「六八年革命」を遶る断章



2002年6月

府 川 充 男

主著『聚珍録―図説・近代日本〈文字‐印刷〉文化史 全三篇』(三省堂)。築地電子活版代表。分析書誌学,日本印刷史。

さらぎ徳二編著『革命ロシアの挫折と崩壊の根因を問う』(さらぎ徳二・いいだもも・岩田弘・望月彰・生田あい・新田滋・府川充男執筆,2002年6月15日刊行,私家版)に掲載されたものを許諾を得て転載

 府川充男は一九五一年生れで,私の住む国分寺市の隣り国立市にある桐朋高校に進み,卒業後の浪人時,六九年から七〇年にかけて立川高校,国立高校等の活動家をもまとめ三多摩の高校生運動を制圧していた。その動員数は一橋大学全共闘の根こそぎ動員の五倍以上,三鷹以西だけで百数十に及ぶ勢いであった。七〇年春に府川は早大に進学して赤ヘル無党派部隊を組織する。
 彼との出逢いは,『情況』誌に私の「革命に生きる」を連載するために編集部の古賀暹,横山茂彦,府川の三氏と国分寺で食事を共にした時であった。その後,私宅が放火で全焼し,本も資料も完全に灰となり,入院し呆然としている時,東大・川上浩の遺した本をはじめマルクス主義や経済学,革命運動史関係の文献が府川から次々と送られてきた。これらの本が無かったら今の私は無い。
 府川は印刷史,文字論,組版技法関係の著書・共著書を数冊出している。(さらぎ徳二)

私は分析書誌学的方法による近代日本印刷史の研究者である。何故其様(そん)な者に成ってしまったのか自分でも能(よ)く分らないのだが,浮世の風に吹かれているうちに何時の間にか成っていたとでも言うしかない。「分析書誌学的方法」を平たく言うなら“ブツとしての印刷物”を対象とするという事で,印刷されたテクストの内容には殆ど立入る事がない。随って印刷史についての私達の論攷は,ブツとしての印刷資料の分析・調査,ブツの状態の「客観的」記述に終始する。其処には「政治的立場」も「政治思想」も入り込む餘地がない。「思想」一般ですらも入らないという,少なくともそういう“振り”をしているのである。
何年前であったか基督(キリスト)教史学の先生方と印刷史研究者の共同の研究会が横浜で催されたことがあった。抑(そもそも),漢字鋳造活字は一九世紀初頭に欧羅巴(ヨーロッパ)で生れ,東洋学と清国沿岸部への基督教伝道を両(ふた)つのエンジンとして開発されてきたものである。基督教史と印刷史とは,取分け明治二(一八六九)年長崎の本木昌造に上海製明朝活字一式を齎(もたら)した上海のアメリカン・プレスビテリアン・ミッション・プレス(美華書館)の刊行物・印刷物,或は十九世紀の欧羅巴(ヨーロッパ)や日本で刊行された邦訳聖書類等を共通の研究分野とする。研究会が終り,打上げで料理店に行った。小声で話され翌日の礼拝に備えて亜爾箇保児(アルコホル)も控え目にしておられる基督教史学の先生方と,大酒を飲み下品な冗談を言ってゲハハと笑っている印刷史研究者は将(まさ)に対蹠的(たいせきてき)であった。その折,川島第二郎先生に「君達は僕等からすると涎が垂れそうな資料に迄目を通しているのに表面の活字しか見ず,其処(そこ)に誌(しる)されているテクストの中身には興味を持っていないんだね」と揶揄(からか)われ,「済いません。私等は宗教とか思想の様な高級な事とは縁が無いもんでして」と御答え申上げた覚えがある。高級な事とは一向縁が無いが,其の代り基準は資料事実のみなのであるから「解釈の相違」等という代物の介在する餘地は存在せず,早い話論争の白黒は極めて明確,仮令(たとえ)相手が他ジャンルの大御所であろうと其れがどうした,時として赫々(かくかく)たる戦果も挙げている。


斯様なスタンスで印刷史方面の論攷を手掛け始めてから随分経つので,其間トンと縁の無かった政治思想だの社会思想だのという方面になると,俄然失語症に陥らざるを得ない。其れに,曾(かつ)て拙宅に少し残っていたマルクス主義や宇野経済学系統,革命運動史を始めとする左翼方面の書物は略(ほぼ)総て放火で蔵書を失われたさらぎ徳二氏の御宅に引越している。政治思想の入り込む餘地の無い文章しか綴らない輩の許(もと)に左翼文献があるよりは,さらぎ氏に活用して頂いた方が世の為であるのは当然だ。先程本棚をチェックしてみるとフォイエルバッハ,マルクス,エンゲルス,レーニン,スターリン,ジョン・リード等の文庫本が併せて三十冊許(ばか)り,見れば『賃労働と資本』『賃金・価格・利潤』『資本主義的生産に先行する諸形態』『反デューリング論』『空想から科学へ』『家族・私有財産・国家の起源』『自然弁証法』『フォイエルバッハ論』『共産主義における「左翼」小児病』等最近では話題にも上らない様な標目が多いが『仏蘭西の内乱』も『ブリュメール十八日』も『何を為すべきか』も『一歩前進二歩後退』も『国家と革命』も何処へ行って仕舞ったものか見当らぬ。『猶太(ユダヤ)人問題を論ず』『ゴータ綱領批判』を久しぶりに繙(ひもと)いてみれば旧字旧仮名,今では商売柄其れがどうしたという所だが,思えば十代から旧字旧仮名でマルクスを読んでおったのだな。他には高畠素之訳の『資本論』二セットや戦前版のスターリン,トロツキー,クラスノフ,マリー・ストープス等“書誌学的対象”を除いては,情況出版刊の単行本が何冊かと『情況』『アソシエ』『理戦』『共産主義運動年誌』,其れと何故に残っていたか懐かしや『現代の眼』位しか見当らない。『思想』も『試行』も先年の引越の折古本屋に売払い,七〇年前後の党派機関誌の類も,十年以上前に殆ど国立国会図書館と都立中央図書館に寄贈して仕舞った。つまり手許に碌な資料も無いのである。
併(しか)しながら烏鷺(うろ)覚えの記憶のみに拠り亦(また)極私的な射映からではあれ「六八年革命」に就いての蕪雑な短章を綴る事で,纔(わず)かでも責を塞がなくてはならない。何故か。六八年秋,東大闘争の最中であったと記憶する。高校三年,十七歳の私の許へレーニン主義者協議会という組織(マル戦派の一分流)から派遣されてきていた家庭教師は,後に弁護士となり反日武装戦線や花岡事件の弁護団で活躍する東大駒場の新美隆であった。或る時親父が新美に「君達の組織で息子の地位は兵隊の階級で言えばどの程度なのか」と問うた。新美は即座に答えた。「ま,軍曹という所でしょうか」。親に聞かれたので新美は一,二階級位上げて言ってくれたのであろうが,何だ,すると実は兵長か上等兵か,最高で伍長か。私に小稿を草する様言われたさらぎ氏は第二次ブントの紛れも無い将官であった。私は兵卒である。軍規には刃向えぬ。とは云え,「六八年革命」の鳥瞰的総括等と云う大事は何にせよ生涯一兵卒の任では有り得ない。


最近「六八年革命」と云う言葉をよく目にする様になってきた。『早稲田文学』にはすが秀実氏が連載を書いておられるし,『情況』二〇〇二年六月号の特輯は仏蘭西(フランス)の社会学者ピエール・ブルデューの追悼と「六八年革命と現代思想(一)アントニオ・ネグリ」である。其の特輯の最初に「歴史の転機としての一九六八年」を書いている早大教授高橋順一は中核派の高校生組織反戦高協から青学大で叛旗派に転じた男で私の知友でもある。党派こそ違え高橋も「六八年革命」の一兵卒であった。世界で略同時に起きた「六八年革命」が日本では第二次砂川闘争を前史とし六七年秋の十・八羽田闘争を起点として七二年四月の全国全共闘連合の分裂迄――或は七二年秋からの早大全学行動委員会(WAC)による大衆的対革マル闘争(“最後の全共闘叛乱”)の敗北迄とすべきかも知れない――の事だとすれば,私は前史を含めて其の総ての期間を民青(六七年七月査問・除名)・高校生社学同・ブント高校生細胞・レーニン主義者協議会,そして早大赤ヘル無党派の兵卒として終始したことになる。


