教育革命いまだ成らず




2007年6月

前 田 年 昭
編集・校正者、アジア主義研究

土屋昌明 編著『目撃!文化大革命』(2008年4月、太田出版)所収

教師の講義がまずいときは,生徒が居眠りするのをゆるすべきだ。講義が悪臭を放ち,長いうえにつまらないというときは居眠りがいちばんよい。眠るということはあたまを休めるし,元気をやしない,身体にも有益である。
(『毛主席教育語録』)
毛沢東主席のこの言葉はとても愉快で元気が出る。教師は学校で成績評定権,単位認定権を握って生徒,学生を抑えつけている。力と希望を奪われた生徒,学生は面白くない授業に対して,騒ぐ(非行)かサボる(登校拒否,退学)しか術がない。“出来の悪い”生徒,学生は,「進路」をはじめいっさいの未来を奪われている。彼らは,教師というミニ官僚と闘わなければ,授業を自分のものに取り戻せない。毛主席の言葉は,学校(授業)の主人公が生徒,学生であるという宣言であり,無力な者たちへの力強い励まし,後ろ盾である。
 敗戦によって国家主義は一度は打撃を受け,軍隊は一度は解体された。しかし,学校はそのままだった。「序列主義は,明治以来いささかの中絶もなく,連綿として日本の教育を支配しつづけてきた」(遠山啓『競争原理を超えて』太郎次郎社,1976年,23頁)。もし,青年たちが反権力運動に飛び込もうとすると,親兄弟親戚から学校や地域まで「世間」はみな言った。「世の中を変えるなどということは,ちゃんとした学校を出てエライ人になってからやりなさい」と。学校出を尊ぶ価値観は何ひとつ変わらない。社会のこの基本関係に対する若者たちの叛乱が,60年代末の日本の全共闘運動であり,中国の文化大革命だった。
 大学に行くことを人生の希望とみなすことをやめて大学一辺倒でない多様な生き方を選ぶ中高生たちが少なからず生まれたこと,実はこれこそ文化大革命と全共闘運動が残したもっとも大きな遺産のひとつだった。中学時代が文化大革命の3年間(1966〜68年)とぴったり重なった私もまた,大学に行くことしか眼中になかった人生観はこの時期を経た後には過去のものになっていた。

