編集後記(第4号)――――

原稿を依頼した際の特集名は「左翼のダメなところ」であった。寄せられた原稿は,期せずして左翼のふるまい,さま,おもむき,すなわちスタイルを論じたものが少なくなかった。なぜか。思うに思想方法(作風)は人間であり,革命は人間の大事業だからであろう▼高田里惠子さんが書いているとおり,左翼運動は自分自身のダメさを直視する勇気を持たねばならず,自己批判(自虐!)こそが,左翼の唯一といってもよい美質なのではないか。文学の心なき政治は必ず腐敗するし,政治的視点なき文学は無力である。己自身の言葉に責任をとってこなかった者が人びとの信頼をかち得ることはありえない。今こそ,左翼運動は言葉の力を取り戻す必要がある。現在の左翼運動の壊滅的な衰退は悔しいかぎりだ。しかし見方を変えれば,それは左翼運動の再生のために必要なリセットなのである▼今号では,とくにバディウの文革論,とりわけ松本潤一郎さんによる「解題にかえて」から読んでほしい。ここに,左翼運動のあるべきスタイル(思想方法)について考える手がかりがある。プロレタリア文化大革命を権力闘争だと非難する意見があるが,アラン・バディウが明確に断じているとおり,この常闇の世を動かしているのは権力と闘争であり,やるかやられるかしかないのである。人びとの大事業としての革命が本物であれば,それは必ず権力をめぐる闘争となるはずだ▼またキム・ヨンイルさんの苦闘のレポートやキム チョンミさんの「国益論」批判を通じて,自らの感性を問い直してみたい。頭ではわかるが感情では納得がいかないというときの感情こそが,その人の思想なのである。自分と異なった人びとに成りかわることはできないが,そうした人びとのことを心に想い,魂にふれることはできる▼最近創刊された『生活考察』という雑誌があり,左翼雑誌ではないが,別の立場からスタイルを論じていて興味深い。その中に「毎日のタスクをto doリスト化することすらもタスクと化し,生き馬の目を抜く速さの光陰がウロボロスをなしてさらに加速する一方であるこの現代社会を生きる者にとって」という一文があった。弱者同士,貧乏人同士でいがみあう,「内ゲバ」の毎日は実に哀しい。しかし,それ以上に情けないのは,酷い現実をみて,自分はまだ幸せだと現状を肯定してしまうドレイの心だ。残虐シーンを「目を背けたくなるよう」と偽るのもダメだが,ただただ自らの安寧を再確認するのであれば,それは権力者の思うつぼではないか▼特集の趣旨を再度,強調しておく。打者たるもの,敵の強さやシフト態勢を己の不振の理由にしてはならない。左翼の壊滅的衰退は,己自身の高慢にして卑屈なふるまい,スタイルにこそ起因する。左翼運動は,自らのダメさを直視できなければ命脈を絶つだろうし,直視すればそこにこそ再生の契機があると私は心から確信している。(M)


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