しかし……あの時分,誰一人として自らが「革命」の渦中にあるとは感じていなかったと思う。ヘルメット・棍棒・石礫による「武装闘争」は十・八羽田(投石+旗竿は既に七・九の砂川で「実験」されていた)から始っていた。六八年三月,ブント加盟を承諾した折,私は七〇年決戦時の銃撃戦迄を覚悟した(だから正直な所ブントには入りたくなくて「気楽」な社学同の儘でいたかった)が,実際には戦術のエスカレイションは割とゆっくりしたものであった。其の意味では『七〇年をどうする』(田園書房)でいいだもも氏が学生の「武装」は既成の「戦後民主主義的抵抗」の回路に対する叛乱としての「象徴的武装」だと位置付けられ,其れに対してさらぎ徳二・本多延嘉の両氏が反撥して見せている条も,いいだ氏の評価が正しいだろうと一読者としては感じていたものだ。火焔瓶が始めて全面的に遣われたのは慥(たし)か六九年の安田講堂攻防戦だが,其れが常態化した訳でも無かった。大闘争の合間には各所で無数の小闘争が組まれていて駒場や御茶ノ水,神保町等でハプニング的なゲヴァルトに遭遇するのも屡(しばしば)であった。私は七一年の二月に二十歳となったが,十七歳以来の来し方を振返ってみて,錙(わず)か二年半許(ばか)りの間に武器を持った相手(機動隊・日共・革マル・右翼・新左翼他党派等)と躬(みずか)ら武器を持って渡り合った回数が優に二百を超している事に吾ながら呆れた事がある。とにかく荒事だらけの時節であった。
とは云え,国家権力の打倒とプロレタリア独裁の樹立という意味での「革命」は未だ遙か遠くにあり,自分達が生きているうちに手が届くとも感じられなかった。但し党派組織の一員としての私は勿論,世界革命やプロレタリア独裁の樹立を唱えていた。当時の活動家なら誰でもそうであったように,私は越南(ベトナム)で行われている合衆国の蛮行に腸(はらわた)の煮え滾(たぎ)る様な忿(いか)りを覚えており,其れに加担している日本国家権力も許せなかった。国内外とも様々な不正義や悲惨さが目に入った。自民党政府の打倒,いや寡(すく)なくともせめて佐藤内閣の打倒位には漕ぎ着けたい。強度十の主張の許に行動しても実際には一程度しか実現出来ないのが政治的実践というものであろう。だとすれば,強度五の結果を求めるなら五十程度の言葉は持たねばなるまい,十の結果を求めるなら百位は吹いておかねばなるまいというのが,誰にも言わなかったが当時の私にとっての聊(いささ)かブラグマティックな「マルクス主義」や「レーニン主義」,或は「革命戦略」や「綱領」に対する感覚だった。「主義」はまあ上着の意匠みたいなもので気分が変れば着替えれば良い――だから「教条」としての革命思想には終始無縁であったが,私の周囲の十代の活動家は多かれ少なかれ其様なものだった様な気もする。


高橋順一も誌(しる)しているように実定的なレヴェルでは「六八年革命」は何(いず)れの国でも無惨に敗北する。組織労働者とも結合し,先進国では最も「権力奪取」に近付いたかに見えた仏蘭西「五月革命」でさえもド・ゴールの踏ん張りの前に屈さざるを得なかった。併し仏蘭西「五月革命」はルイ・アルチュセール,続いてジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリ,アントニオ・ネグリ等の智識人による「言説空間の革命」を産み落す。「言説空間の革命」とは如何なる事か。荒岱介・古賀暹・高橋順一による座談会「ブントから見た廣松渉の思想と哲学(下)」(『情況』二〇〇二年六月号)から高橋の発言を引いておこう。
欲望は人間である限り当然持ってしまうものであり,それに従って行動する。しかしそれに欲望という言葉を与えることによって,つまり社会的な位置付けをすることによって別のことが起こる。欲望は悪いものではなく,本来固有なものである。ホッブスもそういうことを言い出して,もっと決定的なのはヒュームですが,人間が欲望の主体であると言ったときに確実に何かが変わった。廣松さんが通用的正義・妥当的正義といったときに,妥当的正義は日々の実践においては存在しているが言葉を与えられていないものに対して,例えば欲望という言葉を与えることによって極めてラディカルな社会認識の枠組みの変更を行ったのです。……今のわれわれの時代は欲望資本主義が支配しているように見えますが,その中でいろいろと不満を抱き,いろいろと行動しますが,それにはまだ言葉が与えられていない。……欲望資本主義を通用的価値とする枠組の中からはみ出す実践が出てきた場合に,それに欲望とは違う言葉が与えられたとすれば,ホッブスやヒュームが人間は欲望の主体なのだと名付けたのと同じような形でぜんぜん違う概念が与えられるのではないか……ニーチェが考えたことはまさにそういうことではないかと思います。フロイトが「無意識」と言ったときもそうだった。それによってぜんぜん違う妥当的価値の地平が開けてくる。
フーコー,デリダ,ドゥルーズ,ガタリ等による仏蘭西の「現代思想」は日本では当初脱政治的文脈で受容されたが,本来抑(そもそも)其等の多くが「五月革命の総括」をモティーフとする極めて政治的な視座の許に成ったものだ(尤もデリダには「五月革命」のインパクトは取立てて無かったかも知れない)。日本では仏蘭西とは事情が異なったが,マルクス主義に発しつつ現象学や新カント派,社会学,言語学,仏教等其の「外部」との全面的な対質を図った廣松渉氏が猛烈な勢いで論文と著作を量産し始めるのが七〇年代である。
実定的なレヴェルでは敗北しつつ,近代の,或は二〇世紀の言説空間が革命されたという高橋の論攷を読んで,嘗て長崎浩氏が誌しておられた,第一次ブントが日本の政治運動の中に始めて持込んだスターリン主義批判だとか反米ナショナリズム批判だとかが当り前の言説に成るのに二十年を要したという言葉を想い起さざるを得なかった。私達は六九年九月刊行の廣松渉『マルクス主義の地平』(勁草書房)から既に三十二年の星霜を閲している。実定的レヴェルでは日本新左翼運動は今や気息奄々たるものがあるが,マルクス主義の古典的著作以上に現象学や構造主義,社会学,言語学,精神分析等の素養無くしては抑(そもそも)の指南力を認められなくなっているという意味で,慥(たし)かに左翼的言説空間が「革命」されてきているのは,最近の『情況』でも繙(ひもと)けば瞭然である。廣松氏程にスケイルの大きい体系家は見当らないが,目配りの範囲は六〇年代の左翼智識人と較べた場合,桁違いに広くなっている。
其れでも視野狭窄の儘今日に至っている旧「新左翼」組織は未だ残存している。だが,其様な連中が六〇年代後半に新左翼が有していた社会的・智的ヘゲモニーの一缺片(かけら)すら最早持ち合せてはいない事は私の様な者の位置から見ても晰(あき)らかであると思われる。近年の党派活動家は『情況』や『アソシエ』『批評空間』『現代思想』にも全く目を通さない,六〇年代以下の智的怠惰を常態とする。過日『情況』編輯子の大下敦史と雑談をしていた折,「此期(このご)に及んでもレーニン『帝国主義論』の帝間争闘戦シェーマ等を墨守し『何を為すべきか』を規矩とした党建設を未だに唱えているような組織にはもう立枯れの途しか無いよな,大体連中はソルジェニーツィンも『チューリヒのレーニン』も読んでいないに決っている」と私が言ったら,大下が「いや,そう言って組織を保(も)たせなければならない立場の奴だっているんだから,察してやれよ」と返事した。如何にも大下らしい思い遣りではあるが,併(しか)し其様な組織を維持だけしてみても仕方あるまいと思わざるを得ない。