敗戦後社会は天皇から下々にいたるまで反省で始まった。一億総懺悔である。何が悪かったのか,誰が悪かったのかは隠蔽された。個の尊重が強調され,集団というものは個人を抑圧するものとしか考えられなくなった。二度と騙されることのないように「自立」した人間になることが求められた。この心情は反権力運動のなかにも浸透した。
 日本共産党は1955年,自らの創立者徳田球一を“家父長”として否定し,自らの武装闘争を“極左冒険”として否定した。以降,日本共産党は“議会を通じての多数者革命”という路線へ純化を遂げていった。
 60年代前半,革命中国からおおくの文芸作品が日本に翻訳紹介された。後に文化大革命時に批判される中国の共産党内実権派とそれに追従する日本の共産党内「中国派」の一時的蜜月時代だったからである。日本の党が中国の党と厳しく対立する前夜だった。
 世界革命文学選(62年9月〜),中国革命文学選(63年6月〜)が新日本出版社から出された。前者はロシア,朝鮮,ベトナムなど世界各地の作品を網羅し,そのうち中国の作品は呉強『真紅の太陽 上下』鹿地亘訳,柳青『創業史 上下』人民文学研究会訳,草明『風にのり波をきって 上下』南克己・野本彰訳,趙樹理『李家荘の変遷』三好一・島田政雄訳が相次いで出された。後者は,羅広斌・楊益言『紅岩 上下』三好一訳,胡万春『光は大地を照らす』伊藤克訳,李英儒『ホト河でのたたかい』石川賢作訳,馮徳英『迎春花 上下』木山舵夫・伊藤三郎訳,高雲覧『小城の春秋 上下』丸山昇訳,漢水『勇往邁進』仁戸丹訳,周立波『山郷巨変 上下』西城秀枝訳,楊朔『長白山脈を越えて』島田政雄訳が出版された。
 これらは革命中国に心を惹かれる人びとにいったいどのように受容されたのだろうか。
 64年に日本共産党系の再建全学連委員長だった川上徹さんは書いている。「…六三年、新日本出版社から発行された中国の小説『紅岩』が学生党員の間ではベストセラーとなった。中国革命の過程で、地下に深く潜行していた党員たちが、革命の成就とともに地上に姿を現してくるという、多分にロマンチックな冒険小説だった。警察署長や看守たちの中にも秘密党員がいて、彼らが最後の一瞬に姿を現す……。オレたちも〈そのように〉やるのだ。
 企業(とくに東大の場合は大企業を意味していた)に潜り込む者、権力機構=官僚への道を進む者、司法界とくに裁判官への道を進もうとする者は、今後「勉強の時間」を一定保障し、あまり「オモテ」にも出ないようにする配慮が必要だとされた。将来の研究者として大学に残る者や比較的自由な民間に行こうとする者は公然化していてよいが、そうでない者たちはできるだけ非公然化する……。」(『素描・1960年代』同時代社,2007年,59頁)
 日本の左翼は,全共闘運動以前は,革命を社会の価値観を変える問題とは理解しなかった。自らの生き方を変えることと一体のものと捉え得ず,単なる政権交代と考えていた。のちに文化大革命で全面的に批判される劉少奇の修養路線そのものである。
 劉少奇は書いている。
共産党員は、なぜ修養しなければならないのか?……長い年月の革命闘争できたえられた革命家が、かならずしも、みんなすぐれた老練な革命家になるとはいえない。それは主として、その革命家自身の努力と自己修養のいかんによるのである。……孔子はいっている。「われ十有五にして学問に志し、三十にして立ち…」と。これもまた、自己の鍛錬と修養の過程をのべたのであって、孔子は、ここでは、けっして、かれが生まれながらの「聖人」であったとはみとめていないのである。孟子はいっている。「ゆえに、天(?)のまさに大任をこの人に下さんとするや、かならずまずその心志をくるしめ…」と。これもまた、偉大な人物になるためには、どうしてもへなければならない鍛錬と修養の過程をいったものである。
『劉少奇主要著作集 第1巻』三一書房,1959年,10〜17頁)
日本共産党を否定して生まれた新左翼も革命イメージはそれほど変わらなかった。革命とは知識を得ることによって目覚めることであり,啓蒙のために一人ひとりが「修養」すべし,という考えにとらわれていた。革命家になるための“修養”,そこでは,序列主義や学校主義自体は批判の対象ではなかった。革命のためということであれば上昇志向も是認された。
 しかし,人と人との関係を変え得ない「革命」はただの政変でしかなく,その権力は必ず腐敗する。自らに貼られた“出来が悪い”という価値観が社会的に転換されなければ,抑えつけられている人びとの解放とはいえない。
 西部邁は書いている。
ブント世代の目立った特長のひとつ、それは、ブント出自の知識人のほとんどすべてが大学教師だということである。……大学教師となった東大ブントの連中はいわばアカデミズムの海中に没することに満悦している風情なのだ。

