組版の哲学を考える

〜規範的ルール観からの解放を!〜




2000年8月

前 田 年 昭
ライン・ラボ代表

『WindowsDTP PRESS』vol.8(技術評論社 2000年8月発行)掲載

はじめに ぼくは,逆井克己さんの『基本日本語文字組版』が出てすぐ1999年3月,共感の立場から文を書きました(http://www.linelabo.com/sakasai.htm)。
組版の力はどうやったら身につけることができるのだろうか。
 組版には人もコンピュータやソフトウェアも必要だが,コンピュータやソフトウェアは人が使うもので,人の要素が第一である。人の要素を鍛えるには,よい関連書を読んだり,歴史を学ぶことも大切だが,実際の組版の仕事について「苦労する」ことがいちばんよい,とおもう。「苦労する」とは考えることだ。
 組版ルールを学ぶときに,権威主義におちいってしまったらとうてい組版の力をつけることはできない。ステレオタイプとは,私たちが日頃抱いている単純化され固定化された態度や意見,イメージのことだ。ステレオタイプとは活版印刷の工程において鋳型からつくられる鉛版(ステロ版)を指すことばであったが,ひとつの鋳型から同一の鉛版が多数鋳造されるところから,型にはまった発想,考え方をさすようになったのだ。〔中略〕
 日本語組版の基本を知ったうえで,自分の頭で組版ルールの「なぜ」を考えようではないか。組版の力をつけるには組版の実地のなかで「なぜ」と考えたことを検証しつづけることだ。
 さいごに私のルール観を付言する。「平和条約は戦争を隠すために結ばれ,借金の証文は反故にされるために交わされる」といわれるのと同様,組版ルールはルールとしたとたん破綻を運命づけられているのだ。〔後略〕
日々の組版の仕事のなかで内心では気になっているのに表立って取り上げられたことのないことがらを取り上げて,不平不満の「なぜ?」ではなく,真摯な「なぜ?」を正面から問いかける逆井さんの姿勢は,日本語組版ルールの問題を明らかにしました。ぼくのエールも彼の姿勢と方法におくったものでした。破綻しない組版ルールは何の役にも立たない組版ルールだという命題は,ルールというものを,組版する楽しみや喜び,自由と対立したものととらえるのではなく,ルール化−破綻の発見−再ルール化という繰り返しのなかでルールと戯れ,組版という仕事をとりもどしていこう,との論旨です。
 他方,逆井さんと意見が異なる側面,対立する側面については,なかなか意識化することができずにいました。今回の対談でも,異なる側面についてはうまくことばにできなかったのですが,対談前に準備のためにやりとりしていたメールのなかの逆井さんの一文を手がかりに,少し組版の哲学を考えてみたいとおもいます。

「テキストに介入しない組版」というルールははじめから破綻している 逆井さんは「組版がテキストの意味に過剰に介入するのはよくない。読者は組版に期待しているのではなく,内容に期待しているのだ!」と書かれています。
 組版はテキストに介入してはいけない,うんたしかにそうだなぁ。が,どうもすっきりしません。組版がテキストに介入しないとは,どういう状態でしょうか。禁則処理もきちんと行なっていなくて,あちこちひっかかって気が散り,読むことに集中できない組版のことでしょうか。それでは,組版がテキストに介入するとは,どういう状態なのでしょうか。禁則処理をきちんと守って組んだものということになるのでしょうか。素のテキストのデータには,意味改行はあっても,組んだ状態での機械的改行の情報は入っていません。ということは,組むことで新たに情報を付け加える行為は,組版がテキストに「介入」するということになるのではないでしょうか。いやいや,そもそもテキストに介入しない組版とは何でしょうか,そんなものがありうるのでしょうか。また,組版に介入されないテキストとはどんな状態のテキストなのでしょうか。
 逆井さんの意見の真意はどこにあるのかといえば,「組版の役割は裏方であって表にでるべきものではない」ということ,つまり,作業としては見えないように禁則処理をふくめた「介入」をやって,「意味には介入しない」ということでしょう。これは,ぼくの推測ですが。
 直観だけで先に結論めいたことを言えば,結局は,テキスト(意味)と組版,内容と形式,中身と器という二元論からぼくたちはのがれられないでいるのではないか,ということです。組版はテキストに介入してはいけないし,器が中身を左右してはいけない,ものごとはうわべで判断してはいけないという,一見,当たり前のように言われてきた見方を再検討しようというわけです。