私は八五年から九〇年迄の六年間略(ほぼ)毎日,国会図書館や内閣文庫を始めとする図書館に通っては印刷史関聯資料の複写を輯(あつ)め,整理していた。其頃新田滋という青年が自身刊行している同人誌『コンセプト・ノワール』を携えて拙宅を訪ねてきた。一九六〇年代初頭の再建社学同の機関紙『SECT6』(創刊号のみ『SECTNO6』)の複写を見せて欲しいとの用件である。東大の大学院で経済学を学んでいるという其青年は学生時には中大だったためか妙に中大ナショナリストで,三上治や神津陽に,彼等がブントの「中大派」であったが故に興味を持っていると語った(再建社学同書記長の福地茂樹氏も中大だった)。其れから十数年程にはなろうか,アソシエ二一で新田君と再会したが,彼は既に『段階論の研究』(御茶の水書房)という立派な著作を上梓していた。私は半ばヴォランティアで大下麾下の第三期『情況』の組版を担当しているが,テクスト・データがメールで送られてきて,モニタ上でそれを組上げながら斜め読みするのが最も楽しみなレギュラー執筆者は仲正昌樹と新田滋という未だ若い論客達である。二人とも実に斬味が良い。『情況』に掲載される新田君の経済学論攷には六〇年代ネタが結構鏤(ちりば)められていて,時には私も属していたマル戦派という組織の話まで出てくるのには聊か驚かされる。予(かね)てから持続してきた「興味」の所産なのであろう。
曩(さき)にも少し触れたが,一九六六年始め桐朋高校一年で民青に加盟した私は二年生の夏に「トロツキスト」の廉(かど)を以て除名された。いいだもも氏に始めて御会いしたのは多分六六年暮れか六七年始めのベ平連の会合で,いやはや世の中には途轍も無く頭の良い人がいるものだと十五,六の少年は肝を潰したものである(『情況』でいいだ氏が学徒出陣の思い出を書いておられたのを読ませて頂いたが,私の親父は理学部か工学部だったので文系と違って一年徴兵を猶予された為命拾いしたと聞いた事があるから恐らく同世代であったのだな)。七〇年代にポール・スウィージーが来日した折,東大で開かれたシンポジウムの司会はいいだ氏であったが,伊藤誠氏等数人のパネラーが各(おのおの)二十分程も話された内容(つまり一時間半程の数人の話の内容)を総て的確に要約しつつ,次の議論の流れを作り出していく鮮やかな仕切の手際にも目を瞠った覚えがある。私が民青を辞めて新左翼になろうと心に決めたのには,いいだ氏が明晰でフランクな語り口で話された日共批判の影響が実に大きかった。
一旦加盟してはみたものの当時の民青は退嬰的な歌と踊り路線で,選挙運動の手伝いは遣らされるものの越南反戦の具体的行動などもっての外,読合せといえば『民青新聞』ばかりでマルクスもエンゲルスもレーニンも読もうとせず,縦割の官僚組織にも直ぐ嫌気が差し,神田ウニタや早稲田の文献堂に通って『戦旗』『前進』『統一』,そして『共産主義』『共産主義者』等を購読し始めた。ベトナム反戦学生共闘の議長だったフロントの丸山政和氏(東大駒場)ともベ平連で知合いになっていた。隣駅の立川高校の社研には私より一学年上の高橋博史(当時高校生会議[首都圏の社学同系大衆運動組織]議長)が陣取っており,反対側の二つ隣駅武蔵小金井には慶大の中核派活動家H氏(八〇年代後半の中核派「反天皇制論文」の執筆者)が住んでおられた。桐朋高に越南反戦で各校の社研に聯絡(れんらく)を取って廻っている奴がいると聞き付けて第四インターもオルグに遣ってきた。孰(いず)れも民青で会った事のある誰よりも魅力的な人達であった。
高橋が対馬忠行『ソ連「社会主義」の批判』を貸してくれ,田川和夫『日本共産党史』(当時現代思潮社から出ていた此本,名義は田川和夫だが実際の執筆者は別人だと最近識った)と岩田弘『マルクス主義の今日的課題』を手に入れて,短期間ながら此三冊を私は文字通り「ガリ勉」の対象とした。「スターリニスト」の民青―日共批判のネタを少しでも多く仕込み「本来のマルクス主義」の理解の獲得へというのが私の稚く拙いモティーフだった。高校一,二年の私は謂わば,『仏蘭西の内乱』『ゴータ綱領批判』と『国家と革命』を繋げた対馬忠行の「過渡期社会(プロレタリア独裁)―共産主義第一段階(社会主義社会)―共産主義第二段階(共産主義社会)」論―蘇聯(ソ連)官僚制国家資本主義批判を「原則綱領」とし,それに岩田氏の危機論を「過渡的綱領」として接合していたのである。俄か新左翼の身空,マルクス主義以外の分野に迄は迚(とて)もじゃないが手が廻らなかった。新左翼系の諸文献や党派機関紙・誌でネタを仕込み,学校では同じ班の民青同盟員に片端から論争を吹っかけては論破するという日常が半年以上繰返された後,七・九砂川闘争を三派系隊列で行動したとして,私は民青立川地区委員長以下三十名程による査問という名の吊し上げを受けた後,除名された。
民青除名後,飯田橋善隣会館での対日共衝突への参加等多少の紆余曲折もあったが六七年九月,私は結局高校生会議に加盟し,結構人望のあった同級生のK君(アナキストながら「生活と権利の実力防衛」という方針には賛成で私と協同したが,後に牧田吉明等と背叛社に加盟)を抱込んで冬には社研も民青から実力で奪取した。六八年以降,桐朋と立高は早稲田学院と共に旧マル戦系高校生運動の都内最大拠点となる(六九年二月の高校卒業時,私の同級生二百五十名のうち三派系隊列でのデモ経験者は四十を踰(こ)えていたが民青系のデモ経験者は十に満たなかった。因みに私の二学年下級は七〇年六月の生徒総会で安保粉砕ストライキの決議を勝取り,更に七月には二度目のバリケード闘争に打って出て夏休み直前一挙十三名退学という当時の全国高校退学新記録を樹立している)。共労党,フロント,中核,第四インター等ではなくブント系の高校生会議を選んだのは,反スターリン主義というモティヴェイションが強かったので「労働者国家擁護」や加入戦術の第四インターは微温的に感じられ蘇聯圏を「社会主義」とするフロントも私には論外だったという様な事もあったが,高橋と年が近くて親近感があったのが何より大きかった様な気がする。第二次ブントの政治局員では労対の吉川駿氏が議論してくれた。思想的立場は反帝反スターリン主義でも良い,肝腎な問題は「立場」より危機論に基づく「戦略戦術」なのだという高橋や吉川氏のオルグに得心した事も言う迄も無い。
第二次羽田闘争の翌月,六七年十二月,渋谷労政会館で高校生会議の活動家十数人により社学同高校生委員会(高橋博史委員長)が結成され,社学同を代表して石田寿一氏[ブント学対部員]が挨拶に来た。私は書記局の一員となるが私より下級生には立川高校一年の古川あんず(後に世界的な舞踏家となり二〇〇一年独逸で客死した)等の三,四人しか居なかった。翌一月,エンタープライス闘争の最中に,私は高校生会議の議長を仰せつかり,二月十一日には岩田弘氏を講師に招いて社会文化会館で反建国記念日の高校生集会を百名規模で持つ。中核系の反戦高協が二・一一の統一行動から脱落して議長を次々交代させ自滅していく中で,王子野戦病院開設沮止闘争に高校生会議は聯続で百名程のヘルメット部隊を登場させた。三月三日,王子柳田公園で秋山勝行全学連委員長の発言中,社学同と中核派が殴合いになり,その次に首都圏の高校生運動代表として登壇した私は社学同とブント系反戦からやんやの喝采を浴びる。此処迄は一往順風であった。
しかし一抹の不安感があった。ブントの中央機関紙『戦旗』と関西地方委機関誌『烽火』とでは内容が全く違うではないかという他党派からの批判は六七年からあったが,「ナニ,マル戦が偶々(たまたま)言っていない部分を関西が言っているだけだ」(高橋)で片付けていた。学生戦線では関西派とマル戦系との衝突が始っているという情報が六八年一月辺りから高校生社学同に迄下ろされてくるようになる。六八年三月か四月頃,高橋等と数人でブント中大細胞機関誌『解放』に掲載された塩見孝也氏の論文を読合せして検討した覚えがあるが餘りに粗っぽい論立てで率直に言ってカルチュアが違い過ぎると感じた。そしてブント第七回大会の二日目当日,駒場寮に呼出された私は上級生のブント高校生細胞四名からブント加盟を勧奨される……(猶,民青から転じて一年も経たぬ新米活動家がブント加盟を勧められるというのは少数精鋭主義のマル戦系大学細胞では絶対に考えられない。自分達の卒業で東京の高校生運動には社学同十名程が残るのみでブントが皆無となる事に危機感を持った上級生達の判断であったろう)。