「専門家」「権威者」を批判し,序列主義そのものを問う文化大革命が始まった。もちろん文化大革命には欧米的近代化への抵抗とか,変質して堕落した社会主義・共産主義の原点回帰とか,いろんな側面がある。そのひとつとして序列主義に対する“出来の悪い”者どもの反乱という側面があった。日本では全共闘運動が始まった。口先で“革命的”言辞を吐きながら,上層志向と自己保身に汲々としている教授たちは批判された。
同校(女子一中)三年(つまり卒業生)四班生徒一同が、毛主席にあてた手紙はつぎのように訴える。/現在の進学制度は、中国の封建社会が数千年来続けた科挙の制度(清朝まで続いた官吏登用試験)の延長であり、毛主席のいわゆる「プロレタリア階級の政治に奉仕する教育」に反するものです。多くの青年は大学の試験にパスすることだけを考え「本をたくさん読めば名をあげることができる」といった反動思想に取りつかれ、多くの学校は進学率だけを追求し「英才教育」を誇るために「本の虫」ばかりを集め、労働者、農民、革命幹部の指示を排斥しています。このような進学制度は資本主義復活に奉仕し、新しいブルジョア分子、修正主義分子を作り出す道具に過ぎません。そこで私たちは、つぎのように提案します。/(1)ことしから従来の進学制度を撤廃すること。(2)高級中学卒業生はまず労農兵の中にはいり、労働者、農民たちから「思想卒業証書」を受けたのち大学、専門学校に進むこと。(3)……/私たちのこの提案が全国的に採用できないなら、ことしは北京市だけで、それもダメなら私たち四班の生徒を試験に使って下さい。
(『毎日新聞』66年6月20日付)
この手紙の日付は6月6日。同年6月6日付『人民日報』は手紙全文を載せたうえで,「…重要なのは「技術官僚」「イデオロギー専門家」など、修正主義を生みだす毒の根をぬきさり、「名誉欲・金銭欲」「個人的奮闘」「白色専門家の道」などを生みだす重要な条件をとりさることができるということであり、それは教育の大革命である」と強調している。(東方書店出版部編『中国プロレタリア文化大革命資料集成』第1巻,351〜355頁の邦訳による)。これを受けて,13日には,党中央と国務院は「試験延期」を決定する。文化大革命の開始である。
 これには前史があった。文化大革命は60年代前半の農村における社会主義教育運動の都市への波及である。新中国建国から十数年経ってもいまだ,優等生社会と序列主義は何ら変わっておらず,矛盾はあちこちで噴き出していた。『毎日新聞』66年7月20日付には,河南省の高級中学3年生が,中間試験で出題に従わずに“知識を深めることが人民に奉仕する道だ”という教師批判の一文を「われわれの学校にも修正主義者がいる」との題をつけて提出したという64年10月の事件が紹介されている。「この“答案”は教師陣に大論争をまき起こし「従来のワクを破ったりっぱな作文」として満点を主張する先生も少なくなかったが「出題を無視し、内容も過激であり、こんなものを許しては教師の権威にかかわる」という“権威派”に押し切られ、零点をつけられた」(同)
 日本でも青年たちは,科学万能の傲慢からくる教育や医療の荒廃,環境破壊と公害,さらにベトナム戦争への加担に対して異議を申し立てた。まして中国ではつい数十年前まで科挙制度が残っていたわけであり,「専門家」「権威者」が幅をきかせる価値観は,新中国になってからも根強いものがあった。
 文化大革命の息吹き,その活きた姿を日本の若者に伝えたひとつが映画『夜明けの国』だった。関西では毛沢東思想学院という組織が先導して上映運動が広がった。1970年4月,私は「現代史研究会運動は偉大な日本文化大革命のN高における一形態である」と書き付け,5月,自校の文化祭で友人たちと『現代史研究』を創刊,翌71年5月の文化祭では「新中国を知る――それは日本を知ることでもあるのだ」というビラを配り,小講堂で映画『夜明けの国』を上映した。
 映画のラストで,1930年代の長征にならって隊伍を組んだ紅衛兵たちが旅に出る。文化大革命は長征と延安革命の身ぶりを現代に引用しようとしたものである。そして,その文化大革命の身ぶりを日本に引用しようとしたものが私の全共闘運動だった。親や教師は言った。「世の中を変えようというなら,卒業して大学へ行ってからやれ」と。その価値観を変えるんだと私は思った。
 習慣の力を変えるということはとてつもない力が要る。「革命は,客をよんで宴会をひらくことではない。…革命は暴動である」(毛沢東)。習慣の力という暴力と,対する造反(むほん)という暴力との衝突――それだけではない,さまざまな暴力が噴き出した。66年6月から11月までの主な記事の見出しだけ拾ってみる(数字は日付,夕は夕刊。読=読売新聞,毎=毎日新聞,サ=サンケイ新聞)。

