連載:滴水洞 025

映画『墨攻』は墨侠精神に対する歪曲、改竄である



2007年02月16日11:24

前 田 年 昭

編集者

映画『墨攻』が公開された。私たちの前にいま,酒見賢一の小説(1991新潮社,1994新潮文庫),森秀樹のコミック(1992-96,ビッグコミックス),山本甲士のノベライズ(2007,小学館),そして映画(2006)と四つの『墨攻』が存在する。いずれもフィクションだと公言しており,私の批判は史実に反するかどうかという批判ではない。
- 酒見賢一『墨攻』
- 森秀樹『墨攻』
- 山本甲士『墨攻』
- 映画『墨攻』リンク切れのため→墨攻(MovieWalker)
結論を先取りして言えば,前の三つはそれぞれに面白いが,映画はその面白さを“殺して”しまっているように私は思う。しかも,それは墨子と墨家集団の精神について,また,戦争について,相対立する二つの見方考え方の対立を反映しているように思えるのだ。

1)映画が描き出した主題は「戦争と平和」である。主人公は人(敵兵)を殺すことについて悩み続ける。戦闘場面の描写では,侵略してきた趙の軍の行動より守る梁の側の軍民の行動がむしろ残虐であり,南門の攻防と死者への鎮魂に流れている気分は戦争反対,正確にいえば厭戦である。
しかし,前の三つの主題は侵略(戦争)に対する抵抗(戦争)である。けっして戦争反対ではない。

2)映画が描き出した民衆は,王や貴族の権力争いに巻き込まれ,ひどいめに遭いつづけ,無力であわれな,救済対象としての民衆である。
しかし,前の三つに出てくる民衆はちがう。抵抗と防衛の大義に目覚めるや,結束して大きな力を発揮する。歴史の主人公である。

3)墨家の原点たる墨侠精神を体現する主人公・革離は,梁王と梁の防衛についての「契約」をかわすにあたって,指揮権のすべてを与えること,王の側の女性たちをも例外なく組織編制に組み入れることを絶対的条件として要求し,これを認めさせた。
しかし,ひとり映画のみが,王の側の女性たちは編成に組み入れられず,逸悦が率いる精驥馬隊は革離の指揮下に入らなかったことになっているのはなぜか。

4)革離は梁の人々にとってみればよそものでしかない。彼が何ゆえ城主梁渓や貴族の嫉妬やねたみ(本質的には恐怖である)を招くまでに人心をつかみ,人々を団結させ得たのか。
革離が自らの刀で腕を切ってみせ,「私の血を吸った土地を私は全力で守る」「降伏すればたとえ肉体的生命が保ちえたとしても奴隷と陵辱しかない」と軍民を前に演説し,人々を決起させる場面があるが,この場面がひとり映画のみ欠落しているのはなぜか。

歪曲と改竄はまだまだあるが,ここにある対立は,四つの物語の四つの個性ではけっしてない。ひとり映画版『墨攻』のみが,偽善的でふやけた「戦争と平和」の,ハリウッド流の,欧米「人道主義」の軍門にくだった立場に立っていることを示している。ひとり映画版『墨攻』のみが,墨家思想と墨侠精神を裏切り,ふみにじっている。私はそう思う。

現代中国に毛沢東と中国共産党は墨家思想と墨侠精神を復興し,中国革命と文化大革命をはじめた。その毛沢東と中国共産党の軍隊であった人民解放軍のふたつの軍区がこの映画版『墨攻』に協力している事実は,中国の「党」と「軍」もまた,毛沢東死後,墨侠精神を裏切り毛沢東思想を否定してしまったことを事実で証明している。

【参考】滴水洞 021◆墨家と毛沢東思想

*2012/05/17 リンクをbk1からNDL-OPACとキネ旬DBに変更
*2012/08/25 リンクのNDL-OPACをamazonに変更
(おわり)


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