当時の学生活動家の前には今日からすると信じられない程貧弱な量の文献があるのみであった。日本「六八年革命」の智的インフラ・ストラクチュアは恂に御粗末であったと言うしかない。
烏鷺覚えながら思い付く儘に列挙してみよう。マル・エン全集,レーニン全集は当然あったが結構値が張り,多くの活動家は国民文庫や岩波文庫の邦訳で間に合せていた。新潮社から出ていたマル・エン選集の最後の巻か別巻かに『マルクスの批判と反批判』というのがあって窮乏化論批判や下部構造還元主義批判等マルクス主義批判の視点が種々紹介されていた。レーニンも大月の五巻選集等があって私も購った覚えがある。花崎訳のパガテューリア版『ドイツ・イデオロギー』が新書判で漸く出てきたのは慥か六八年か六九年。トロツキーは現代思潮社から出ていた十数冊の選集と『結果と展望』程度,角川文庫の『ロシア革命史』が既に出ていたかどうか,出ていなかったような気がする。ジノヴィエフは慥か七〇年代になってから一度邦訳が出たがカーメネフは今日に至る迄邦訳されていないのではないか。鋏状価格差論のプレオブラジェンスキーも名前だけは知ってはいたものの後に邦訳が果して出たのか疑問。亜細亜(アジア)的生産様式論争のウィットフォーゲルも入手出来る邦訳は無かったのではないか(未来社の『アジア的生産様式論争の復活』は七〇年代)。プレハーノフは文庫が一冊あったと思う。レヴィン『レーニンの最後の闘争』は既にあってよく読まれていた。グラムシは纏ったものとしては無かった筈で,ルカーチも『歴史と階級意識』の抄訳が一冊あった程度ではなかったかと思うが何れも記憶があやふやである。コルシュとなると名も知らなかった。カウツキーは岩波文庫に一冊だけ入っていたと思うがベルンシュタインは何処やらから出ていたのかどうか,尤も新左翼の活動家が往時ベルンシュタインをまともに読もうと思った筈はないが……。ヒルファディング『金融資本論』は岩波文庫にあったから皆持っていた様だが,餘り人気は無かったと記憶する。ベーベル,ラサール等はマルクス,エンゲルス関係の文献に出てきて名を知るのみ。オットー・バウアなど墺太利(オーストロ・)マルクス主義の文献は皆無。六〇年代には多分ブロッホも無し。総じて欧羅巴マルクス主義関係の邦訳文献は貧弱だったが,そういえば現代思潮社でルフェーブルが二,三冊あって,マルクーゼも何かを読む事が出来た。青年ヘーゲル派の邦訳はフォイエルバッハの何冊かを除いて殆ど無かった(ダヴィッド・シュトラウスが岩波文庫に入っていた気がする。マックス・シュティルナー等は戦前版を古本屋で入手するしかなかったし,廣松氏の『マルクス主義の成立過程』や『エンゲルス論』により俄かに名を知られたモーゼス・ヘスとなると戦前版も存在しなかった。)。マクレラン『マルクス伝』の邦訳は未だ無し。「元祖・本家」共産主義者のバブーフ,ブオナロッティ,ブランキは何も無かったし,カベー,ヴァイトリング等の資料も皆無。マルクスのオリジナルな政治的視点は存外少ないのであって,例えば「階級闘争」「プロレタリア独裁」は恐らくブランキ,「能力に応じて働き,必要に応じて受取る」は瞭(あきら)かにルイ・ブランがオリジネイターだという具合だが,マルクス,エンゲルスと基盤が共通する同時代の社会主義・共産主義諸派の資料も殆ど無かった。オーウェンもあった様な無かった様な。プルードンは世界の名著か何かだけ。サン=シモンやルイ・ブランは全然無かったのではないか。バクーニンは七〇年前後に少し見掛けた記憶があるが,六〇年代にはどうであったか(マルクス『バクーニン・ノート』という単行本が何処かの版元から出ていた。そう言えば『マルクス詩集』などという面妖な代物もあったと記憶する)。マルクスの娘達が父モールに出したアンケートは,出版社は忘れてしまったが緑色の表紙の文庫に入っていて其処では「貴方の好きな女性の美徳は?」という問いにマルクスが「弱さ」と答えていた。クロポトキンも数冊はあっただろうか。ロープシン『蒼ざめた馬を見よ』が現代思潮社から出ていて,マフノは黒色戦線社の黒表紙の小さなパンフレットで読んだ。梅本克己は現代思潮社から『人間論』等の二,三冊,其れと岩波新書が一冊出ていて,『レーニンから疑え』の三浦つとむも二,三冊程,田中吉六『主体的唯物論の成立』は再刊されたのが多分六八年。「経済哲学」の梯明秀は数冊あって一冊は読んだが訳が分らなかった。宇野経済学では東大出版会の経済学体系があり,宇野弘蔵『経済原論』や岩波新書の『資本論と社会主義』と共に学生活動家の多くが持っていた。又当時の岩田弘氏の主著は『世界資本主義』で未来社からの刊行。大塚久雄には軽便で安価な『共同体の基礎理論』もあったが,学生活動家に読まれるのは七〇年より後の事。水田洋の社会思想史関係の新書が一冊あったと記憶する。平田清明と高島善哉も一冊ずつ読んだ。ドイッチャーとカーはあった。蘇聯国家資本主義説の対馬忠行で直ぐ入手できたのは『マルクス主義とスターリン主義』『国家資本主義と革命』の二冊位であったか。六八年か六九年に対馬訳のレーニン『ブハーリン『過渡期経済論』評註』が出たのは覚えているが評註の対象である『過渡期経済論』其物は古本屋で戦前版(『転形期の経済学』)を手に入れるしか無かった。邦訳が更めて出たのは七〇年代初頭だったか。鹿砦社から『左翼エスエル戦闘史』や『クロンシュタット叛乱』が出るのは七一年を挨(ま)たねばならない。蘇聯国家資本主義説のトニー・クリフやラーヤ・ドゥナエフスカヤは六七年か六八年に相次いで邦訳が出た様な気がするが(慥かクリフの方が早かった?),蘇聯官僚制集産主義説のマックス・シャハトマンとなると,対馬の本で名前は知ったが邦訳は結局出なかったのではなかろうか。五六年の洪牙利(ハンガリー)革命に就いては広田広『ハンガリア一九五六』一冊。一九三〇年代の西班牙(スペイン)人民戦線に関してはオーウェル『カタロニア讚歌』一冊だけ(此一冊をネタに民青の胸倉を捕まえて「手前等,一九三〇年代に西班牙で遣った事を総括してみろ」と恫喝している社学同の活動家を見た事がある)。黒田寛一は現代思潮社から二,三冊,こぶし書房から十数冊を出していた。藤本進治は青木書店とせりか書房から一冊ずつ。至誠堂から日本で始めてまともな文献学的資料批判のレヴェルを具えたマルクス研究の書である廣松渉『マルクス主義の成立過程』が刊行されたのは六八年。吉本隆明は十冊をそろそろ越えていて,六八年に『共同幻想論』を読んだ記憶がある。六〇年安保を題材にした吉本,谷川雁等のアンソロジー『民主主義の神話』が現代思潮社から出ていて,良く読まれていた。勁草書房の吉本選集は七〇年に早大の闘争組織の読書会で二,三冊遣った記憶があるから,六八年か六九年に刊行開始の筈だ。谷川雁は現代思潮社の四冊のみ(此等四冊に入っていない論攷を纏めたアンソロジーの海賊版が七〇年代初頭に出て私等も売子に成った)。『幻視の中の政治』を著した埴谷雄高なぞという,七〇年代以降の活動家には読まれなかったであろう人も結構人気があった。雑誌では『世界』『思想』『展望』等は学生活動家とは殆ど縁は無く,『現代の眼』が六七年辺りから徐々に左旋回して活動家に親しまれ,『現代の理論』は水準が高かったが構造改革派の色が明確,『情況』の創刊は六八年暮れであったか六九年になっていたか。マイナーだが『世界革命運動情報』というタイプ印刷の雑誌があって松田政男氏等による達意の編輯でゲバラやファノンを読む事が出来た。吉本隆明の『試行』,桶谷秀昭,村上一郎の『無名鬼』,北川透の『あんかるわ』等も一部の物好きな活動家に読まれていた。『流動』『構造』『査証』等は七〇年以降である。
六九年辺りから種々の文献が増えてきた。現代思潮社から出たシュティルナー『唯一者とその所有』,フーリエ『四運動の理論』,ブランキ『革命論集』,『ローザ・ルクセンブルク選集』等は再版されなかったので,入手しておかなかったのが後に大変悔まれた。景気循環論のコンドラチェフの邦訳刊行はずっと後で七〇年代の末辺り,その少し前に新従属理論のアンドレ・ガンダー=フランクやサミール・アミンが邦訳されたと記憶する。経済人類学のカール・ポラニーは『大転換』が七〇年代には出ていたが有名になったのは栗本慎一郎(此人も嘗てマル戦派慶大細胞のキャップであった)の『パンツをはいたサル』の御陰。七〇年代にはモーリス・ゴドリエも訳されていた。
一般教養方面に話を移しても資料空間の「厚み」が無かった。六〇年代,高校の世界史の教科書は爪哇(ジャワ)原人ピテカントロプス・エレクトスから始り北京原人シナントロプス・ペキネンシスに続いていて,オーストラロピテクスの影も無かった。恐龍はすべて冷血動物と扱われて全く疑われる事が無かった。揚子江流域の先殷期文明の発見等誰からも予期されておらず,縄文期は平板に無階級の狩猟採集漁撈経済で小規模聚落(しゅうらく)のみの時代と考えられていた(阿久遺蹟の発掘は七〇年代中葉に開始。板付等の縄文水田遺蹟も六〇年代には発見されていなかった)。稲荷山も高松塚も吉野ヶ里も三内・丸山も掘られていない。囲碁は坂田栄男,将棋は大山康晴の全盛時代で,落語では志ん生も文楽も健在であり,ジョン・コルトレーンもアルバート・アイラーもジミ・ヘンドリックスもジム・モリスンもジャニス・ジョプリンも存命であった。将に今日からすると総てが〈一時代前〉だったのだ。
カント,ヘーゲル,キェルケゴール,サルトルなどは結構出ていたが,肝腎のメルロ=ポンティとなると六〇年代には『ヒューマニズムとテロル』こっきりで『知覚の現象学』も『見えるものと見えないもの』も『行動の構造』も無し。ハイデガー『存在と時間』の邦訳は二種類位あったと思うが全集は出ていたか未だだったか。フッサールはみすず書房に『現象学の理念』『内的時間意識の現象学』があり,六九年に岩波から『厳密な学としての哲学』が出た。チャン・デュク・タオは『現代の理論』にトラン・デュク・タオの名で邦訳が出たのが何時の事であったか,単行本は七〇年代中葉と記憶する。カール・レーヴィットは未来社から結構出ていた。マッハは廣松訳が七一年に出たが学生活動家で此書を踏えてレーニン『唯物論と経験批判論』のマッハ「批判」の果して正鵠に当っているか否かをまともに検討した者は往時あるまい。ヴェイユの『抑圧と自由』を高校二年で読んだ記憶がある。アドルノ,ホルクハイマーを始めとするフランクフルト学派関係は全く無かったと思う(ベンヤミンも七〇年代からでは無かったか)。新カント派系は記憶に無し。カッシーラーも無かったと思う。ゲシュタルト心理学は簡短な参考書が何種類かあったが行動主義心理学となるとどうであったか。人類学ではフレイザーの『金枝篇』やモースなら既に岩波文庫で読めた。レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』が出たのが何時であったか,能く覚えていないが既にあった様な気がする。フーコー,デリダは七〇年代始め辺りで一,二冊出ていたかどうか。アルチュセールは六八年頃にはもう名が知られていたが単行本が邦訳されたのはずっと後の事だった。ソシュールは岩波文庫に『一般言語学講義』があった(今日では資料批判上かなりの問題があると判明している)。十七世紀来の大陸合理論系統と英吉利(イギリス)経験論系統の主だったものは岩波文庫で読むことが出来たし,ニーチェやフロイトやヴェーバーといった辺りも皆大抵岩波文庫版で囓っていた様な気がするが,七〇年代中葉,高橋順一や元早大社学同の水谷洋一,宇野経の異端児白井順等とフロイトの「人間モーセと一神教」の読書会を行った時は日本教文社の選集版を張込むしか無かった(何故其様なものの読書会を遣ったのか最早記憶に残っていない)。ブルトン『シュルレアリスム宣言』が現代思潮社から出ていて,そう言えば奥浩平(六〇年安保時の安保改訂阻止高校生会議の中心人物だった)の『青春の墓標』で中原素子へのラヴ・レターに引用されていた。バタイユとブランショも現代思潮社から。西洋哲学史で覚えているのはシュヴェーグラーとラッセル程度,ソクラテース以前の希蝋哲学となると山本光雄訳編『初期ギリシャ哲学断片集』しか無く,定番ディオゲーネス・ラーエルティウスの『哲学者列伝』の邦訳はずっと後,恐らく八〇年代中頃と思う(ジャン・ブラン『ソクラテス以前の哲学』がクセジュ文庫に入ったのが七〇年代始め頃であった)。聖書学の荒井献や田川建三のデビューも七〇年代以降では無かったか。トマス・アクィナスの『神学大全』は邦訳完了が慥か近年の事だから,当時は「スコラ哲学」というレッテル以外何も邦訳資料が無かったと思う。情け無いが,高々こんなものだ。此れでは一寸した理論的研究に取組もうと思っても,洋書を入手して原語で読む能力を持たない者には甚だハードルが高い。
日本近代ものでは丸山真男が其処々々読まれていたが,筑摩近代日本思想体系の『ナショナリズム』『超国家主義』や竹内好,橋川文三,桶谷秀昭,村上一郎,そして民俗学関聯の書物等が一部ながら新左翼系の活動家に迄読まれ始めるのは,「自立派」と呼ばれた『遠くまで行くんだ』や『叛旗』の影響が広がった七〇年以降である(桶谷,村上は六九年からだったか)。鶴見俊輔・谷川健一・村上一郎が編んだ『ドキュメント日本人』シリーズが学藝書林から出ていて七〇年初頭に読み大変に面白かった記憶がある。当節の所謂(いわゆる)「現代思想」系の論客は未だ論文を出している程度で,柄谷行人『畏怖する人間』の出たのが七二,三年であったか。古代史,中世史や考古学に迄手が廻った暇人は往時おるまい(八〇年代前半と記憶するが,長崎浩氏と雑談の折古田古代史学の話題で“盛上り”,「爺様に成ったら古代史遺蹟を廻って餘生を過したいものですね」「そうだねえ」と云う会話を交した記憶がある)。今日なら図書館(とインターネット)を旨く利用すれば優に往時の数百倍以上の資料空間を簡短に参看出来る。
「六八年革命」当時,只でさえ資料が尠ないところにもってきてカードルと呼ばれる様な党派活動家は極めて多忙であった。皆多かれ寡(すく)なかれ「単ゲバ」に成らなければ遣ってはいられない。大方はマルクス,エンゲルス,レーニン,トロツキー,宇野経済学,場合によっては主体性論関係等をちょいちょいと摘み食いし,後は党派文書類をネタとしていただけではなかろうか(例えば伊斯蘭(イスラーム)圏史の東大教授山内昌之氏が北大社学同当時渡辺数馬の筆名で『理論戦線』に書いた社青同解放派批判等,『共産主義』九号に掲載された門松曉鐘[廣松渉]の「疎外革命論批判序説」一本の丸々引写しでしか無かった)。此れでは行動者としての指導部もカードルも,パラダイムとしては五〇年代から引擦りっ放しの「魯西亜マルクス主義」の泥沼に押し並べて足を取られた儘で居るしか無かったという事である。其処では,マルクスもレーニンも,各(おのおの)特定の時代的・社会的文脈の許に相対化されると共に多様な読解・改釈の対象となる〈古典〉としての位置を与えられるのではなく,〈聖典〉乃至〈経文〉に祀り揚げられた儘であるしか無かった(「日本の左翼運動の特徴はマルクス・レーニンを聖書にしてしまって,古典にできなかったことでしょうね」――「アントニオ・ネグリをめぐる鼎談」『情況』二〇〇二年五月号)。
併しそうであっても生彩も個性もある文章を書く活動家は結構居た。材料は尠(すく)なくとも各人なりの雑読と思索がそうした生彩や個性を生んでいたのであろうし(そう言えば何処かで,中世欧羅巴で読む事の出来た三,四冊のアリストテレス[残りの資料は回々教圏にしか伝えられていなかった]のみをネタにして能くも数十冊の『神学大全』を書いたものだというトマス・アクィナスへの揶揄を目にした事がある[ロジャー・ベーコンだったか]。肝腎なのは思索力だ,慥かにね。だが併し,アクィナスは一時代を劃した巨人であって規矩としては餘りにもでか過ぎる),新左翼運動の「社会的ヘゲモニー」が其処々々大きかった為に有為の人材が多く参集していたという事情もあったろう。


