大学の廃墟で

80年代の個人的経験



2006年4月

小倉 虫太郎
文筆業

すが秀実・花咲政之輔編『ネオリベ化する公共圏』2006年4月,明石書店 所収
著者の許諾を得て転載

 この文章は,20年前ほど遡る私の記憶を元にして書かれたものである。そのような試みが私に一体何をもたらすものなのか,ほとんど判然とはしないが,とにかく書き始めてみることだ。
 私が大学に入学したのは,1984年だった。私はその前に,2年間も好き勝手に浪人生活を送っていたこともあってか,現在ではほとんどあり得ないパターンとして「文学青年」なるものに憧れていた。と同時に,多少の覗き見趣味的に,学生運動なるものが果たしてホントウに存在しているのかどうか,この目で見たかった。多分に田舎者だったのである。とにかく1984年,私は都内にある私立大学,M大学に降り立っていた。一言で言えば,コミカルであった。まだヘルメットをかぶった活動家の姿がないこともなかったが,彼らから手渡されるビラの文句は,いわば伝統芸能の域に達する冗漫さに満ち溢れていた。また彼らは,70年代からの内ゲバを経て,もはや広域暴力団のような存在となっていた。私は毎回手渡されるビラを,しかし飽くことなく読み続けた,そのビラを読もうとする同級生が皆無であったにもかかわらず。必ず「日帝……」で始まるそのビラ,そこには「産学協同化……粉砕」なる文字も躍っていた。今日「産学協同化」は完璧に実現されているのであり,80年代前半の時点ですら,もはやその趨勢は決定されていたのだと言えよう。私も含めて学生たちは,70年代のシラケを通り越して,なにやらボンヤリしていたのだと思う。なんとなく4年間を消費して,企業社会に入っていくものだという具合に。学生運動の起こる余地は,ほとんどなかったように見えた。
 セクトが仕切る自治会大会での出来事――ある素人スジの学生が面白半分に手を挙げて「ニッテイってなんすか?」と言うや否や,40歳をとうにすぎたオジサンが,ナニヤラ叫びながらその素人スジ学生に近寄り,恫喝していた光景を思い出す。なんとも間抜けな遭遇である。ただそのころの大学キャンパスは,セクトが仕切っていたのとは裏腹に,完全にその文化ヘゲモニーを資本主義に奪われていた。あれは,学園祭のシーズンだった――マーケティング研究会なるサークルのメンバーとセクトの活動家が学園祭実行委員会の部屋に一緒にいること自体,奇妙といえば奇妙な風景だった。
 入学した当初の私は,文学研究会に入ろうとしたが,いろいろな経緯があり,やめてしまって,セクト色の薄いある社会科学系の研究会に入ることになった。当時のサークルの部室の雰囲気は,やはり学生会館がセクトの根拠地となっていたこともあって,ビラが20〜30年の層の厚みを誇って壁にこびりついていた。私は学生会館のサークル部室で毎日,読書と読書会の日々をおくっていた。そして時には,サークルの先輩と,こっそりと昔「赤軍派」が使っていた幽霊屋敷と化した部室に忍び込んで,昔のビラを拾って喜んでいた。私が文学研究会の人々に嫌われた理由は,実にそのような「運動」への好奇心だったかもしれない。しかしそれは実に,考古学的な情熱に近いものであった。サークルの部室に保管してあったかつての学園闘争を記録した写真集や得体の知れないパンフレット類を眺めては嘆息していた,もはや政治の季節はなかろうと思われたのに。しかし逆かもしれない。政治の季節の到来の不可能性を知っているがゆえにこそ,そうしていたのかもしれない。

