繙蟠録 I & II
 

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繙 蟠 録 II 2023年1月

2023/01/30 続々「五四運動の地平」

中国の文化大革命における下放は,何を変え,何を変え得なかったのだろうか。
 1979-1980年の「アクスー暴動」は,上海から新疆ウイグル自治区に下放し生産建設兵団となった下放青年たちが,1976年の「四人組」逮捕後も帰ることを許されなかった上海への帰還と待遇改善とを求めたデモ,ハンガーストライキである。78年末に残留していたのは約2万9千人,国務院と地元政府は帰還を約束したが,他方で1万人以上が逮捕された(楊海英『「知識青年」の1968年』岩波書店,2018年,pp.165-174)。
 「自ら進んで内モンゴル自治区に赴いた者もいれば,政府の動員により,半ば強制的に駆り立てられた者もいた」(同書,p.94)。変質したソ連や中国で民族問題が噴出したのとは違って,文革と下放はここでは民族間の対立を生まなかったことに注目する必要がある。
 南京から下放しモンゴル人になった下放青年・王強(ワンチンドルジ)は「自分たちが,他人に尊敬される。他人から人間らしく扱われるということを私たちは南京からオルドスに来て初めて経験した」と言う(同書,p.181)。「「知識青年」という名に反して,かれらは牧畜に関しては完全に無知であり,遊牧民の知識を謙虚に学習して身に着けていった。決して遊牧民の生き方を否定しなかったので,モンゴル人は「知識青年」とだけは,良好な民族間関係を築き上げたのである」(同書,pp.189-190)。

 私自身の,全共闘運動と下放を方向づけた文のひとつ,呉小明「永遠に貧苦牧民のよき継承者になりたい」(『労農兵と結びつく道をあゆむ』外文出版社,1970年,pp.89-101)が,「学生服を蒙古服に着がえて……これは万里の長征の第一歩をふみ出したにすぎず,辺境にしっかりと根をおろすには,まだまだきびしい思想的鍛錬をへなければ」とむすんでいたことが印象的だった。
 一方,日本の全共闘運動。当時の闘う学友のうち下放仲間には,神戸で金属労働者になった者,三里塚援農に赴いた者がいた。いまも心の支えになっているのは,昨年9月7日に亡くなった歴史家,色川大吉さんの次の言葉である。

人民の戦いは政治的,経済的,軍事的(暴力的)敗北によっては,まだ真の敗北とはならない。
 人民の戦いの真の敗北とは,人民が戦ったこと自体に対して自負と正当性の信頼を失った時,すなわち,倫理的,思想的に敗北した時,真の決定的敗北となるのである。〔『自由民権の地下水』岩波書店,1990年,p.110〕

「勝利した」などという願望的妄想は,阿Q式精神勝利法でしかない。必要なことは,敗北の事実を直視し,しかし,決して挫けることなく孤高を保ち続けることである。 (M)

2023/01/29 続「五四運動の地平」

1月19日付で「東大安田講堂攻防戦54周年と「五四運動の地平」」を書いた。では,私はなぜ,下放しようと決心したのか。
 その主なきっかけは,東京地区解放大学に源流をもつDIC(destruction is construction,破壊こそ建設)という組織による「運動の停滞をどううちやぶるのか?」(DIC出版部,1971年4月28日)というB5判8ページのガリ版冊子に触発されたことだ。現物はすでに手元にないが,『現代史研究』No.6-7(1971年10月)に転載したものから,以下に概略を紹介する(文責は私)。