「六八年革命」開始当時の私は旧マル戦系の味噌っ滓活動家であった。周囲は略全員が年上である。大体十六,七の少年にとっては,相手が一,二歳上であるだけで大変な格差が感得されて仕舞うものだ。五歳以上も離れていればもう大人と子供である(松井透[早大抹籍]や,五歳迄は離れていなかったが新美は,私の事を「坊や」と呼んで子供扱いしていた)。おまけにマル戦系の学生指導部には,新左翼になって日も浅い少年からすれば及び難しとしか思えぬ匆々たる駿才が揃っていた。成島道官[学対部長,通称ドウカン],山崎順一[学対],石田,浜下武志[東大],見崎儀一[早大]等の各氏に新美,高橋といったところも頭が良かったが,頭脳の物質的組成が常人と違うのではないかと思わせた程の切れ者が川上浩[東大,故人]と松井である(其癖ゲヴァルトに関しては彼等も根性論と気合論一点張りだった)。成島忠夫氏[学対,全学連副委員長,通称成忠(ナルチュウ)]の様な明朗闊達な現場派は寧ろ稀であった。組織内で末っ子世代の味噌っ滓でしかないという感覚はレーニン主義者協議会が解体して無党派となる迄全く払拭される事無かった。
何せ味噌っ滓であるから追いていくだけで精一杯なのだが組織的環境の激変は,遁(のが)れ様の無い,自力では如何とも為し難く只々翻弄されるだけの「シックザール」として現れざるを得ない。六七年末辺りからブント内,取分け学生戦線に於ける関西派と旧マル戦系の訌諍が突如として勃発し一気に暴力化した事,ブント第七回大会における旧マル戦系の大会二日目不参加に端を発する旧マル戦系のブントからの離脱,其れを機縁とする旧マル戦系の烈しい内部論争と分解の前に,第二次羽田闘争から王子闘争迄の数个月だけは一往順風の勢いだった,高々首都圏高校生運動の「大衆バッター」であるに過ぎない味噌っ滓活動家は凡そ無力であった。