    *

 私の望んだような政治の季節は来なかった。来たのは,女子大生ブームなるものであり,日本版ニュークリティシズム(いわゆるニューアカ?)であり,その間,学費は値上がりを続けた。私は,授業にほとんど出ず,相変わらずサークルの部室で読書や議論にふけっていた。その頃セクトは,三里塚空港反対運動など学園の外で完全にエネルギーを使いきっており,学費値上げ反対闘争に関しては,極めて形式的にバリケードストライキを行って,そしてなおかつ非常に手際よく2,3日で撤収した。当時私が所属するサークルもそのバリストに参加していたが,何が何だか全く分からないまま撤収が決定された記憶がある。実はセクトの人々にとって学費値上げは,あまり興味のない闘争であったことが後で分かった。彼らの関心は,大学当局が自動的に学生一人一人から代理徴収してくれる自治会費が安定的に手元に入るかどうかであった。その自治会費によって活動家を食べさせ,非公然部隊を編制し,そして都内のベース,および三里塚などのベースの維持がなされればよいのであった。自治会費の代理徴収は,戦後の学生運動の「成果」として制度化していたものであり,「ポツダム自治会体制」を批判した新左翼セクトがそれを引き継いでいたことには,何がしか意味論的な倒錯を孕んでいたことは間違いない。私は見たことはないが,年1回(数回?),学籍を有するセクトの活動家が,おそらく数百万円に上る自治会費を受け取りに行くのであった。その時の彼らの顔つきはどのようであったろう。
 後から徐々に分かって来たことであるが,70年代から80年代にかけて,大学の理事会(経営サイド)にとって,教授会・教職員組合との間での「政治」では,議会左翼勢力の力量とどのように対峙するか,ということが焦眉の問題であったようだ。そういった相関図はひとつの要素に過ぎないとはいえ,新左翼セクトという暴力装置が学内政治におけるある特殊なカウンターバランスとして活かされていた側面は,やはり拭えない事実だった。そして90年代,大学とその外部とをめぐる資本配置の転換は,経営側⇔議会左翼⇔新左翼といった敵対性の構図を,古びたものとみなし,新左翼セクトは,もやは放逐の運命を免れないものとなっていた。大学内の議会左翼勢力は,世代交代とともにむしろ大学の中心部に近いところに進出し,そこでの一定の均衡状態らしきものを達成したようである。だから90年代以降,経営側にとって新左翼セクトは,大学ブランドにとって,実に厄介な鬼っ子でしかなくなったわけである。
 結果から言おう。そのM大学の自治会・生協を根拠地としていたセクトは,2002年を期に,直接的には警察権力の手を大学が借り受けることによって,ほぼ完全に一掃された。もちろん私は,大学当局の側に自己同一化する余地をほとんど持たない者である。しかしまた同時に,追い出された側の集団,またその集団を構成する個々人に対しても,ほとんど言う言葉を持たない。私の身の置き所は,どこにもないと言える。しかし,80年代に大学を通過した経験のある世代の人間が,このような20年来の時間の全く外にある,というわけでもない。私も含めた彼,彼女たちにとって,実は目にしていた,かなり知っていた光景でもあった。にもかかわらず,ほとんど例外なく,そのような世代の私たちは,そこで起こっていたことについて責任の持てる言葉を作ったり,発信することもできなかった。このことは,大学人,旧き良き人文精神からするなら,一つの屈辱であるに違いないだろう,自分自身に良識が担保されていると考えるならば。だが実際には,人文精神などとうに崩壊している――それは,認めざるを得ないものである。かつて自分が経験し,疑問に思ったことに向き合えず,知らないふりをしている以外になかった――そのような記憶にならない記憶が鈍く滞留しているだけなのだ。だからもはや,屈辱もない。正確に言えば,屈辱を忘れようとする精神状態そのものが持つ屈辱である。であるならば,屈辱は,もはや後から呼び起こし,取り戻さなければならないものとなる。
 現在,M大学の校門には,ある看板が3年以上にわたって,ずっと立てられ続けている。そこには,おそらくセクトの活動家であろう6名の人間の実名が記されており,その者たちの出入りを禁ずるとの文言が付されている。その看板の文字は,既に長い年月立てられ続けているため,かなり黄ばんでいる。ウワサでは,その看板に記された人間の中で,既にこの世にいない者もいるのだそうだ(真偽を完全には把握していないが)。
 その看板が立てられている大学の建物は,バブルの時期に計画されたもので,あらゆる意味で,涙が出るほどの軽薄さを漂わせ,空虚なポスト・バブル精神を誇示し続けている。そしてその建物の出入り口には,まだ依然として,大学から厄介者として排除された「人間以下」の名が晒され続けているわけである。それはまるで中世的光景――天守閣の聳(そび)える城のふもとに並べられた「晒し首」を想像させる。いや,「晒し首」であれば,それを見る民衆に対して,ある程度のアウラを感得させるだろう,ヒソヒソとその「晒し首」の由来が裏話となって蔓延し,伝えられることだろう。しかし,そうではないのだ。単にその看板の文字は,全く中身を欠いた不可解な記号として晒され続けているだけなのである。屈辱を感じない屈辱の文字。