Ⅰ.1969年4・28闘争を機に登場した「安保-沖縄決戦路線」は「敗退した」。この事実を総括する大弁論を呼びかける。
Ⅱ.なぜ敗退したか。安保-沖縄の問題が「国家的問題」だからどの階層の人びとにとっても関心事であるはずであり,広く大衆がたちあがるはず,という妄想にもとづいて出された路線だった。ここには誰がどういう方向でという主体の問題が抜け落ちていた。全国学園闘争が直面した壁は何だったのか。「国家権力の暴力装置にたちうちできなかった」「主体が学生で労働者でなかったから」「個別学園闘争だったから」「国家権力打倒の展望がなかった,政治闘争の視点がなかった」などの主張は事実に合致しない。
Ⅲ.これら「学園闘争の限界」と言われたものはすべて学生の自己保身のかくれみのだった。「生活の安定を求めて万一に備え,かくなる上で「闘争」の勝利を夢想するがごとき二股主義,「私」の利益を中心におく思想と行動――これをカッコよく表現したのが「安保-沖縄決戦路線」であった」。
Ⅳ.学園闘争の本質は,「素人」の「専門家」に対する攻撃という「ブルジョ社会の基本原理に対する,日本資本主義史初めての挑戦」だった。
Ⅴ.専門家を打倒し,その再生産機構である公教育を解体せよ。
Ⅵ.(1)人民の遺産継承者は専門家ではなく素人とさげすまれてきた下層人民大衆であることを実践的に確認していくこと。過疎化にさらされる農村にわれわれの学校をつくり人民の遺産の集約継承発展をはかること。(2)大弁論の場を「東大構内」にもつこと。
 自己の生活を下層化せしめよ! 下層化せしめるということは,親・兄弟・妻子(夫子)になげかれるような生活に「身を落とす」ことである。そして屈辱の日々を絶えぬき,下層人民の怨念をわがものとせよ。
 まず生活の安定を確保して万一にそなえ,しかる後に「闘争」「運動」を夢想するがごとき二股主義を清算せよ!

この呼びかけは,理も情も当時の私に響き,私は翌1971年6月に学校を中途退学し,下放した。初めは京都の中央卸売市場での蔬菜部門の丁稚,次いで滋賀県朽木村での農作業と山林伐採の下刈り,暮れには大阪の釜ヶ崎にたどりつく。
 立場を変えよという呼びかけは正しかったと思う。私自身の生き方の選択もまちがってはいなかった。だが,今から振り返れば手段を目的化したところはなかっただろうか。貧乏しなければ革命できないという俗流唯物論は何よりも,人民の幸せのための革命が人民の不幸(貧乏)を前提にしなければ成り立たないという,転倒した根本的な誤りである。私が毛沢東の思想に惹かれた理由のひとつは,革命の主体,力を経済生活における貧困に求めるのではなく,日常における怒りと悔しさに求めて,具体的な社会分析から「階級」を発見していったところにある(「中国社会各階級の分析」1926年3月)。「下層人民の怨念をわがものと」するために農村へ入り,また肉体労働に就くというのは,あくまで納得のうえでの個々人の生き方のうえでの手段であり,組織的集団的なものではないはずだ。それぞれの生活と労働の場で「下層人民の怨念をわがものと」することも可能だったはずである。しかし,当時の私はそこまでは考えられず,何よりも,東大を頂点とする公教育秩序のなかで序列の上をめざして生きていくことに失望していた。「向こう側」の生き方に惹かれていた。 (M)

2023/01/25 管野スガの命日に

1911年のこの日,管野スガは処刑された。大逆事件(幸徳事件)では1月18日の死刑判決をうけて,1月24日に幸徳秋水,森近運平,宮下太吉,新村忠雄,古河力作,奥宮健之,大石誠之助,成石平四郎,松尾卯一太,新美卯一郎,内山愚童の11人が,1月25日に管野スガが処刑された(計12人)。ほかに特赦無期刑で獄死したのは,高木顕明,峯尾節堂,岡本穎一郎,三浦安太郎,佐々木道元の5人である。

 徳冨蘆花(1868-1927)は,当時,蘇峰を通じて首相桂太郎へ嘆願,さらに明治天皇宛嘆願書を『朝日新聞』に送り,また一高弁論部大会での講演依頼に応じて,この年2月1日,『謀叛論』の題で論じて学生たちに深い感銘を与えた(青空文庫で,『謀叛論(草稿)』が読める)。演説を聞いたひとり,井川恭の当日の日記には「幸徳君ハ死んではゐない。生きてゐるのである。武蔵野の片隅にひるねをむさぼる者をこゝに立たしめたではありませんか」「圧制はだめである。自由をうばふのハ生命をうばふのである」等,蘆花が草稿よりも踏み込んだ内容を語ったと分かる箇所が記されているという〔関口安義「恒藤恭と芥川龍之介 : 蘆花「謀叛論」を介在として」『大阪市立大学史紀要』第3号,2010年10月〕
 大逆事件について,研究者だけでなく活動家までが,烈士の思想を「性急」「粗雑」とし。計画を「稚拙」と書く(田中伸尚『大逆事件 死と生の群像』岩波書店,2010が,悪質な“リベラル”の典型)。
 私は,『アナキズム』第14号(2011年9月)に「“革命犯罪”としての大逆万歳!」と題して,田中のような簒奪者たちを批判し,次のように書いた。