 内容と形式,テキストと組版という二元論では,内容(テキスト)を本質的で独立的なもの,形式(組版)を非本質的で従属的なものと見るという見方が背景にあるようです。
 これが気に入らないのです,ぼくは。テキストと組版,内容と形式という二元論になぜ,ぼくがことのほか,ひっかかるのかといえば,そこに,組版ルールにおける規範的観点が介在しているのでは,とおもうからです。規範と正統を善とし,逸脱と異端を悪とする立場から組版の乱れを糾すという観点と方法には,ずっと違和感をいだいてきました。もちろんぼく自身も「組版の乱れ」を一度ならず指摘してきましたが,それはあくまで問題提起のきっかけとしてでした。
 組版という領域に対するぼく自身の当事者意識に起因してもいるでしょう。しかし,テキストの作り手,つまり書き手(作家)を表舞台に立つ人として,組版者やデザイナーを裏方とする見方の,その背後にあるものが気になるのです。
……内容と形式との絶対的相関,すなわち両者の相互転化があり,したがって内容とは,内容への形式の転化にほかならず,形式とは,形式への内容の転化にほかならない。……実際は両者ともに同様に本質的なものであって,形式を持たない質料が存在しないと同じように,形式を持たない内容も存在しないのである。……内容は,内容である以上,完全な形式を自己のうちに含んでいなければならない。
これは哲学者,G.W.F.ヘーゲルが『小論理学』(1951-1978年松村一人訳,岩波文庫版)でいっていることですが,こちらのほうが,ぴったりくるではありませんか。
 ある本が上製本か並製本か,文庫本かは,その内容には無関係でしょう。しかしだからといって,内容と形式とが何ら関係なく,互いに「介入」せずに存在しうると考えるのは現実に合致していないとおもいます。ヘーゲルも先に引用した一文に続けて,「正しい形式は,内容に無関係であるどころか,むしろ内容そのものである。……或る芸術家について,かれの作品の内容はいいが(否,すばらしくさえあるが),ただ正しい形式が欠けていると言われるとすれば,それは弁護になっていない。真の芸術作品は,その内容と形式が全き同一を示しているようなものである」と書き,「思想は,内容に無関係な,それ自身空虚な形式ではないのであり,また,芸術においてそうであるように,他のあらゆる領域においても,内容が真実で価値あるものであるか否かは,それが形式と一体をなしているか否かにかかっているのである」と指摘しています。
 「組版はテキスト(意味)に介入しない」と,ルールを立てたとたんに,そのルールは破綻します。『JIS X 4051-1995』は「縦書きで漢数字の位取り記号として使われる読点」「小数点として使われる中点」の字幅は半角とするとし,『標準校正必携』 『新編校正技術』はこれに「概数の表記」の読点を加えていますが,読点や中点が半角どりなのか全角どりなのかは,文脈に依存しており,テキスト(意味)に介入することなく自動判別することは不可能です。
 日本語組版における約物の役割は「段落−文−句−語−字という階層性を表現し,結果的に文の論理を際立たせるために奉仕する」(『明解日本語文字組版』1701)ことにあり,その切断の強さの区切りは混ざりあっており,境界は連続しています。読点の種類も,ある視点から見れば1つでも別の視点からみれば2つ,あるいはそれ以上です。最近,友人からおもしろい話をききました。本を手にした朗読家は,準備として文中の読点を4種類に区別し,マーク付けをしているというのです。目的しだいで読点はさらに多くの階層に分かれる可能性を示唆しています。
 やはり,「テキストに介入しない組版」という見方,考え方に与するわけにはいきません。

テキストと組版という二元論の背景には,組版の動的な歴史性への無理解がある 組版の教本類には「テキストに介入しない組版」「組版の役割は裏方であって表にでるべきものではない」という立場,観点に立つものがすくなくありません。そればかりでなく,文字や組版のこととなると,知ったかぶりをして熱くなる人が多いことは,昨今の漢字問題と文字コードをめぐる論議でもあきらかです。このことについて,小松英雄『日本語はなぜ変化するか』(1999年,笠間書院)からの孫引きですが,イギリスの言語学者,ジーン・エイチソンのことばを紹介しておきます。