    *

 話をもう一度,20年前に戻してみたい。私は,4年間,学生会館のサークル部室でとぐろを巻き続けていたことになる。ただ,70年代からの成果とも言える「新しい社会運動」の広義の波の中にはいたので,反原発の集会,日本の進出企業による現地被害にかかわるセミナー,そして「障害者」の介助活動などには積極的に参加していた。就職は考えず,サークルに来る後輩の面倒をみるために大学院に進学し(実は他大学の大学院にしか入れなかった),そして相変わらずのセクトの動員体制に対しては,サークル総体として面従腹背の態度を取り続けていた。だがいつの間にやら,サークル部室は,怪しげな人間の徘徊する場所となっていた。私も含めて,その当の大学に籍を置かない人間,別の大学に籍を置く人間がでかいツラをし,そのうちの一人は,学生会館を常宿にもしていた。
 そのようなある意味アナーキーなサークル運営において直面したのは,「精神」問題であった。このことは大学と自治にからむ事件史と同様にして,私個人としても,いまだにうまく言葉で表現しきれないでいる過去である。サークルのメンバーの中で,精神状態に異常が認められるような人間がある時期,3人ほどほとんど同時的に現れたのである。それらのきっかけは,恋愛問題であったり,また別の職場や活動にかかわる人間関係のプレッシャーであったり,経験的に直感できる原因はバラバラであり,またそれが複合していた。私はそれらの処理――大概は病院に連れていったり,付き添いのローテーションを組むことであった――に忙殺された。当時,日本ではドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス──資本主義と分裂症』がよく読まれていた時期であった。私が属したサークルは,世の中の流れからは,ある意味完全に切り離された島宇宙のような時空にあった,と錯覚していた。しかし後から考えてみれば,世の中は,バブル一色であった。その書物の副題「資本主義と分裂症」に何某かの符合があるかのように,ある種のお祭り騒ぎに似た雰囲気を湛えていたとも言える。我が島宇宙は,同類を求めて泡(バブル)のように他キャンパスのサークルやそれぞれの活動の現場,あるいは街頭やバイト先へと彷徨(さまよ)っていた。つまりメンバーたちは,他のサークル,「障害者」のサークル,環境運動や女性運動のネットワーク……様々なサークルとリンケージするようになっていたと同時に,人間関係の調整に失敗するケースが増えていたのである。バブルの時期は,アルバイトでの稼ぎが割り高だったため,いわば漂流型の運動が成立しやすい条件にあったということも,今からならば思い当たる。そしてそこに,小さな政治の季節がやってきたのだ。時代は,徐々にXデー(昭和天皇の最期)に向かっていた頃であった。