 本気で自己と社会の変革を志して闘った烈士たちは二度殺される。一度目は国家権力によって。二度目は“左派・リベラル”の能書きによって。かくして“革命犯罪”としての大逆事件は,本気ではなかったものを犯罪にされてしまった冤罪事件だと言いくるめられ,無色無害なものへと書き換えられる。これを歴史修正主義と言わずして何と言うのか。
 (M)

2023/01/19 東大安田講堂攻防戦54周年と「五四運動の地平」

1月18-19日は,東大安田講堂攻防戦の54周年記念日である。54年前のこの日,安田講堂を占拠していた全共闘は,東大総長代行加藤の要請に応じて出動した国家権力・機動隊と果敢に闘った(逮捕者631人)。ML派は「一月激闘を五四運動の地平とせよ」と呼びかけた(ML同盟東大細胞委員会,『赤光』58号)。
 五四運動とは,中国で1919年に始まった反日・反段祺瑞の学生運動,大衆運動。パリ講和会議で,中国・山東におけるドイツ利権の日本への譲渡が認められたことを契機に,北京の学生が反対デモに決起,運動は学生の罷課,労働者の罷工,資本家の罷市を伴って全国に波及し,高揚した。北京政府は親日3官僚をクビにし,ヴェルサイユ条約調印を拒否せざるをえなくなった。

 五四運動(1919年)からちょうど半世紀後に闘われた日本の安田講堂攻防戦(1969年)からまた半世紀余がたったが,「一月激闘」は「五四運動の地平」となっただろうか。否,ならなかった。学園闘争として日常性への闘いを突き詰めていくことは「生産点主義」だとして斥けられ,「安保」「沖縄」などの「大きい」政治課題闘争へ流し込まれた結果,自己変革と一体のものとして社会変革を闘いつづける方向は少数派となった。五四運動のもりあがりが弾圧された後,運動がどのように継承されてゆき,どのような実践のなかで人びとが新しい武器を見いだしていったかを,嶋本信子は「五・四運動の継承形態」〔『歴史学研究』1969年12月号〕に書いている。湖南では五四運動の第三段階の闘いである駆張(張敬堯)運動が展開されたが,嶋本は次のように指摘している。

 確かに駆張闘争は,当時の反帝反封建闘争の命題からみれば,大したものではないかもしれない。しかし,張敬堯を湖南から追い出すという,たったそれだけのことが,いかに人民の犠牲と努力の上になされたかを考えるならば,そして,各地の反軍閥闘争が,結局は反帝反封建闘争を具体的に体現するものであったことを考えれば全体の闘争と決して無関係ではない。毛沢東は新民学会会員として,この運動に積極的に参加したが,北京の毛の友人は「目前の小さい問題で小さい事」にすぎない駆張闘争ではなく,もっと根本的改造をやるべきだと言ったという。それに対して,毛は,根本改造は必ずやらなければならないが,この駆張運動も根本改造を達成するためには必ずやらなければならない仕事だと述べたという。〔下線は引用者,同誌 p.33〕

私は「一月激闘」当時は高校生解放戦線(HFL=ML派の高校生組織)に属していたが,1970年6月に「6月決戦」のために東京へという方針に従わず,在学していた高校で3日間のストライキ権を確立,「小さい事」を闘い翌1971年に中途退学して下放した。 (M)

2023/01/15 ブルジョア独裁のあからさまな専横ぶり

「日米安保条約,宇宙も適用 米が防衛義務 沖縄海兵隊に離島即応部隊 2プラス2で表明へ」(2023.1.12,朝日新聞デジタル)という。日米安保条約は,文書による国家間の合意である。権力はブルジョア独裁の本質を覆い隠すために議会での討議と採決という形式をとる。日米安保条約 第5条は,同 第6条と併せて条約の中心であり,適用範囲の「極東」はどこからどこまでなのか,議論され,1960年2月の政府統一見解である「フィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域であって,韓国及び中華民国の支配下にある地域もこれに含まれている」(外務省ウェブ)が基本だった。そのうえで,「北方領土・竹島は適用外」とか「尖閣諸島は含まれる」とかの論議がある。