六八年三月末ブント第七回大会二日目当日,全国のマル戦系ブント,社学同の活動家二百数十名が集まっていた駒場寮は混乱の極みに陥っていた。各大学の社学同が集まっていた部屋では怒号が飛び交い,誰も明確な方針が出せぬ儘に不毛な堂々巡りの議論が続いていた。夕刻,高校生委員会だけが「社学同大会に出る」と宣言したが出発直前になって慥か村田能則氏[関西派学対部員]から成忠氏に「今,大会が終った」と電話が掛ってきた。大会第一日目の後から徹夜で会議が断続的に続けられていた様で政治局員や学対部員は全員全く寝ていなかった。外からは一枚岩に見えたマル戦派が急速に分解したのは何より,会議々々で方針を出せぬ儘,気が付いたら大会の時間を過ぎて二日目(と社学同大会)を欠席してしまったという腰の座らない事態を抱え込むしかなかったからである。深夜になって学細代(学生細胞代表者会議)が開かれ,其の直前にブント加盟に同意した私も出席したが,川上が猛烈な勢いで服部信司書記長を始めとする政治局を糺弾・追及した。松井は睡魔で殆ど朦朧としていたが,やはり時々目を覚ましては服部氏を厳しく指弾した。既に“一枚岩のマル戦派”は存在せず,東大や早大の細胞指導部は前年からマル戦理論離れを開始していたのを私は此時知った。一方,激昂している学生細胞の中心的活動家とは違って,労組青婦部の活動家を主とする労働者細胞はもっと落ち着いた感じだった。
旧政治局が旗を振って四月か五月に「ブント労働者革命派準備会」なるものが結成され,機関紙『労働者革命』が出されるが,最早旧マル戦系全体の一分派としての組織化は不可能となっていた。『労働者革命』紙の紙面は「統一・関西派」の「採決強行」と「小ブル急進主義」を非難し自己正当化の開き直りを行ったが,労革派(準)の会議では激しい総括論争が続く。五月,浜下氏が大会不参加を自己批判してのブント復帰を宣言。此頃,旧統一委員会派政治局の決定により望月彰氏が明大に拉致されリンチに遭った末岩田弘氏宅の前に放り出されるが,旧マル戦系には最早反撃できる団結の質は残っていなかった。六月末,川上,松井,清井礼司(東大駒場,現弁護士),新美,高橋博史等,脱マル戦理論の急進派によってレーニン主義者協議会が結成される。高校生活動家は元々吉川氏や成忠氏に親近感を持っており,結局は彼等に従いていく事になるのだろうと私は思っていたが,駒場寮の便所で松井と高橋が偶(たまたま)連れションとなった折の会話を機縁として,高校生社学同は全員L協の指導下に入って仕舞った。
抑(そもそも)七大会時に既にマル戦系は一グループとしての纏まりを保持できるどん詰りの所に迄至っていたのは間違いない。大会二日目に参加して採決で敗北したとしても(マル戦系百五十,反マル戦聯合百八十だから敗北は必至),今度は服部氏ら政治局への批判,責任追及,岩田理論批判が強まるのは必至だった。マル戦の分解を促進したのは何よりも,東大・早大を中心とする学生細胞の理論主義気質である。結果が拙(まず)かった場合,何よりも先ず理論が間違っていたからと考える――学生マル戦派はそういう体質だったのだ。服部氏ら旧政治局は旧マル戦系の纏まりを何とか維持しようとした訳だが,川上,松井,清井,高橋等は七大会での事態を「ブントからの脱落」「敗北」として直視せよと迫った。そして此様な事態を招いたのは畢竟(ひっきょう)マル戦理論の枠が狭すぎ,且つ誤謬に満ちているからだとした。全面的にマル戦理論を切開し総括せよ,こう考えた急先鋒がL協であった(L協は結成時点で既にマル戦系理論の謂わば骨子である危機論型戦略の抛棄を明文化していた)。
此頃には残った労革派(準)の内部でも分岐が鮮明化し,吉川,山崎衛(以上旧政治局員),山崎順一,石田,成島忠夫,西陰勲の各氏等が多数派を形成して旧来のマル戦系路線の批判を開始。苦しくなった少数派=旧来理論墨守派(服部,望月,矢沢国光,佐藤浩一[以上旧政治局員],成島道官,見崎等の各氏に岩田氏も参加)が九月に前衛派を名乗り分離。残った多数派により労働者共産主義委員会(怒濤派)が結成される。こうして旧マル戦系は大把みには三つ,細かく言えば七,八箇の小集団へと完全に分解し果てた。『全共闘三〇年』(実践社)での望月氏の詞(ことば)によれば組織のヒエラルキーの儘に「政治局と地区党と学生カードル」に分離してしまった訳である。七大会後半年程の事であった。斯して,六八年春迄ブントの主流派として各級機関を掌握し,都委員会の多数派を成し,十・八羽田闘争,十一・一二羽田闘争の具体的準備プロセスを担った旧マル戦系は,旧統一委員会派の主導する七大会ブントの華々しい街頭闘争を横目で見ながら,勢力的には完全に第二戦線へと顛落した。