ことばはだれでも話せるのに,話せるだけで,自分たちのことばについて権威をもって発言できると確信している人たちが多いことは,いささか不思議である。
 だれでも呼吸をしているが,呼吸について知っているとは考えていない。呼吸について知識を得たければ,医師に尋ねるか,生物学の本を読むであろう。ところが,多くの人たちは,自分の話すことばについてコメントする能力があると決め込んでおり,自分の意見の正しさについて驚くほどの確信をいだいている。そのために,さまざまのタコツボ的信条…が世に広まっている。
ほんとにそうだとおもいます。座談会のなかでも話題になりましたが,新聞組版でハラキリ(腹切り),段間罫が左右いっぱいに通ると紙面を上下に分断してしまうため禁じ手とする「常識」は,ある時代のある分野での規範であって,決して超歴史的な,普遍的な,ルールなどではなかったということは明らかです〔図1〕。「組版は裏方の役割でテキストには介入しない」という主張は,裏返せば,「裏方」の仕事はその専門家にまかせて,書き手や編集者,読者には介入させないという縄張り意識にも通じます。これは,コミュニケーションという組版の動機そのものの否定になりかねないとおもいます。
 あらゆる言語がそうであるように,日本語は変化し続けています。「変化」,つまり,建て直しのたえざる繰り返しこそ,言語の正常な状態です。安定,不動ではなく,不安定,動揺が常態なのです。
 最近出た『読むことの歴史』(ロジェ・シャルティエほか,田村毅ほか共訳,2000年,大修館書店)に,4世紀から8世紀の欧文書籍の興味深い組版の写真が紹介されていました。ワードスペースがなく,大文字だけでアルファベットが連続する組版で,分かち書きが生成する過程がわかるものです〔図2〕。これなどはっきりした事実として,欧文組版でワードスペースは1/3emだとかいや1/4emだとか,というルールなどもきわめて新しいものだと教えてくれます。
 組版も言語と同様,変化によって作られます。組版の変化は言語と組版の歴史のなかでのことばの生命力,創造力の現れであり,「ゆがみ」とか「乱れ」としてでなく変化が生まれ,やがて定着していくさまをそのまま見つめることが大切です。
 言語学者,エウジェニオ・コセリウは次のように指摘しています(『うつりゆくこそ ことばなれ』田中克彦・かめいたかし訳,1981年,クロノス)。
「言語はなぜ変化するのか」(不変であるべきであるのに,なぜ不変ではないのか)と問うことはおろかしい。それは,表現の要求はなぜ新しくなるのかとか,ひとはすでに考えられたり感じられたりしたことだけを考えたり感じたりするのでないのはなぜか,と問うにひとしい。……パロールが古いモデルのなかに根をもつ,話すそして理解する行為だからこそ,ラングは作りかえられる。ラングが言語的活動によってのりこえられるのは,パロールが常に新しいからである。またラングが更新されるのは,理解ということが,言語行為にさきだつラングによってすでに知られていることを超えて理解することだからである。現実の歴史的言語がダイナミックであるのは,言語的活動というものが,一定の言語を話し理解することではなく,一定の言語を媒介として,何か新しいことを話し,理解することだからである。……「変ら」ないものにあるのは連続性ではなくて恒時性であって,それは歴史性を欠いている。
文字と組版は,歴史と社会によってつつまれており,ひとりひとりの感覚のなかに刷り込まれた慣れやなじみは深く,変化は意外に緩慢です。
 たとえば中国の飛行機で,中国で印刷したとおもわれるメニューの日本語に親しみと共に,なんとなく変だなと,奇異の感じをうけることがあります。行の頭にテンとかマルが置いたままになっていたりすることに日本語を母語にもつ人びとは気になる,組んだ人はおかしいとおもわなかったからかもしれませんが。おかしいとおもうのは,誤字や誤植ではなくて全体の,紙面の顔というか雰囲気,そういうものに対して日本語の共同体の雰囲気と違うものをそこに見い出すからです。
 またたとえば,台湾や韓国だと,ひらがなとか「の」の字,カップラーメンの表の字みたいなのを真似たのをおもしろいと言って,Tシャツにしている。日本人が見るとおかしいかもしれないけれども,向こうの人にとってはそれはカッコいい。逆に英語で品のない俗語が書いてあったとしても,それを日本人は意味がわからないままにアルファベットが並んでカッコいいとおもって着ている,そういうことがよくあります。