6月】中共の「整風」ついに「粛清」に 背後に権力闘争か(4毎)/権力闘争説に傾く 外務省「整風」の分析進める(9読)/中共の文化大革命 労・農・兵を前面に 知識分子に精神的圧力(9夕毎)/整風,映画界にも 人民日報解放軍報「真紅の太陽」を批判(9夕読)/中国の“整風”全国へ波及の勢い 反党の“温床”上海 京劇院に続く音楽院批判大物黒幕たぐる?(10読)/外国の使節を刺した男 “反革命”で銃殺(14読)/中国“整風”第二段階に 中学校へも工作員 下部組織摘発 職場は連日“学習会”(17読)/中共,入試を延期 労農兵出身学生を優先へ(18毎)/“七億総点検”を進める中共 「幹部批判」呼びかけ 生徒は教師をヤリ玉に(26毎)
7月】中共の粛正,さらに発展か 強力な反党集団 「人民日報」「紅旗」が非難(2毎)/七億ゆるがす「文化革命」 妥協全く許さぬ “米中戦争”で異常な緊張感 影うすれる権力闘争説(9サ)/北京大学に整風の“目” 反党教授に“リンチ” 夏休み返上,入試も延期(11夕読)/整風,スポーツにも 中国,張体育総会副主席を摘発(20夕読)
8月】軍に波及した中共整風 “大学校化”強める 三次大戦に備えた毛戦略(2毎)/中共,整風の徹底きめる 町内にも常設組織(9毎)/紅衛兵が町の改名運動 店も通りも“革命的”に 看板ぶち壊し,かけ替え(22毎)/変わりゆく北京 ハデな服装厳禁 トランプのK、Qまで アルファベットも追放(23サ)/荒れ続ける「紅衛兵」 軍隊警備の門も破壊 個人住宅で衣類放り出す(25毎)/上海にも“紅衛兵のアラシ” “看板革命”に歓声(25夕サ)/外人学校(聖心学院)にも侵入 公園のアベック禁止(25夕読)/ついに「焚書」さわぎ 糾察隊出動(26読)/どこまで続く紅衛兵運動 古美術も破壊(26夕読)/燃えさかる“紅衛兵” “暴力革命”の様相を深める 街頭で袋だたき 旧資産家の家庭を襲う(27サ)/反党分子摘発へ 殺気立つ北京市民 激しいつるし上げ 京劇俳優の周信芳が自殺か(27読)/紅衛兵ら九人殺さる 北京 警戒を呼びかけ 市民と紅衛兵衝突か 広州(28サ)/紅衛兵 暴力化強める ついに流血事件 資本家,地主が反抗(28読)/元閣僚に強制労働を 紅衛兵が処分を要求(29毎)/人民日報 紅衛兵にブレーキ 暴力やめ言論で(29読)/紅衛兵,教会に放火 広州(30毎)
9月】紅衛兵内部の対立表面に 老幹部迫害は許せぬ 人民日報まきぞえ 過激派を痛烈に非難(1サ)/毛・林・周三首脳,紅衛兵大会に 腕ずくはやめよ 林副主席演説(1読)/青島でも紅衛兵衝突 労働者四万人と(1読)/尼僧に十字架を踏ます 紅衛兵(3毎)/広州で紅衛兵衝突 同士うちで多数の負傷(3サ)/債券,家屋の返上続々 北京(4読)/紅衛兵革命 地方で強い抵抗 軟禁や暴行騒ぎ 新組織「赤衛隊」と衝突も(5毎)/人民日報 「プロ独裁」打ち出す 階級闘争に文闘強調(5夕毎)/紅衛兵と民衆衝突 広東など地方数都市で(6読)/農業生産妨げるな 人民日報,紅衛兵に強調 文化革命行きすぎ戒め(7サ)/西安 紅衛兵ら三万人ハンスト 省の党委に反抗“革命隊組織を認めよ”(10サ)/紅衛兵同士が乱闘(10毎)/紅衛兵と対立するな 人民日報 地方党組織に警告(12サ)/地方で大粛清? 紅衛兵,李井泉氏もヤリ玉(13読)/紅衛兵を投獄 貴陽 西安では反毛ポスターも(14夕読)/紅衛兵同士が衝突 広州 解放軍が出動して鎮圧(16サ)/毛主席に救援訴え 福州の労働者“学生らが反革命”(24夕読)/紅衛兵が“焚書”運動 文化人批判続く(26毎)/中共 紅衛兵運動が壁に 地方で巻き返し “突撃戦法”が反感あおる(27夕毎)/六月から暴力闘争 女性も袋だたきに プラウダ報道(28毎)
10月】紅衛兵運動 内部対立が表面化 修正主義呼ばわり(16サ)/紅衛兵運動 内部対立目立つ 壁新聞で功争う 大学生騒ぎ、中高生沈黙(17夕読)
11月】北京の工場で“テロ” 紅衛兵を利用 工員80余人を投獄(2朝)/横行する赤い腕章 美人画に“破旧”の白ペンキ(2夕毎)/対立混乱つづく紅衛兵戦線 当分はジグザグ 根拠薄い党中央対立説(4サ)/兵士20人が死亡 北京でニセ紅衛兵と衝突(13毎)/私刑・暴力は厳罰 中共,紅衛兵に重要通告(20毎)/紅衛兵,労働者に介入 北京の乱闘事件 糾察隊の力弱まる?(23毎)/紅衛兵三十数人補わる 毛・林路線に批判的態度(25サ)

