「文革」と「靖国」について 

前田年昭氏の書評への応答



2006年3月

丸 川 哲 史
明治大学教員・台湾文学・東アジア文化論専攻

『週刊読書人』第2628号 2006年3月10日付掲載
著者の許諾を得て転載

 自著への果敢なる批評(本紙二月二四日付け)を展開していただいた前田年昭氏に感謝を評するとともに,その果敢さに応答させていただきたいと思います。それは,私自身が今日の日中関係に横たわる知的・実践的環境への危機感を深く同氏と共有するものと考えているからであり,また同氏から提起していただいた問題は「新書」という形式では十分深められず,またそのような外的制約を取り払ったとしても,私自身の中でも中々解決されていないものだったからです。
 第一点は,中国文化大革命が西洋「近代」への抵抗を目した一大実験であったことをまずは確認すべきではないか,という批評であったと解釈します。正直,私は文革観がいまだ定まっていないのです。それは端的に私の努力不足であるわけですが,さらに言い訳をさせてもらえば,文革を語ることの困難さがどのように引き起こされているのか,一定程度押さえる必要があるものと感じます。まず文革は,中国共産党自身がほとんど全否定に近い形で決着してしまった,またそのためにむしろ問うことが難しくなったという経緯があるようです。そこで感じられることは,文革(と呼ばれる期間)において,結果として多くの悲惨が発生したことは,やはり覆い隠せないことだと思います。ただ問題なのは,その悲惨と文革が担った理念はどのような関係にあるのか研究が必要であるということ。さらにまたその悲惨は,かなりの程度,文革それ自体というよりもそれと連動する別の問題から生じたとして,またそれをどのようにカバーするのか,ということも次なる課題となるように思われます。前田さんからの批評に戻りますが,その上で文革が担った理念やその動機の部分をどのように掬い取るのかという課題は,今後もつきつめなければならないものだと考えます。ただその時,文革が担った理念をどのように生き延びさせて行くのか,私たちは既にして向こう側の人間たちと共同の形において問題を立てなければならないところに来ているものと考えます。
 そして第二の論点。靖国賛成派の情緒は(日本の)現状への不満感から日常性を脱したいという反秩序的エネルギーの現れであり,単に靖国を「悪」の象徴とする言葉の議論では到底打ち勝てない,とするやや実践的な課題を意図した批評であったと思われます。前田さんの考え方そのものに賛意を表しますが,その賛意の前提を申し上げたいと思います。それは,前田さんが結論部で「ヨーロッパ近代化に抗するアジア的近代化(反近代)の苦闘があった」と述べられた「抵抗」とも関連が出て来ることです。竹内好が考えていたように,「抵抗」は常に二重の契機を帯びるということだと思います。靖国がかつての戦争動員の象徴装置として機能していたとは紛れもない事実であり,そのことが曖昧にされ国民統合の装置として生き延びていることに,やはり日本人の過去清算にかかわる主体性の希薄さを感じざるをえないということ,それへの闘争が必要です。そしてその上でこそ,過去の日本人が担った戦争の理念を今日どのように思想的に処理し直すか,というもう一つの課題が生じるものと思います。その際,前田さんが「民権から国権へ『堕落』した日本アジア主義を止揚し,欧米的『近代化』に抗した実験こそ中国の文革ではなかったか」と述べられたことが,私の中で迷いを生じさせます。今日このような思想的脈絡は,(中国も含んだ東アジアの中で)どのように説得的に展開し得るものか,と。そのためにはかなりハードな思想=言葉の上での課題(批評の基準を「東アジア」へと練り上げること)をもこなさなければならないものと感じる次第です。
 以上,貴重な論点をいただいた前田年昭氏と,さらに貴重な紙面を使わせていただいた『週刊読書人』に重ねて感謝申し上げます。

(おわり)


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前田年昭 MAEDA Toshiaki
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