 ぼくは日本語と中国語と朝鮮語の混在する組版を仕事にしている関係で,いい中国のデジタルフォントを買いに数年前,中国へ行ったことがあります。そこで歴史とか社会とか時代とか,やはり使う人びとが違えば文字に対する感覚というのは非常に違うんだなと痛感させられました。日本の組版者の感覚では,写研のフォントの品質は一定のレベル以上です。ところが中国へ行くと,写研製の中国語書体,簡体字も繁体字も,「これは日本人のつくった字であまり評判がよくない。こぎれいだけれども,力がないしナヨナヨしている,そう感じるからみんな使わないんだ」と北京大学の方がおっしゃったのです。どういう字がいいんですかと尋ねると,細いけれど力強い宋朝体の字を見せられ,「うーん,これは日本語を母語にしている人間にはとても書けないな」とおもいました。その社会で働いて飯を食って生活するなかで使い込まれた字はやっぱり違うんだな,と。
 そういうときに,慣れないものを見ると,やっぱり抵抗があるわけです。デザイナーや組版者,場合によっては編集者がちょとした冒険をやると,著者なり編集者から抵抗が返されることがあります。「それはちょっと大胆すぎるんじゃない」とかね。言語というのはそういう非常に保守的なものだとおもうのです。

組版の変化の外因は変化の動機であり,変化の内因は変化への抵抗である 組版とは何か。組版とは言語を扱う技芸であり,活字をページに配置する技芸です。
 組版はなぜ変化するのか問うこと自体,組版には自然にそなわった安定性があるのになぜ乱すのかと言いたげです。変化の外因は変化の動機であり,変化の内因は変化への抵抗です。「乱れ」への修復とは変化への抵抗にほかならないのです。
 組版は組版の変化そのものによって作られます。つまり組版の変化は歴史における組版の創造性の現われにほかならないのです。したがって変化を研究するということは「ゆがみ」や「はずれ」を研究することを意味しないのであり,逆に組版の伝統が定着していく様子を,言い換えれば,組版ができていくありさまそのものを研究することを意味します。
 すぐれてその言語の共同体に依存したものであると,組版についても書体についても先に述べました。では,よい書体・組版とはどのようなものでしょうか。歴史の検証を経たもの,という考えは,たしかにそのとおりですが,一面では規範的観点にしばられていないかともおもうのです。今までに存在したことがあった,過去に存在したものが正しいという考え方では,おそらく新しい組版は編み出せず,どんどんどんどん袋小路に入っていくのではないでしょうか。手本があるものだけを組版するというのでは,何の発見も創造もなく,おもしろくありません。
 二重ヤマかっこの半角送りがサポートされていないといってアプリケーションの不備をあげつらうむきもあります。でもそれはあまり意味があるとはおもえません。なぜなら日本語組版自体の歴史性から切り離された議論でしかないからです。二重ヤマかっこは比較的歴史の浅い約物で,写研のサプコルですら半角対象約物に入れていませんでした。歴史を切り離したところでの高踏的批判は何も生みません。JIS漢字の制定の歴史を批判的に検討する際に,今ほど便利につかえるコンピューターもなく,手書きのカード作業でなされた苦闘の歴史のうえに現在があることは忘れてはならず,さらに,結核が不治の病であったころの医者や医学者の苦闘を現在の高みからあれこれあげつらうことはできないことと同じく,これは歴史観の問題です。
 マルが生まれ,テンやカッコが生まれ,新しいところでは二重ヤマかっこが使われるようになる。約物や記号はどんどん増える傾向にあり,時代の変わり目にはそういうものが,ワーッといろいろ出てくるのですが,その嵐が過ぎると,生き残ったものが定着していく。最初に使われた時は新鮮で少数であってもそれが定着し採用されると,ひとつの新たな慣行,習慣になるわけです。
 ですから,目の前に今ある使い方が,古来より使われてきたかというと,必ずしもそうではなく,実は非常に新しい場合もあるわけです。一世代の歴史は悠久の歴史のなかではひとこまですが,その世代の人びとにとってみればちょっとした変わったものでも非常に抵抗がある,それが言語であり,文字や組版ではないかとおもうのです。