 そもそも文書による国家間の合意には,1)国際法に反しないかぎりという前提があり,2)当該国の憲法など基本法と手続き,という前提があったはずだ。なぜ,1)領有の禁止を原則とする国際宇宙法のもとで,2国間軍事条約である日米安保の適用対象として宇宙に言及できるのか,2)日本で,国会の議論すらやらずに,2+2や首脳会談で,条約の適用対象の拡大変更がなされうるのか。このことについて,ジャーナリズムも何ひとつ批判しえていないのはなぜか。在野の批判精神はどこへ行ったのか。

 2023.1.15付『東京新聞』1面トップ見出しは「日米軍事一体化 極まる」である。辺野古から馬毛島,福島汚染水の海洋放出まで,目に余るブルジョア独裁の専横は許せない。 (M)

2023/01/12 組版専業者としての写植業者の「敗北」

1990年代末,写植(電算写植も含む)は,全国的に壊滅した。→繙蟠録2010.05.01付
 これは敗北である。写植がDTPに変わったことをもって敗北というのではない。植字/組版専業者として,その多くが廃業し,それまで培ってきた植字/組版のノウハウが引き継がれなかったことを,わが責任として敗北と捉えるのだ。なぜ,敗北したのか。敗因は真正面から総括する必要がある。それは,自分の仕事も含めて「力」を失っている組版の現状を憂えるからだ。というより,こんな状況をつくるために自分たちはやってきたのかと悔しい気持ちをおさえられない。
 北海道写真植字協同組合は,1995年3月に『報告書 写植のデジタル化と写植専業者の今後の生きる道(平成6年度活路開拓ビジョン調査事業)』を出し,その結果を踏まえて機関誌『moga(モガ)』11号(1995.6.30)で「私達だけは絶対生き延びます!」という覆面座談会を巻頭5ページにわたって掲載している。そのなかに「マックが主流になるかWinのPSが取って変わるか,やはりプロの仕事は今の電算スタイルの物が主流のまま行くか,あるいは新しくとてつもない物が出てくるのか誰にも判らないでしょう。」という発言があった。激動のさなかには,先を見通すことはたいへん難しい。
 コストで負けたという意見があるが,これは違う。当時,北海道写植組合の『moga(モガ)』にも私は計数を示して反論を書いた。ページ物は電算写植のほうが事実として安かったのである。文字と画像の統合処理,カラー化でDTPに流れたという意見がある。これには一理ある。写研がやろうとしていた統合処理は億を超えるとんでもないシステムで論外だったからだ。

 だが,ここでは私は,組版専業者の“内因”,つまり文字組版の内容自体についての反省と総括を試みたいのである。結論を先取りしていえば,エディタースクール式の,組版規則の形骸化,ステレオタイプ化に原因のひとつがあったのではなかったか。
 書籍組版について一例を挙げれば,基本版面の配置位置についても,天地中央・左右中央に置くだけで,深く考えることをしなかったのではなかったか。もちろん,余白(天地ノド小口)から決めるのではなく,基本文字サイズと1行の字数,1ページの行数からなる版面から組版設計をする原則はいまも正しい。だがしかし,天に風を通すか,地に風を通すかではまったく版面の様相は違ってくる。電算写植SAPCOLでは版面の位置を[指][1][,][外枠左右幅][-][外枠天地幅][,][版面左右幅][-][版面天地幅][,][組方向][-][段数][-][段行長][,](以下ベース組み体裁[符][復][1]……)と指定,版面は必ず外枠の中心,つまり版面から外枠までの距離は,左右,天地それぞれ均等となり,版面の位置を中心から移動させることはできなかった(もちろん,この外枠内に別途,判=頁サイズを片寄せて設定するという“裏技”でこの縛りから逃れることはできた)。
 これは一例にすぎないが,画像との統合処理以前の本文組版自体について,時代と社会の要求にこたえるものになっておらず,遅れをとったのではなかったか。SAPCOLは,版下に印画紙を貼り込む棒組データの出力までは先進を走っていたが,ページ組み処理への飛躍において立ち遅れた――これが技術面からみた敗因についての私の仮説である。

