した――というのは,実践的に提起したのは,はるかにすばらしく真に革命的な名に値するものであったからである。この実践の意識化が急務であり,意識のさらに強固な現実化は,第一次反日共系の不充分さにやいばを突きつけながら,第三次反日共系の形成の萌芽となるであろう。

 言いかえれば,いまだ意識化され共有されていない第二次反日共系=全共闘の実践の質は,第一次反日共系の日共修正主義批判の不充分性を突き,ひいては日共を修正主義として葬り去る力の萌芽である。

 第二次反日共系=全共闘の実践が第一次反日共系に突きつけたこと。

 第一点。各個々人の社会的規定の問題。社会的規定,簡単に言って社会における立場の問題。例えば医師であり続けることと革命的であることとは相矛盾するといった視角の登場がそれである。これはあらゆる個人に問われる問題である。簡単にいえばこれは個々人にとっては職業の問題であり,社会的に見れば分業の問題である。どういう任務を分担するのかと同時に,だれが最終的な決定者なのかという問題である。従来は,「まあ○○にでもなって××の仕事でもやろう」といって,自己の内部でその社会的意義だか革命的意義だかをデッチ上げるというやり方が革命派を自称する人々の間でも一般的であったが,果たしてそれでいいのかという問題。これに対してはっきりした答を出す必要がある。答は,下層人民が最終的決定者であり,その利益に合致するように自らの生きざまを整え,真の利益の体現者となろうとする以外にないということである。そういう中でしか職業も仕事も決せられないということの確認が必要である。これは一つの組織の中での役割分担についてもあてはまる原理である。

 これは,次のことを意味する。下層人民の友が革命派であり,敵が反革命派であるという関係であり,従来の常識――敵権力なるものが固定されていて,それに対して何らかの程度でも打撃を与えるものは革命の同志である,という図式を否定するものであるということ。だから,革命派は誰でも下層人民の真の声を体得出来る地点まで「下放」しなければならない。これが第一次反日共系に対する第二次反日共系の正しい実践的問題提起である。

 第二点。人と人との,そしてなかんずくその一特殊表現としての組織員と組織員との結合は,一般的・普通的・永続的なものではなく,必ず特定の質の結合環をもって結合している。即ちAなる質で結合している諸個人は,同時にA以外の結合環では結合していないということ,だから結合の質的発展は,必ずAなる質の破壊を待たねばならないという原則。これは団結を勝ちとり,勝ちとった団結を破壊し,さらに高度な,質的に発展した団結を勝ち取るという無限の過程を意味するものである。なんとかかんとかわが派わが陣営の独自言葉を作り,分裂ばかり起こしてきた第一次反日共系に対する絶望と侮蔑の目は,これを実践することが出来ないその固さに対して向けられたものである。

 第三点。第一点の個々人にいえることは,党派全体の方針・行動についてもいえる。グループと名のろうが,あつかましくも革命党と名のろうが,その中身は一体だれが判定するのか?下層の人民大衆である。被抑圧民族・被抑圧階級・被抑圧階層の真の利益に合致するかどうか,それのみがだれが革命派であるかどうかの判定基準である。それ以外にない。だからどんな集団も革命派を名のる限り下層人民の点検を受け,文句があったら文句を言いつつも,最終的には下層人民の点検を受けることができ,それに応じて改造することができるような,正しく謙虚な作風を身につけなければならない。自己の観念体系に基づいて勝手に革命的の反革命的のと自己を規定し,他をきめつけ,内ゲバに走り,人民の利益を損ずる自称革命派は,第二次反日共系のセクト嫌いという形での反撥を総括し,克服できなければ,ますます深く破滅の道を歩まざるをえないであろう。

 以上の諸点を解決する方向をもって第三次反日共系を形成していくこと,即ち日共批判を貫徹していくこと,これが今日のわれわれに課せられた組織の問題である,と思う。

土方健「全共闘論」,『思想の科学(特集・現代の組織論)』一九七一年一〇月号,思想の科学社,五三―五七頁
※ 全文をご覧になりたい方は,本誌をご購入ください。→購入案内

第4号目次へ / →web悍 Topへ