 古い世代の人たちが「本来のかたち」とおもいこんでいるものは,その人たちが生きた時代のことばであり,文字や組版です。若い,すなわち新しい世代の人たちにとってのなじみや好みは,古い世代の人たちが「乱れ」として嫌悪し,排除しようとしている新しい表現や組版にほかならず,その関係は永遠の過去から永遠の未来へと繰り返され続けているということではないでしょうか。何が「本来の組版」かということ自体,時々刻々と移り変わっていきます。
 変化の渦中にあっては新旧両方の形が共存します。これを「ゆれ」として客観的に受け止めるならばともかく,一定の価値判断のもとに「乱れ」と決めつけて,「本来のかたち」に戻せと主張しはじめると,古い世代の同調者も少なくないため,新しい世代の同意は得られず,紛糾します。小松英雄も先の本のなかで「過去に生じた変化に対してはきわめて寛大であり,目前に進行しつつある変化には過敏に反応して,懸命に引き戻そうとするのが〈世のならい〉である」と書いています。
 たとえば「ら抜き」ことばを「乱れ」と決めつけ非難するむきは少なくなく,国語審議会でもとりあげられ,島田荘司の作品『ら抜きことば殺人事件』では殺人事件にいたる(!)ほどですが,超歴史的に,正しい日本語なるものが,客観的かつ固定的に存在するわけではありません。あえて「正しいことばづかい」とは何かといわれれば,相手に抵抗を感じさせないのが正しいことばづかいであり,適切な日本語だといえるのではないでしょうか。若い世代と話すときには「ら抜き」を使っても,年配の世代と話すときには「ら抜き」を使うのを控えるというように,相手次第でいくとおりもの正しい日本語があり,その場その場に応じて適切に使い分けるのが言語運用の能力ではないでしょうか。

組版の変化の直接の原因は,類的存在としての人間の交通への本源的欲求である 言語,文字と組版やそのルールの変化の直接の原因は何でしょうか。それは,その言語の共同体のなかでの新しい表現への欲求であり,変化はその要求を満たすための体系の調整です。個々の変化を説明する因果律の原理は,場当たりではなく,一貫していなければなりません。
 新しい表現への欲求とは,文化的,社会的,審美的,機能的のいずれかの必要ということです。聞き手(読み手)は,たとえそれが「なじみ」のないものであっても,自分の知らないものを学ぶ契機であったり,機能的に役立つもの,カッコいいものとして美的に満足させてくれるものならば,採用します。この場合採用は,文化の行為でもあれば,趣味の行為でもあり,また実用的な見識の行為でもあるわけです。
 話し手−聞き手,書き手−読み手という関係は,人間の本質的なもの,つまり交通(コミュニケーション)にとって,ことばや組版は,ひとりの人間が決してひとりではなく,他者とともにあることをあからさまにしてくれます。人間は(動物とちがって)他の人間と関係し,まわりの他の人間との交通を求める必然性の意識が生まれます。
「言語は実践的な意識,他の人間にとっても存在し,したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である」とK.マルクスは『ドイツ・イデオロギー』(1956-1978年古在由重訳,岩波文庫版)で書いています。
 弁証法とは対話のことで,自分と異なる見方,考え方と向き合い,議論をたたかわせることによる発展だというではありませんか。この出会いは,ことば,組版を媒介としてはじめて可能です。人間的意識とは常に歴史的意識なのです。そして歴史的意識が現われる基本的なかたちが言語であり,文字と組版です。他者とおなじように話すこと,すなわち,伝統にしたがって,すでに話されてきたように話すことは,つねにある言語を話し,組むわけで,たんに自分ひとりをあらわにしめすということではないのです。はじめから相手,つまり聞き手(読み手)に理解してもらうために表現することです。ことば,文字と組版の本質は,対話,コミュニケーションのなかに表わされているからです。聞き手(読み手)は,たんに話し手(書き手)が語る(書く)内容を理解するだけにとどまらず,話し手(書き手)がそれをどのように言って(書いて)いるかにも同じように注目します。その形式のなかに貫かれた内容を,形式を通して受け取るのです。
 テキストをある組版の姿で組んだ背景には,動機が貫かれているはずであり,そこからルールが生まれ,そのルールはある時代のある共同体のなかで日々組み替えられ,作り直され続けています。組版の教本はその特定の局面を切断し,切断面を固定して取り出し,慣行を規範と言い換えて,出されているのです。