L協とはどんな組織だったのかと問われれば「詰込み勉強組織」に街頭闘争・大学闘争・高校生運動・労組内反戦派活動等の具体的実践系を接合せた奇態なものだったとでも言うしかない。動員力は最大二百数十程度で事務所は駒場寮の社研,L協のメンバーは二十名程で解体する迄人の出入りは全く無かった。マル戦には彼処(あそこ)が無かった此の視点が欠けていたという列挙から始った「分派以前」の「総括組織」という建前なのであるから,旧来のマル戦系理論の総てが疑われ,総括の対象となる。結成当初には初期マルクス,取分け『経哲草稿』(マル戦では,初期の「哲学のマルクス」は『資本論』の「経済学のマルクス」に止揚されたという理解だったから本気で読んだ事等無かった)を読まされ,続いて『ドイツ・イデオロギー』『家族・国家・私有財産の起源』『国家と革命』『共同幻想論』等を材料として国家論を検討した(エンゲルスの機関論やレーニンの暴力装置論は駄目だという結論になった)。夏から秋には藤本進治を検討し,梅本克己,田中吉六,武谷三男を詰込んだ。同時に黒田寛一も初期三部作から『日本の反スターリン主義運動』に至る迄読込んだ(既にL協解体後の七〇年秋と思うが清井と雑談していた折「黒寛で一番下らないトンデモ本は何か」という話題になった。私が択んだのは『マルクス主義の形成の論理』,清井が挙げたのは『何をどう読むべきか』だった。今だったら御互い『ヘーゲルとマルクス』や『社会観の探究』辺りを先ず思い浮べる処だろうが)。一年前の客観主義的な経済危機論と勢力配置論の接合から五〇年代主体性論の摂取へと百八十度の転向である。折に触れて経済学も参照されたが,旧マル戦の学生活動家にとっては基本的素養となっていた為かメイン・テーマとなる事は無かった(だから高校生は経済学を本格的に仕込まれた事が無い筈なのだが,菅原陽心,清水淳,水田,北条等私より下級生で七〇年代に学問の道に進んだ者は何故か皆宇野経済学徒と成った)。六九年始めになると理論的再逆転が起り,組織活動に於ける理論主義の弊害が(飽く迄“理論的”に)指摘され,社青同解放派の反合闘争論の視点が評価される。今度は『社青同解放派主要論文集』とかを詰込みである。「個別闘争」と「革命闘争」の関係にしても六八年には区別が強調され六九年には聯続性が強調された。天窓(アタマ)の上に無数の疑問符を点滅させた味噌っ滓活動家の眼前の理論的風景は常に猛烈な勢いで目まぐるしく転変し続けた。斯して,一旦「すっきり」得心したとしても総ては差当りの「暫定的」理論であって遠からず乗越えの対象とされてしまうものであるという感覚が否が応にも植付けられざるを得ない。彼是(アレコレ)の細かい智識の量に於いて他党派の活動家に優越しているのみで,本当に自信を持てる「確信としての党派性」等全く存在しなかった(ンでいて,ゲヴァルトに関しては「気合で勝て」という有難い御指導だ)。そして,ブント復帰派のS氏(早大)から松井が,『レーニン主義』臨時号(六九年四月)に掲載された理窟ではブント外に独自組織を設立・維持する根拠が無いではないかと突っ込まれて反論しきれず,組織維持の理窟上の根拠を喪失して六九年七月にL協は解体(五月頃,松井から「Sがこう言ってきているんだけどどうしようか迷っている」と言われた事がある。実は私は「問答無用でシめちゃえば良い」と答えたのだが「問答無用」というのはL協の流儀では無かった)。松井の非政治的性格と理論的誠実さが裏目に出たと言うべきか,理論主義的自縄自縛の成れの果てと言うべきか。数人のみは運動を離脱したが,L協残党の殆どはそれぞれの現場で独自に運動を持続する(其頃検討していたのが巴里(パリ)コンミューンで,其の研究活動の中心となっていたN[東大院]はプルードンを高く評価していたが七〇年にデモで再会した時にはアナキストを名乗っていた)。L協解体時,幹部では,東大経済の団交会場に大内力学部長を擔いでいった川上が未だ拘置所に在り,四・二八で逮捕された清井は釈放されたばかりで其間の事情が飲込めないのか殆ど発言しなかった。
九月頃,「総括だ総括だと一年遣ってきたが,「総括組織」も無くなった。もうマル戦の総括なんてセコい話は止めてデカルト辺りから総括し直すより仕様が無いじゃないか」と清井に言ったら「いや,プラトーンからだ」という答が返ってきた。そんな清井も東大駒場等の運動を抱えており,私もL協傘下にあった高校生活動家達(東京の高校生運動では圧倒的に強力であった)の再結集を目論み走り廻っていて,実際には其様な暇等何処を探しても無かった。清井が「もう,東京社学同以来の「反スターリン主義・大衆運動主義・急進主義」だけで遣るしかないな」と言い,私も頷いた。今度は,理窟を殆ど捏ねない単ゲバ肉体派への百パーセント転換であり,鞏固(きょうこ)な党派性の確立志向から大衆運動主義への百八十度転進である。いやはや。
清井は東大駒場と一橋大の旧L協系を足場に全国全共闘行動委員会なるものを“でっちあげ”,六九年十一月,無党派の学生・高校生七百人程で羽田に突っ込んだ(十・二一で逮捕された私は其時練馬の東京少年鑑別所(ネリカン)にいた。御蔭で三週間強だけは受験勉強が出来た)。私は六九年秋から吉本隆明,谷川雁,『遠くまで行くんだ』『叛旗』等を集中的に検討して「自立派」に傾斜,逮捕を挟み翌七〇年始めにかけて三多摩や駒場東邦,早稲田学院等旧L協系高校生活動家を再度括上げて其処に国立高校も引入れ,更に情況派が纏め役を遣っていた南部地区各校の全共闘と聯合させて二,三百の部隊を作上げた(高校生の全都聯合戦線は五,六月の街頭闘争で機動隊と竹竿による激突を繰返した末,旧L協系と情況派の仲が上手くいかなくなりだしたのを潮に七〇年夏解散した)。七〇年春に早大に入学した私は夏に教育学部の二年生闘争委員会の行動派を分裂させ,其処に他学部の旧L協系やアナキストを引込んで二十数名の集団を即成,以降三多摩の高校生と早大の運動の双方に立脚する形となる。早大には私達と双頭的な規模を持つ政経中心の赤ヘル無党派集団がもう一つあって御互い仲良く遣っていたが,学習会を主宰していたのは近代経済学の膨大な文献を駆使してレジュメを拵えつつ政治的には赤軍派シンパというA君(現C大教授)だった。連合赤軍で処刑された元早大反戦連合の山崎順は彼等が赤軍派に送出したのである。早大全共闘の解体以後,革マル派の暴力支配の為に他党派が全く登場できなくなっていた早大本部キャンパスで唯一学内に残った,併せて四十名以上のゴリッとしたゲヴァルト部隊だった(A君だけは荒事が苦手な「頭脳派」であった)。往時を知る方なら七〇年の東京の街頭闘争は解散地点が乱戦状態となっていた事が多かったと記憶されている筈だが,其内半分程は高校生,或は早大+高校生という此等の部隊が戦端を開き,其のチャンバラが後から到着する解放派やフロントに迄飛火したものである。七一年十一月,此れは私の政治判断の瞭かなミスであるが,早大の私達の部隊の内十数名を浮上させ,解放派,叛旗派各十名程と共に理工学部で革マルの全都部隊三百名を迎撃ち,激闘十分程,重傷者数名を出して敗走した。革マルにも何人かの重傷者が出たと聞き,最早私自身は早大には戻れないと判断して一月程後に組織を解散,後事をA君達「共研」に嘱して躬らを予備役に任じ,花屋や土方で働き始めた(斯して清井が駒場で活用出来る「暴力装置」も殆ど無くなった)。併し,彼等も翌年春,自分達の送出した山崎順が山嶽アジトで処刑されていたという報に接して一夜で分解して仕舞ったのだった。斯して早大学内に「硬い」部隊は最早一切存在しなくなった。
革マル派による早大学生川口大三郎君の虐殺を契機として七二年秋に勃発した全学的蹶起による反革マル運動の第一線に立った主体は殆どが其迄ベ平連や救対,サークル等「軟かい」部門を担っていて急遽戦闘化した連中であり,仕事を休んで一年ぶりに大学講内に足を踏み入れた浦島太郎状態の私を始め六九年から七一年世代の旧早大全共闘系活動家の殆どはマア彼等の応援団であったに過ぎない。


