『悍』第4号 pp.193-200(抜粋)

最後の革命?
解題にかえて

松本潤一郎

〔前略〕

 社会学者の大澤真幸は,現代の若者は左翼に憎しみを抱いている,それは左翼が「安全な場所」から「弱者」に「同情」しているからだ,といっている。だがそれはちがう。少なくともバディウたちは,安全な場所から弱者に同情などしていない。そこには大いなる「経験交流」があり,「じぶんさがし」(小熊英二)ならぬ,「じぶん」からの離脱がある。分業と官僚化と同情(という名の愚弄)から真に身を捥ぎ離そうとする,「魂にふれる=人間を根底から変革する」〈革命〉の,具体的な実践がある。この点を看過してバディウを「セクト主義」呼ばわりする言説があるが,これはあきらかに誤っている。

 (またこの点とも関わって,訳者はながらくバディウを,「出来事」(ここでは革命)をフェティッシュ化しつつ,その奇蹟的な到来を待ち侘びる「ドグマティック」な「神秘主義者」といったイメージで暗黙裡に捉える傾向をもっていたことを認めざるをえない。今回の訳出作業を通して,そのようなイメージをあらためた。なお,このように歪められたバディウ理解を正す書物として,Bruno Bosteels, Alain Badiou, une trajectoire polemique, Paris, Editions la fabrique, 2009. を参照されたい。バディウの思想形成の過程を丹念にたどった好著である。)

 社会学者と人類学者の相違を,文化人類学者の小田亮は,たとえばホームレスを「調査」するというような場合,人類学者は実際に「住み込み」を行うのに対し,「絶対とは言いませんけれど」と慎重に留保を表明した上で,社会学者は「支援者として「通い」のインタビューに行くという違いが出てくる」というように,説明している。

 訳者は,ここで比喩を通して説明を与えられている「人類学anthropologie」を,小田氏の議論の文脈から切りはなし――したがって以下の議論は訳者の責において為されるものであり,小田氏とは無関係である――,上記のような発言を行う人間が自称する意味における「社会学」をも含めた,広義の「人間(の)学science humaine」に対立する思考として,とらえてみたい。すなわち,産学協同その他の名において人間を,剰余価値を産出する対象または客体と見做してさまざまなかたちで簒奪・消費する,たとえば「安全な場所」から「弱者」に「同情」しているふりをしながらそれらをじぶんの「業績」や「出世」へとカウントしているのは,まさしくこのような「社会学者」をも含めた「人間(の)学」,ときに「人文科学」とも呼ばれる権力ではないだろうか。

 これに対し,小田氏の議論に触発された訳者が少なくともここで提示してみたい「人類学」は,人間を対象客体に定めて「じぶん」の保身と出世に利用するのではなく,逆に集合的に主体化する実験において,「人類」の新たな経験を創出する,そうした実験を指すだろう。そのかぎりで,小田氏の思惑を裏切ってしまうにせよ,訳者は,バディウ固有の意味での〈マオイスト〉を,この意味での「人類学者」の一形象でありうると,言っておきたい。人間(の)学ではなく,この意味での人類学を! 認識を具体的実践において検証し,翻っては実践から認識を根本的に問いなおし,ふたたび情況を変革するための認識へと鍛えあげつづける螺旋状の活動こそ,人類学の名にふさわしいと,訳者は考えるからである。

 このような螺旋状の活動の一端を示す,ある印象的な証言に,訳者は出会った。本誌創刊号(二〇〇八年一〇月,特集「1968」)にその一部が訳載された(内野儀訳・解題),クリスティン・ロスの『六八年五月およびその事後の生』(Kristin Ross, May '68 and Its Afterlives, Chicago, University of Chicago Press, 2002.)のフランス語訳版を読んでいたときのことである。それは,シトロエンで働いていたジョルジュという名の労働者による,工場にマオイストたちがやってきたときの,回想である。それがGPだったのかPCMLFだったのか,はたまたUCFMLだったのか,浅学で怠惰な僕は,たしかめていないのでわからない。でも,そこにはたしかにフランス毛派のある側面が描きだされていると信じたい。「トロツキストたちもきました,でもマオイストとはちがいました〔…〕,トロツキストは,「労働者は搾取されている,なぜなら……」,その後にマルクスの『資本論』の該当箇所かなにかを引用したビラを持ってやってきたのです。おそろしく理屈っぽくてね,ちんぷんかんぷんでしたよ! マオイストは逆でした。私たちにいろいろたずねることからはじめたんです。彼らはなにも知らなかったのです,私たちが彼らに話しかけるまでは。彼らは理想〔かんねん〕やビラを持ってやってきたのではありませんでした。私たちの言葉に耳をかたむけようとし,そしてその言葉をもとにして,ともにビラをつくったのです。私たちは心底からおどろきました……」。