 しかし,いったん教科書として出されると,慣行はひとつの規制力をもった規範として定着していく力がはたらいてしまいます。ウェブ上でも「組版とはこういうものだ」とあちこち書かれていますが,ぼくは元来しつこい性格ですから,「それはなぜですか?」と執拗に問い続けています。わかりやすい例で話をしましょう。漢字1字1字に対してルビをふる方法をモノルビといいます。「京都」という文字にルビをふる場合,ルビは「京」という漢字に「きよう」と3文字付き,「都」には「と」とひとつ付きます。このときに「京」と「都」の間は空けなければいけないとウェブ上で書いている人がいます。「なぜですか」と聞くと「昔からそうなっているから空けなけないといけない」と返ってくるのです。
 ぼくはその人を責めているのではありません。きっとそう書かれた教科書を読んだり,だれかに教えられたりしてそのまま書いたのでしょう。
 現に『新編校正技術』には,各論併記で並べています。つまりひとつは「京都」といった場合は親文字間が空くというものです。「京」という漢字の隣にふた文字,定員2名のルビの座席があるところに「きよう」という3文字が入るためルビが1字はみ出る。はみ出る部分だけ親文字が空くのが本当だという説です。もうひとつは,ルビの半角は次の親文字「都」と重なっても「京」と「都」はベタ組みとするものです。「都」に付くルビは1字で「都」の真ん中に配置されるから,親文字の四分ずつ,ルビ文字半角ずつ,上下に空きがあり,空きの部分に「きよう」からはみだした「う」が重なってもいいという説です。ぼくは後者の意見ですが,この主張は相対化されてしまっています。
 こういう細かいきまりごとの世界で,ルールが固定であり不変であると固く信じてやまない人たちが,「組版は乱れている」と言う。それはやっぱりちょっとおかしいのではないか。ルビがいつ頃からどういうふうに使われて,いつ頃使われなくなっていたか。また最近再び使われるようになったということ,そういう歴史を見てやっぱり考えるべきではないかとおもうのです。
 体系とは,ある共同体のなかで理解される組み方のいろいろな可能性の一群ですが,これに対して,規範とは特定社会,特定文化によって定められた義務的な表現の一群です。言い換えると,規範は,組み得るかたちではなく,すでに組まれたかたちやある共同体のなかで伝統的に組まれてきたかたち,その技術を用いその規準に従うところの,すでに歴史的に実現された見本を擁しています。体系は組版のダイナミックな性質の生成のしかたを,したがって,すでに実現されたものを超えて進む可能性をも示しています。
 規範は,そのときの「現在」までに,すでに歴史的に実現されてきた見本,モデルの集合です。組版の日常的ゆれを規範は伝統的鋳型のなかに引き戻して固定化する力を働かせます。「そんなこと,今まで例がない」と。つまり組版が作るための体系であろうとするとき,規範は作られた,閉じた体系として対立するわけです。しかし体系性も歴史性につつまれており,前もって過去のモデルのなかに片鱗も存在しないものが体系のなかに現われることはないし,逆にまた,規範によって蓄積された選択に逆らってまで機能体系から消えてしまうものは何もないということです。
 変化の条件は変化そのものです。体系は,ありのままの変化そのものから出発しなければならず,現に今ある体系そのままを記述することによって答えられます。かくあるべしという規範ルールを現実に運用されている実態としての体系の記述ルールに組みかえることは不可能です。いく世紀も経た文学作品のテキストが,現代と同じ組版で組まれているはずはなく,表記のみならず組版として組み替えられ,手を加えられることもまたあり得るのです。組版とはたえざる体系化です。たえざる運動を続ける組版の体系に向かい合うことです。組版を体系として理解するためには「乱れ」として嫌悪したり変化に目をつぶったりする必要はありません。変化は組版が体系であることに刃向かうようなものではないからです。逆に,組版に固有の動的な体系性を否定するものは静止性であり,静止性こそは組版が組版として機能することを不可能にし,やがてはそれを死滅させてしまいます。