 私の所属したサークルは,ある老アナーキストのアイディアにならって,昭和天皇の最期を前倒しにスクープする『不敬新聞』と題した嘘新聞を発行し,また一番大きな校舎の入り口の床に日の丸国旗を敷いて,それを学生たちにわざと踏ませるパフォーマンスを実施した。後から考えれば,面白主義に流れたタワイもない行動であった言える。しかし当時は,そのようなパフォーマンスに対して,大学には運動側との力関係からして,それをただちに止めさせる力量もキモも据わってなかった。今日のように,警備をアウトソーシングにしていなかったことも大きな条件であった。だから私たちは,調子にのってふざけ続けていた。当時,私たちのサークルの実働部分は,私も含めてもはやM大学に何の縁もない者が多かったが,それを現に実行した部分には,またしっかりと学籍を持った学生もいた。大学に形式としては属していながら,しかし精神的には全く属していないとも言えたのだ。
 そんな80年代も終わりに近づいた頃,学生・市民の活動家を中心として「Xデー問題」が大きく取り組まれようとしていた。私たちは,君主の死の日付を待ちながら,その日付に起こるであろう出来事に反対するという,ある種倒錯的な時間の中にいた。しかしそれは運動が間違っていた,ということでは全くないだろう。私が言いたいのは,共和制を実現し得ない国の国民であらねばならない事態から来るジレンマである。私自身は,三島由紀夫の自殺にほんど興味を持たない人間だが,ただひとつ昭和天皇が長生きしすぎたことは,やはり目に見えない精神史的な影響を私たちに与えたのかもしれない。当時私は,マジメに二・二六事件を研究したりもした。二・二六事件の皇道派の将校たちがその当の昭和天皇によって罰せられたのとちょうど逆に,私たちは昭和天皇に罪を認めさせようと運動すればするほど,天皇制それ自身が持つ文化の亡霊的性格を強めていたのかもしれない。形式論理的には,天皇に責任を取らせることと,天皇制(君主制)を廃止することは,実は両立し得ないことなのかもしれない。しかし歴史は,形式論理ではないだろう。このパラドックスは,現在も私の思考回路を規定し続けていると思う。
 さて当時,M大学は,私立であったこともあり,天皇の死に然したる反応も示さなかった(確か,普通の商店街が示したほどの反応であった)。しかしセクトは,最後の花道とも言うべき舞台をXデーに合わせていたようだ。発炎筒を校門前の道路に投げ,勢いよくタイヤを燃やした。そして機動隊が1969年から20年ぶりに導入された。
 ただ振り返って思うのは,あの89年は,ある種の画期であったということである。それはもちろん,ソ連圏の崩壊などに象徴される世界構造の激変であった。しかし私は当時も,やはりボンヤリしていたようである。実はそのはず,日本は,西側諸国に位置付けられており,その受益構造を保っていたのだから。また当時は,プラザ合意以降の円高基調がさらにバブルを持続させている時期でもあった。昭和天皇が死に,そして冷戦構造が解けて,世界の表面は激変していたものの,まだまだ日本人は,天下泰平の気分にあったと思う。しかしその2年後,湾岸戦争の勃発とともに,日本の国家体制は,今日に至るようなポスト冷戦を睨んだ国家改造へと打って出ようとするのである。
 理論的にキチンと説明できるわけではないが,ちょうど90年代に入ろうとした頃だった,と後になって考えられる。つまり,大学(の経営者)が「主体」的に変革を考え始めた時期である。それはM大学の場合には,新左翼セクトを「処分」する意志を明確にし始めた時期とも重なることになる。