 マオイストだけでなく,その他おおくの流れから形成された「六八年」の多様なうねりを,後に改竄されたその「事後の生」にいたるまで追ったロスのこの労作を,たくさんの人に読んでもらいたいと思う。

〔中略〕

 文革には,今日,ある否定的なイメージが憑いて回る。しかし,「今日」とはいつ(から)なのか。「文革」にこの否定性を付与したのはだれか。さらに,そのことによって,このだれかはいかなる利鞘を手にしたのか。また,一体だれにとって「文革」は否定的でなければならないのか。この否定的イメージはいかにしてつくられたのか。

 文化大革命は中国における一九六六年から一九七六年までの十年にかけて起きたのだと,わたしたちはつい漠然と考えてしまいがちである。しかし,それは国家装置(中国共産党)が公式に認めた支配的見解であるにすぎない。「文革」の期間(日付)を決定するのは国家ではなく,わたしたち自身である。この時期画定作業から,わたしたちは,やりなおさなければならない。さもなければわたしたちは,国家の課す規制にいつまでもとらわれ,「思考する」ことができないままである。国家や既成の知が与えた枠組の中で,延々と気楽に,けっきょくはなかよくおしゃべりするだけでは,決して思考しているとはいえない。むしろ,この枠組の外に抜けだすことこそが「思考する」ことである。その意味で,思考とは必ずしもいわゆる「知」――とりわけ上述した意味での「人間の学」――と等しくはなく,また,いわゆる「実践」と対立することも決してない。思考するとは,既存の知や制度,自明と思われていた諸々の前提や条件にとらわれた状態から,他ならぬじぶんがいかにして抜けだすかという試みである。バディウのここでの議論において,訳者にとってきわめて重要と思われることの一つは,このような国家権力による抑圧,すなわち思考の制限作用に,力強く反攻している点である。

 文革のきわめて重要な点は,この反攻を,国家と一体化した党自身が,大衆に行使することをゆるした点にある。それは,国家権力を握る党それじたいがみずからの解体を企てるという,前代未聞の実験的側面を,もっていたのである。したがって,「文革」の時期を国家権力および権力とつるんだ御用学者的「知」の定めたそれとは離れたところで画定しようとするバディウの実験-思考は,まさしく文化大革命におけるもっとも生き生きとした命脈を,継承している。

 みずからを解体すべき対象として指し示したにもかかわらず,あるいは,それゆえにこそ,この実験は中止された。国家という既成の枠組から抜けだそうとするこの実験は,実験を支える当の枠組(国家と一体化した党)そのものを,解体しかけたからである。この実験は,枠組(実験の諸条件)そのものの消滅においてのみ,完了する。それはほかならぬみずからが定めたことによってみずからを消滅させるという,異様な逆説の化身であった。

 本稿でバディウが述べる通り,国家という抑圧装置が「公共保全,自警団(私兵),軍」などに対してもつ「疎かにできぬ役割」の意味を,「文革」という未完の,したがって今なお継続中の実験を手がかりとして,今後,わたしたちは,あらためて問う必要がある。そして,そのうえでなお,国家または主権の自己解体の方途を模索すること。これが,主権または国家装置が外部に可視化されることをやめ,個人の内部へと不可視的に浸透した今日の情況に措かれた私たちに,文革から伝えられた,依然として考えなおされつづけるべき,たいせつな課題である。

〔後略〕

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