組版の歴史性は体系性をつつんでおり,たえざる修復によって連続性を維持する 組版の歴史性はその体系性を包み込んでいます。組版は状態以上のものです。第一に先行する組版の建て直しであり,第二に変化とは新しい伝統のはじまり,つまり非変化のことなのです。
 組版は体系ゆえに機能するのではなく,機能するために体系をなしています。機能しつづけるために変化するのです。行為は慣用を具体的に現示しますが,その現示と同時に慣用を乗り越え変容させます。
 つまり,変化は目的意識的なものです。しかし,変化が採用されるかどうかは,正しいとか間違っているとかによるものではないわけです。ここちよい,あるいはカッコいい,美しい,よさそうだということになって採用され,採用されたものが今度は慣れになり,なじみになる。そういうものではないでしょうか。
 ことば自体の成り立ちがそうです。数年前に中国に行ったとき,観光通訳としてはかなり優秀な方を頼んだのですが,中国の組版ソフトの技術者との会話がなかなか通じなくて困りました。印刷用語の「トンボ」とか「裁ち」とか言っても,通訳さんも困りますものね。結局,筆談で絵を描いたり,英語でTrueTypeとか書いたりして,なんとか意思疎通できました。日本語や韓国語の場合は,英語のまま読みでカタカナやハングルで表記することができますが,中国語の場合はそうはいきません。場合によって何年かかけて検討し,漢字に置き換え採用されていきます。コンピュータは大陸では最初は「計算機」ということばでしたが,台湾から「電脳」ということばが入ってきて,今はもう大陸でも「電脳」ということばが使われるようになりました。きっとそのほうがカッコよかったのでしょう。
 物理学で物質の単位として分子,さらに小さいものをアトム(原子)と名づけましたが,アトムとは分割できないものという意味でした。つまり究極だ,と。ところがさらに小さいクォークが発見されるに及んで,原子も階層のひとつに過ぎないことがあとでわかります。素粒子,クォークについて,日本の物理学者,坂田昌一が中国へ行って毛沢東と話したときに,毛沢東が「層子という名前がいい」と言ったそうです。クォークもやはりひとつの階層で,さらに小さな階層もいずれ発見されるだろう,分割できない最後のものだと名づけたとたんに,哲学的にも思考停止に陥ってしまう。階層のひとつにすぎないという意味で層子という名前がいいだろうということで,坂田と意気投合したというものです。漢字の国ならではの話で,なるほどなとおもいました。ことばの採否も,文字や組版の変化における採否も,たえざる建て直しによって機能性を維持していきます。
 意味の伝達という動機からすれば,目標は無限たらざるをえません。この意味では組版は,文字を用いる技芸であり活動であるといっただけでは十分でなく,文字や記号を創造する技芸であり活動であるともいえるわけです。組むという行為はすべて歴史的であると同時に自由ですから,一方では歴史的必然の条件の枠に規定され,他方ではすでに実現された規範をこえてすすむ創造なのです。
 話しことばが変化し,書きことばも変化する。あらゆる言語はそれとセットになった文化の世界と一体です。組版の変化,新しいものの採用は,言語における採用とおなじように目的性ゆえの営みです。組版の「発達」とは,なにか自然の対象の「進化」ではなくて,文化の対象の構築です。したがって,それは基本的に書き手の目的と志によって動機づけられているのであって,他の条件によるのではないということです。
 日本語組版のすばらしい姿とは,動いている姿,働いている姿です。
「組版の乱れ」についてのさまざまな言説は,植え付けられた「正しく美しい日本語組版」の幻想だと断定していいのではないでしょうか。
 組版における変化とは「破壊された」「歪んだ」というものではなく,体系のたえざる建て直しであり,修復であり,その連続性と機能性とを維持させるものです。組版は変化することによって創られ,変化することをやめるときは,その状態のままで「死滅」するのです。歴史性につつまれた組版の体系性は可能性としての体系ですから維持されます。たえ間なく変わっているのはその実現であり,そのときどきの均衡です。
 組版の知識とは,作る,組む知識,すなわち技術的知識です。
 組版には数多くの改新があらわれながらも,そのうちの特定のものだけが採用されて広められるのはなぜだろうか。この問いに対する答えはこのように問うそのことのうちにすでにある程度含まれています。すなわち,採用とは機械的なしきうつしではなく常に選択だということです。