 「文化大革命は初期は言論戦だったのに後に暴力沙汰になった」とか,「紅衛兵が内部で暴力的に対立したのは67年以降だ」「日本ではジャーナリズムの礼賛報道のため悲惨な暴力的実態が知られていなかった」――いまだにこうした神話が語られている。これは中国研究者からネットの掲示板(2ちゃんねるなど)に至るまで共通している。
 文化大革命の「暴力」「愚行・悲惨」を当時は知らなかった,わからなかったと回顧してみせるのも“自由”かもしれない。が,リアルタイムで報じられていたし,知りえたのである。報道を責める前に,報道から何も読み取ることができなかったのはなぜか,また,あれほど報道されていたのに半世紀もたたぬうちに記憶が捏造されてしまうのはなぜか,とても興味深い。日本人の中国観の歴史的な特徴がそこに表れている。
 文化大革命は最初から暴力として始まったし,最初からそのように日本に伝えられていたのである。現に,斎藤龍鳳などは当時から暴力的( ● ● ● )文化大革命支持を公言していた。文化大革命を再評価しようとして初期は言論戦だったというなら,ためにする事実の歪曲である。文化大革命から暴力を取り除いて何がしかの理想を取り出そうとする試みは事実を直視する勇気を欠いているがゆえにとても脆いものである。また,映画『夜明けの国』撮影隊が訪中したときにたまたま文化大革命が起こり驚愕したという物語は,嘘でないとすれば認識不足としか言いようがないではないか。7月段階で“7億ゆるがす「文化革命」”と報じられているのだから。
 2006年7月NHK衛星第一でBSドキュメンタリー『文化大革命 40年目の証言 10万枚の写真に秘められた真実』 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 が放映された。文化大革命時の批判大会で黒龍江省省長が髪を刈られて40年経ったが,写真家の李振盛は当時の関係者をさがす過程でハルビン軍事工程学院(現・ハルビン工程大学)の卒業生たちの証言を得る。「……みんなかなり位が上の高級幹部の子供ですよ。彼らには後ろ盾がありましたからね。庶民では黒龍江省の省長に刃向かう勇気はありませんよ」
 反抗するのはエライ人たちの後ろ盾のある幹部子弟――としてしか文化大革命を始めることができなかったことは歴史的制約として致し方のないことかもしれない。しかし,造反派が彼らのニセの革命に抵抗して造反を始め,暴力は交錯する。社会の価値観を変えようとすれば,古い価値観を支える力,すなわち逃れられない大きな力に対して立ち向かう,やむにやまれぬ力の行使は必然である。
 文化大革命は「専門家」と「素人」,「権威者」と「ヒラ」という社会の基本関係を暴力的に変えようとしたのである。そこから暴力を排除して「理解」することはできない。

