学生運動の「OB」とは何か



2007年04月02日10:21

前 田 年 昭
日雇編集校正者

mixii日記2007年4月2日付掲載

「全学連・全共闘・学生運動OBの共同声明」が話題になっている。

レイバーネットのサイト
http://www.labornetjp.org/news
/2007/1175321987497staff01

趣旨は9条改憲反対を訴えるものであり,キナ臭く息苦しい社会と時代への良心的危機感に満ちたものである。一読した私も,大きくまちがってはいないと思う。とうとうあの人(かつての闘士!)が発言するほどまでに,この社会はトンデモなところまで来ているのだと再認識したという感想を述べる方もいた。

しかし,何だかなぁと思うのである。

××○○(XX年,△△大学自治会代表),という署名をならべて,「私たちはかつて,学生運動という形で,政府や権力を持つ者の動きに異議申し立てをし,その暴走を食いとめようとしました」ってねぇ……。これって「オレは○○連隊でね」「××上等兵どの」などという祖父の代の醜悪な会話と同質のものを感じてしまう。要は,オレも若いころはブイブイ言わせて,やったものよ,という飲み屋談義とどう違うのか。なぜ,今やっていることを記さないのか。ハケンやニート,失業者として〈68年〉を行きつづけている人が『共同声明』したほうが,私はカッコいいと思う。

日本の革命は遠からじ,と確信する一方で,これじゃあまだまだだなアと溜め息をついてしまうのである。署名に名を連ねている方々のなかには,個人的には尊敬している(していた)人もおられるだけに,とても残念で,哀しい。

今はなき竹内好が1948年に書いた「指導者意識について」は,私がここで「これじゃあまだまだだなア」と感じた,鼻持ちならない選良意識,エリート意識についてこう書いている。

「子供はオトナよりオトナ的だ。官僚は官僚の身分において悪であるよりも,民衆を官僚化することによって最大の悪である。そして民衆は,民衆であるために官僚化される。……指導者意識は,どうしても価値を擬制することになり,したがって現実が二重になる。」「日本資本主義の指導者たちは,日本のおくれた資本主義を,世界の水準へ近づけようと努力した。……かれらの努力は,ともかく成功した。そして成功が,日本文化の構造と,日本人の心的傾向を決定した。一高-帝大-高文という教育コオスと,それに伴う日本的な立身出世の教育精神が,どこまでも縦に貫いている。……これが指導者意識の発生する地盤だと思う。そして解放運動までが……型どおりにゆがめられるといってもいい。そのいい例は,明治の自由民権運動と大正の左翼運動だ。自由民権は大陸侵略の手先に変形してしまったし,大正から昭和にかけての左翼運動はいわゆる新官僚となって,今度の戦争を強力に推進した。」「明治維新は,革命として成功したことにおいて失敗した。辛亥革命が,革命として失敗したことにおいて革命の原動力を失わなかったのとは,反対である。」「指導者意識の根は民衆にある。指導=被指導以外に人間関係がないのだ。自分が一高-帝大へゆくか,そうでなければ一高-帝大に劣勢意識をもつかで,第三の道がない。ドレイか,そうでなければドレイの主人かだ。」

それにそもそも,なんで「全学連・全共闘…」って並べられなきゃアカンのか,私は気にくわない。三派全学連や反日共系緒派(新左翼と呼ばれた)は,闘いのなかで日本共産党を批判し対立して生まれた。全共闘はその反日共系緒派とともに闘いながら,そのなかで反日共系諸派を批判的に止揚するなかから生まれた。これが歴史の真実ではなかったのか!嗚呼!

ま,もっとも,68-69から四半世紀たった時点で出された『全共闘白書』などというゴミ本には,すでにそんな片鱗も消えうせてしまってたけどね。
(おわり)


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