 採用は常に表現の必要に応じて行なわれます。その必要とは,前にも述べたとおり文化的,社会的,審美的,機能的いずれかのものであり得ます。したがって採用とは,文化の行為でもあれば趣味の行為でもあり,また必要的な見識の行為です。
 客観的事実としての組版,活字を組む歴史的技術としての組版についての知識とは,創造する知識,すなわち技術的知識です。つまりそれは事物,ものの体系ではなく,技術の体系,つまり,テキストをインキとしてページに定着させるためのフォーマットとその連続的適用の体系です。それはまた閉じられた体系ではなく,開いた体系です。ルールからのはみ出し,逸脱,さらにルールそのものの破綻に対して,新たな体系を組み替え,建て替える,そのために考え続け,組版し続けることでしか,回答は得られないとおもいます。求めるべきは,作られた体系ではなく,創るための体系としての組版の技術であるべきではないでしょうか。
 組版はひとつの社会的事実です。しかし,政治や法律,宗教,芸術などと同類の,特定の社会制度に照応したものではありません。なぜなら組版はことばとともに,あらゆる社会的なるものの基礎そのものだからです。法律や医学など,社会体制,イデオロギーの影響を大きく受けるものと対極にあるのです。イデオロギーなどの影響からもっとも離れたところ,逆に言うとそれをもっともよく見ることができる,そういうものではないでしょうか。それがことばであり,組版ではないかということです。
 現実の組版がダイナミックであるのは,一定のテキストがテキストとして存在するのではなく,ページネーションを媒介として,何か新しいものを組版の姿として生み出すことだからだとおもいます。

むすび 1996年の暮れからはじまった「日本語の文字と組版を考える会」の運動は3年ほどで終息しました。ぼくは98年末まで世話人のひとりとして関わりました。バブルの崩壊と急激な業態の変化のなかで,文字と組版に関わる仕事が急速に賃労働化しつつあったなかで,それは本づくりをはじめ自然権としての表現し創る権利をとりもどす叫びであり,自分自身のなかに人間をとりもどす“お祭り”であったような気がします。ある局面では,目の前の組版ソフトやコンピュータへの反発や憤激からラッダイト運動(機械うちこわし運動)の様相も呈しましたが,これは“お祭り”ゆえの行き過ぎのひとつでもあったわけです。そのなかで,歴史への眼差しを取り戻そうという声が支持と共感を得て,手仕事がみなおされ,手動写植やアナログ製版の職人技が再評価されました。そこに仕事と人間をとりもどす可能性を見出そうとしたのだとおもいます。
 しかし反面,歴史への関心を高めた方向も,やがて規範意識の立場から固定された伝統の枠にルールをゆだねてしまう傾向を生み出し,再評価され「裏方」から日の当たるところへひっぱりだされた職人技におごりと自己満足を生む行き過ぎも生まれました。しかし,伝統としての歴史が実現した規範を物神化して,その枠のなかに,そもそも表現する本源的欲求である組版をおさえこむことなど不可能です。活版の時代,手動写植の時代でも見るに堪えない組版はありましたし,ことさら現代の「乱れ」をDTP技術に責を負わせる形で指摘し,「組版の危機」をあおることは,歴史の事実にも合っていないだけでなく,人間と技術との関係において人間の力を小さく見せてしまうのではないかと今,おもっています。技術が人間を支配するのでなく,人間が技術を支配するのだとあらためて強調しておきたいのです。
 自分の表現し,組版したものはみんなのものである,という関係を実現しようとおもえば,まず自分の創ったものを本当に自分自身のものとして取り戻さなければなりません。
 ぼくは今,楽しかった“お祭り”の日々を懐かしくふりかえりながら,このようなことを考えています。


参考文献
Webへの発表に際しての注記
見出しの位置と内容,本文の一部の表記は,『Windows DTP PRESS』に掲載発表時のものからさらに改訂,変更しました。
2010.09.16 書誌を中心にリンク付け(入手可能はbk1,絶版品切はNDL-OPAC他,判断は恣意的)
(おわり)


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前田年昭 MAEDA Toshiaki
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