「専門家」「権威者」が幅をきかせる社会の基本関係は変わったのだろうか。
 1990・91年,訪中し長春で日本語教師をした北村小夜さんは,文化大革命後の中国人の「できない子は可愛いがりません」という意思表示にたびたび出あった。
同僚の中国人の日本語教師に話すと「親だって、できない子は可愛いがりませんよ」といわれた。そういえば自分史の中にも、「弱虫で成績もよくないので、父は私を可愛いがりませんでした。でもよい成績をとるようになったらかわりました」というのがあった。
『再び住んでみた中国』現代書館,1992年)
できない子はだいじにされず――序列主義,学校主義を大きく揺るがした文化大革命がいまだ,価値観を転換させるに至っていないことがわかる。
 私は学歴主義はだめで能力主義がいいなどと言おうとしているのではない。学歴主義もまた能力主義のひとつの表れにすぎない。文化大革命で遇羅克は“紅五類”=出身(血統)が革命性を決定づけるという血統主義を批判し,保身を図る実権派官僚の抵抗を引き起こした。陳伯達は出身も大切,政治的実践も大切と折衷主義でまとめようとしたが,問題は依然解決されていない。解放前の,皇帝―官―民―流民という社会のヒエラルキー(位階制)は,党総書記―党官僚―労働者・農民―失業者へと姿を変えただけで維持されている。
 19世紀,欧米列強の外圧を契機に東アジアに革命が起こった。日本では徳川幕府が明治維新によって倒された。中国(清朝)や朝鮮(李朝)の政治変革は以後半世紀近く成就しなかった。なぜか。外因は内因を通じて作用する。変化の基本は内因,つまり主体的条件にある。明治6年政変の研究で知られる毛利敏彦は比較史の立場からその主体的条件の違い,中朝にあって日本になかったものとしての「科挙」を挙げている(『明治維新の再発見』吉川弘文館,1993年,213〜225頁)。科挙をめぐる激烈な受験競争によって培養され強化された,知識層の中央志向と序列主義は,強大な文化的ヘゲモニーを握り,支配階級を支えたのである。
 20世紀の文化大革命は中国で10年にわたって「正規の」大学入試を止め,日本では東大入試を1年止め,成績評定権と単位認定権を支柱にした教育制度を揺るがした。しかし,現代の「科挙」とでもいうべき入試制度と受験競争は,いまだそれぞれの体制を支え,下層の“出来の悪い”人びとの前に立ちはだかっている。日本には中国の科挙のような,社会の価値観を支え,再生産する装置はなかった。それゆえ明治維新は成功した。しかし成功は逆に,何のため,だれのための革命だったのかを忘れさせた。維新を率いた草莽の下っ端たちは「元勲」となり,自らの支配を維持するために,帝国大学を頂点とする装置をつくりあげた。価値観は何ひとつ変わらなかった。維新の成功が革命からその精神を失わせ,本質を反動に変えてしまったのである。序列主義,出世主義はむしろ強化された。
 日本近代史上最大の反乱であった西郷隆盛の西南戦争が鎮圧されてしまって以降,“失敗は成功の母”という民衆の知恵は忘れ去られた。何もしない,それゆえ失敗もしないペーパードライバーどもが国家と社会を牛耳った。結果,仕事をしたがゆえに何らかの失敗をすると「世間」によって袋叩きにあわされるという習慣が根づいた。こうして敗者(劣等生)の歴史は隠され,60年代後半の日本と中国の叛史は忘れ去られたのである。
 教育革命という立場からふりかえってみれば,文化大革命は“出来の悪い子どもたちへの報いられることを期待することなき愛”という巨大な実験だったのではないか。「文化大革命はゆきすぎ」という意見もあるようだが,教育革命という原点にたち返って考えてみると,まだまだ「ゆきたらなかった」のである。こういうとあの暴力をもっと激しくする必要があるというのか,と思われるかもしれない。暴力の形態はあらかじめわかることはない。それは革命のなかで発見されるだろう。しかし,“出来の悪い”者を暴力的にふるい落とす学校と序列主義に対する「打不平」(=天に代わりて不義を討つこと)は必然である。
しやぼん玉は/どこいつた。
かるがるとはかない/ふれもあへずにこはれる/にぎやかなあの夢は/どこへいつた。
金子光晴「しやぼん玉の唄」



* 08.06.04 web版掲載。
* 08.06.08 出典をたどれるように可能なかぎり書誌などにリンク付けした。
* 20.04.05 リンク訂正。
(おわり)


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