六八年一月のエンタープライズ寄港沮止闘争では,万餘の佐世保「市民」が三派全学連を応援した。三月の王子闘争では「市民」ならぬ「群衆」が登場し,機動隊を包囲して猛烈な投石戦を行った。六八年以降の街頭行動の周辺には常に多くの「野次馬」が取巻いていた。往時の街頭行動は飽く迄此の不定形なエナジーの存在を後背地としていたのである。その頂点が,十万以上かとも思われる「群衆・野次馬」が新宿駅周辺に屯集した六八年十・二一の新宿騒乱であった。中核派政治局は街頭闘争の昂揚が天井を打ったと判断し,翌日催涙瓦斯(ガス)の未だ漂う新宿駅周辺を見て廻り記念に背広を買って帰ったと云う事だが,「野次馬」は其れからも一向に減らなかった。都内のデモ隊列の脇の歩道にはいつも膨大な「野次馬」が随伴していた。
六八年五月,桐朋高校の裏門辺りの下宿に神津陽氏が越してきて時々話をする様になり三上治氏とも知合いになった。六九年春には三上氏から「君等もそろそろブントに戻ってきてはどうか」と言われた。同じ頃,清井には松本深志高校で同窓であった中大の前田祐一氏から同様の話が来た。清井も私も本音のところではブント内部に再び地歩を得たいとは考えていたが,L協系諸組織全体としての「戻り方」はデリケイトな政治判断の問題であるから,どうすれば良いのか考えあぐねていた。六九年六月のASPAC闘争の時であったと思うが,『朝日新聞』に「社学同が関東派と関西派に分裂」という記事が出た。我々の位置からは未だ分らなかったが第二次ブントの最終局面が始りつつあったのである。七月六日,塩見氏等赤軍派フラクションが明治大学和泉キャンパスを早朝に急襲し,破防法で指名手配中のさらぎ徳二氏と東京地区反戦世話人の佐藤秋雄氏に重傷を負わせ,御茶ノ水に戻ってきたところを中大派に捕まって塩見氏等四名が中大学館に拉致される。同月末L協解体。九月五日,全国全共闘連合結成大会に赤軍派が登場して烏合の社学同を蹴散らした。十一月,大菩薩峠で赤軍派大量逮捕。七〇年始め,よど号ハイジャック。五月であったか,ブント政治集会直前の『戦旗』に情況派除名が発表される。豊島公会堂の集会に行くと三段に別れた客席の左に叛旗・情況派が旗竿を林立させ,一方右の段では戦旗派が此又旗竿を握って,激しく野次り合っていた。一般の参加者は中段の席に座っていたのだが,最後の発言者三上氏の合図で突如ゲヴァルトが開始され,衝突は瞬く間に会場全体に拡った。六六年九月に結成された第二次ブントの最終的崩潰の瞬間であった。一般参加者は吾先にと会場外へ迯(にげ)出したが,清井,私,当時桐朋の中心的活動家だったOの三人だけは,叛旗・情況派が全員叩き出される迄咥え煙草で後ろの壁に倚(より)掛っていた。兇暴な気分が渦巻いていてどちらでも手を出してきたら即反撃してやる心算だったが,眼前のゲヴァルトを見遣りながら此からは更に果てしの無い分裂と細分化が進むのだろうなとぼんやり考えていた。
七一年四・二八,日比谷公園でブント系最後の大規模な内ゲヴァ。直後,理戦派の『戦旗』は「野合右派・赤軍派・叛旗を粉砕」と云う大見出しを掲げたが実は私達早稲田の赤ヘル二組織も現場で急遽参戦して共に「粉砕」されたのだった。七二年,浅間山荘銃撃戦の後,連合赤軍の粛清が明らかとなる。六月,中核派と解放派が明治公園で正面衝突して全国全共闘連合分裂。其の次辺りの街頭行動から「ア,野次馬が物凄く減っている」と気付いた。そして街頭闘争の後背地―野次馬のみならず新左翼の大衆的基盤は急速に消失していった。局面は完全に後退戦に移っていた。


七三年一月十九日の早大キャンパスで私は二千人程に及ぶ「最後の群衆」を目撃した。春からの革マルとの大会戦に三度勝利しつつもじりじりと後退していったWACは七四年,最後に支援党派にも知らさずに早大図書館篭城―玉砕の途を択んでキャンパスを去った。ワン・サイクルが廻ったなと思った。私は情況派や元日大全共闘が中心となって運営していた建設関連一般臨時雇合同労働組合に一年程世話になった後,新宿三丁目の酒場セラヴィの経営権を借受けて水商売を始め,其内常連の,雑誌の編輯を遣る奴は居ないかという声に応じて編輯者になって仕舞った。河出書房新社のムック『神話』や海潮社の雑誌『音楽全書』の原稿を頂戴する為に,いいだもも氏に久振りに御挨拶した。七〇年代後半になっていた。


其少し前高橋順一が叛旗派をやめて消耗していた。私は高橋と早大時代の運動仲間水谷,音楽ライターの後藤美孝等に読書会でもしないかと持掛けた。
「何を遣ろうか」「デカルトから遣りたい」
そう言えば坂本龍一も交ぜろと言っていたのだが,スタジオ・ミュージシャンとして売れ出していた頃で結局一回も来なかった。慥か最初はハイデガー『存在と時間』で「読書会の勘」を取戻そうと云う事になった。続いてデカルト『方法序説』『省察』『哲学原理』等と併せて勁草思想学説全書の所雄章『デカルトI・II』や永井博『ライプニッツ』,岩崎武雄『カント』等を読んだ。取分け所雄章の『デカルトII』は現象学の先駆の如き存在としてデカルトを読込む可能性を示唆していて新鮮だった。途中から白井順も参加してきて,デカルト以前の中世的世界像の輪郭を辿る為にアレクサンドル・コイレ『コスモスの崩壊』等も繙いた。第三世界論の議論になった時には湯浅赴男『民族問題の史的展開』『第三世界の経済構造』,いいだもも『現代社会主義再考』等を題材にした。此読書会は軈(やが)て廣松渉研究会という名称となる。何しろ,我々にとって廣松渉の著作は六〇年代の彼此(あれこれ)への強力な解毒剤であった。『マルクス主義の地平』『世界の共同主観的存在構造』『事的世界観の前哨』『資本論の哲学』等の読書会を次々と遣ったと記憶している。八〇年頃には「元プータロー院生」だった高橋も国士舘の講師に就職して何かと忙しくなり,私も多忙となって研究会は自然に消滅した。八〇年代中葉,私は漸くにして自らの縄張(フィールド)を近代日本印刷史と定め,一人で図書館通いを始めた。もう三十数歳になっていた。


小野田襄二氏が『劫(カルパ)』で,六〇年世代と違って三派全学連世代には「革命への見通し」という観点が稀薄で,「泰平の世」に動乱を夢見た(六〇年世代からすると)不可思議な存在だと誌しておられたが,六九年秋の「「グランド・デザイン」はもう要らない,運動が総てだ」という感覚は三十年以上が経過した今も持続している。長崎浩氏が嘗て『遠方から』で,六〇年安保の様な巨(おお)きな闘争の現場とは巨大な蚊柱みたいなもので内側から全体を見渡す事等出来ない,他所でも自分と同じ様に遣っているだろうと考えて目の前を片付けるしか無いのだと誌しておられた。六七年から七二年も其様なものであった。思えば今や巨大な闘争等日本の何処にも無いが同じ事だ。六〇年代の味噌っ滓は初老を夙(とう)に逾(こ)えたが,月刊『情況』というささやかな場所であれ,為し得る仕事を為すだけである。……そして今にして思えばだが,「運動が総てである」とは一九世紀末,マルクス主義に対して叛乱したマルクス・エンゲルスの高弟ベルンシュタインの言葉でもあった。




ふかわ・みつお 主著
『聚珍録―図説・近代日本〈文字‐印刷〉文化史 全三篇』(三省堂)。築地電子活版代表。分析書誌学,日本印刷史。

※ 2005年6月10日 若干の誤植を訂正し、公開。
(おわり)


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