    *

 つまり大学は,かつて大学の外として措定されていた資本の論理世界に向けて,自己「変革」を開始したのである。これはある意味,詐欺に近いものである。実質的に「大学」ではなくなっているにもかかわらず,その「大学」というブランドだけを担いだ実質「専門学校」になろうとし,また現にそうなったのだから。しかしそれは実際に,戦後の日本の大学(私立も国立も)が担っていた実相というものが,あられもなく浮き出ただけのことなのかもしれない。今日,大学といえるのは,事実上の競争が行われる東大・京大など旧帝大だけである。その他の大学は,実際のところ競争しなくても入れるのだから。つまり戦前に戻っただけだ,とも言えよう。多くの都市内部の私立大学は,もともとそのような旧帝大に入れなかった者たちのための法科や商科の「専門学校」であったのだ。
 さて結局,問題は「運動」がどこから出てくるかである。しかし実際のところ,「運動がどこから出てくるか」という問題の立て方自体が倒錯しているかもしれない。そのようなパースペクティブが常に裏切られる形でしか「運動」は生まれてこなかったし,そしてまた挫折したのだから。例えば,反スターリン主義を掲げた新左翼セクトは,ソ連が崩壊したからといって党勢を拡大させたわけではない,むしろ逆となった。また中国を例にとっても,内戦を知らない若い世代がかつての革命の理念をラディカルに模倣することで「文革」が推進され,そしてそれが当の共産党によって否定されたことも,そのような「運動」のパラドックスを如実に表現している。
 ひとつ留意したいのは,日本の反体制運動の組織論に残した(日本的)マルクス主義の影響である。例を挙げよう。現在,M大学の自治会は,消滅している。新左翼セクトを排除する強制力とともに,自治会自体がなくなったのである。自主と独立を謳うこの大学において自治会は,今後おそらく誕生しないだろう。コミカルである。戦後日本において,外部からの理論的・組織論的援助を受けない自治会は存在しなかった,と言ってよい。別の角度から言えば,組織を形成していくのは,理論的・組織論的ノウハウであり,またその伝承であると言える。ここで断っておかなければならないのは,自治会があれば運動が発生する,といった見解を私は素朴に持っていないということである。ここで大学という場において「運動」を構想する際に,「自治会」という課題を機能的に投げ出しただけである。何が問題であるかと言えば,先ほど「理論的・組織論的」と並列した問題である。理論とは,大きく言えば世の中を説明する原理であり装置である。そのような理論がなければ,人は動きようがない。人の動きは,彼,彼女を取り巻く現実,歴史をどのように洞察するかという次元と密接に関連付けられざるを得ないということである。
 大学内のサークルは,戦後の大学における自治会の再建,その流れの中で学生の自主的な活動の空間として出発したと言える。しかし同時にサークルは,戦後左翼にとっては,自陣営の指導部が影響力を行使する労働組合,自治会,つまりそのような「大衆組織」の下部組織としての位置を与えられて来た。その意味では,旧・新左翼両者とも同様の階層構造を維持してきたといってよい。そして目下の大学内のサークルは,自治会(党の指導を間接的に受ける)の指導から,専ら資本世界へと自己訓育を行うひとつの温床としての機能を担うものに過ぎなくなっている,つまり二重の意味で,政治性を剥奪された場所に成り果てているわけである。

    *

 しかしこのサークルをめぐる歴史的考察は,そのような結果論だけで完全に了解できるものではない。ちょっとした材料を投げ出して,若干の参考課題を提出することにしたい。1955年,日本共産党の六全協の方針転換によって,その指導の下にあった労働組合,自治会,地域組織及びその傘下のサークルは,55年までの政治方針(武装をも視野に入れた民族独立闘争)がほぼ全否定されることによって,大きなアパシー状況を作り出した,と言われている。戦闘的に活動していたサークルは転換を余儀なくされ,代わって大衆獲得に重きをおいた懇談会的なサークルが結成されていった。大まかに言えば,サークルは一度,1955年の時点で切り捨てられたわけである。だからこそ興味深いのは,1955年を越えて,党による指導を受けないサークル運動が隆起し始めた事実である。
 あまりにも有名な,九州に戻った谷川雁を中心に作られた雑誌『サークル村』の結成は,1958年の出来事である。また別の例を挙げるならば,集団研究(サークルによる民間研究)として後の思想史研究に大きな影響力を及ぼした「転向」研究も興味深い。初発は思想の科学研究会であり,1954年に関西と東京で研究が始められたわけであるが,実際には1957年の藤田省三(当時党籍を有していた)の入会によって,大きな思想的生産性を獲得したこととなる。いわばこれらの例は,1955年に捨てられようとしたサークルの「旗」を拾いなおした成果,ということになるだろう。
 しかしそのように拾いなおされたサークルの「旗」も,高度成長期を通じて,徐々にその機能を奪われてしまう。最も分かりやすいのは,工場内部のサークルである。高度成長期を通じて,労働組合のサークルは,いつの間にか生産点の合理化を目指す経営側のQCサークルへと簒奪された。これと同様に自治会(文化部連合会)の指導下にあったサークルも,企業論理を先取りする自主訓育装置(マーケティング,英会話,等々)へと変じていったのである。
 いずれにせよ,55年から80年代にかけてのある期間,主に左翼の側が掌握していた大学におけるサークル運動は,戦後フランスと似た構図として,つまり共産党と知識人の緊張関係を背景として成立していたと考えられる。今から思えばであるが,そのような左翼反対派的な土壌について,それが急速に失われたと総括できるのか,それとも日本のような後発資本主義国において元々からそのような素地自体が虚妄に近いものだったのか,という歴史的評価の分岐があったとして,私は両方言えるのではないかと思う。しかし,こういった議論をここで行うスペースもないし,私の中で結論が出ているわけでもない。ただ今にして思うのは,そのような歴史的背景を持つ大学におけるサークル運動が消えかかる時期に私はそこにいた,という具合に私は自分自身の80年代の経験を理解している。
 もう一度,サークル運動の「旗」を拾いなおすことがどのように可能であるのか。かつての条件のままでサークルを構想することはもはや不可能である。実態として,組織としての「左翼」はもはや消滅しているのだから。また,大学(経営側)は大学で,サークルをまったく不要なものと考えている。企業社会に適合的な人材を育成する作業は,既に正式な大学のカリキュラムの中に配置されているのだから。また労働組合のサークルや地域組織のサークルも,これほど「娯楽産業」が高度化した今日,またその生き残りをどのように図るのか,正念場にかかっている。
 2000年くらいから日本で,NAMと呼ばれる自律経済運動が発足しようとして挫折したり,また別のルートからマルチチュードといった輸入言語が流行しかけていることなども,実は,集団やコミュニケーションにかかわる問いに,批判的知識人が直面しているからだ,と思われる。しかし実に戦後の遺産としてのサークル,その記憶にしても,実に私たちの遺産であったはずだ。だがもちろん今日,それはノスタルジーとは峻別された回路によって再提起されなければならないだろう。いずれにせよ,このような状況のなかでもう一度サークル運動の「旗」を拾い上げるのであれば,それにはまた別の,思いもよらない資源と基盤を探してこなければならない,ということなのかもしれない。
 谷川雁がかつて語っていたサークルの定義は,いまだに私たちに思考の参照枠を残しておいてくれているように思う。50年代当時,サークルは真面目に社会主義社会にいたる過渡期の人間関係の実験室だ,と考えられていた(目も眩むような落差!)。アントニオ・グラムシが述べたように,私たちの自己意識が統治者のイデオロギーの影であるならば,実践理性こそが,その影を踏み破ることができる。サークルとは,実にそのような実践理性にかかわる自己訓育の場であったし,そのような場として希求されざるを得ないものである。だが果たしてそのような「場」は,共和制が実現されておらず,極めて脆弱でありつつ形式として完備した議会が存在するこの国の風土においてどのような機能を果たすのか――このような思弁への誘発に耐えながら,私たちは,実践理性の訓育を試みなければならないだろう。私の中でとにかく,問いだけは生き残っているもの,と思う。


すが秀実・花咲政之輔編
『ネオリベ化する公共圏 壊滅する大学・市民社会からの自律』
A5判・188頁・1575円
明石書店
4-7503-2327-6

(おわり)


Jump to

[Top Page] [BACK]
ご意見をお待ちしております。 電子メールにてお寄せください。
前田年昭 MAEDA Toshiaki
[E-mail] tmaeda@linelabo.com