 もちろん,技術面だけでなく,協業の力についての無自覚がいっそう大きい問題としてあった。工場での活版仕事は,個々人の手動写植業者へバラバラにされたが,いったんは電算写植によって「工場へ戻ってきた」。だがしかし,リクルートが持ち込んだフリーター神話に目がくらまされて,協業の力を強めるのでなく,個々バラバラの状態を「自由」と勘違いさせられてしまい,その後の無政府的な解体にいたったことが大きい。
 デザイナーの人たちは組版は素人であったが,時代と社会の気分をとらえ,新しい挑戦にいどんでいった。これが,専業者でなく,デザイナーが仕事を取っていった原因だったのであろう。 (つづく,M)

2023/01/06 「一分為二」と「合二而一」との論争再考

「一分為二(一を分けて二となす)」と「合二而一(二つが合して一つになる)」との論争は,中国で陳浚「一が分かれて二となる――事物本来の弁証法――『矛盾論』を学んで得たもの」(『人民日報』1964年4月8日)という論文を皮切りに楊献珍批判として論争が繰り広げられた〔竹内実編『中国近現代論争年表 京都大学人文科学研究所研究報告』同朋社出版,1992〕。楊献珍(1896-1992)は「矛盾の基本的性質は統一性であり,二つの相反するものを結合して一つの新しいものとする」と主張。これは毛沢東(1893-1976)の,矛盾においては対立,闘争が絶対的なものだという考えに対抗して出されたものだった。論争は文革前夜の当時,「一分為二」派が優勢だったのだが,自分の言ったことをなかったことにしてしまう日本の“知識人”と違って,中国の人たちの息の長さには驚かされる。楊献珍の秘書だった蕭島泉(1929-)は,2006年の楊献珍生誕110周年を記念して,2007年に『共和国三次哲学大論戦』を香港文匯出版社から出して,論争を蒸し返した。

 弁証法の基本を「対立物の闘争」だとする毛沢東の考えは,エンゲルスによる「量から質への転化,またその逆の転化の法則,対立物の相互浸透の法則」を批判的に発展させたものである。量から質への転化とは量と質との対立と闘争と捉えなおすことができる。対立物の統一,均衡は一時的,相対的で,絶対的なのは対立物の闘争である。立憲民主党の泉健太や連合の芳野友子がことあるごとに均衡,協調を説くのは,現実社会の対立と闘争が見えない/見ようとしない/覆い隠す階級協調主義者だからだ。対立と闘争は,現実社会に存在するではないか。分析とは世界を分けることによって,対立し闘争している世界を認識することである。分析がわかれば弁証法,すなわち対立物の闘争がわかったのである。 (M)

2023/01/04 映画『パブリック 図書館の奇跡(原題 the Public)』

標記映画を強く薦める。いま,Gyao! で無料公開中(1月8日まで)である。2018アメリカ映画(日本公開は2020)。製作・監督・脚本・主演はエミリオ・エステベス(Emilio Estevez),公式サイト 日本語公式サイト 英語
 とにかく見てほしい。ホームレスによる極寒の一夜の図書館占拠という「非日常」を描くことで図書館の「日常」とそこで民主主義のために頑張っている人たちがリアルに描かれた秀作。そらんじられるスタインベック『怒りの葡萄』の言葉が,君の言葉であり私の言葉,みんなの言葉だという場面―――これが文学,言葉の力だと実感させられる。職分のちがう図書館長から同僚,警備員までのそれぞれが,民主主義のさいごの砦としての図書館を守るために体を張っており,その点で繋がり連帯している。憲法が生きており,本の保存と公開という原則が生きている。資本主義と帝国主義の頭目としてのアメリカは唾棄すべき世界最悪の存在だが,公文書や図書館のことを考えるとき,日本社会からみれば一目も二目も置くべき民主主義の伝統が確かにここにはある。日本の権力と政府は,中曽根―小泉政権以降とくに,国鉄から郵便局までの公共(public)の場を民有化という名で資本に切り売りし,福島原発事故を口実に電力からさらに水道までを民有化し,図書館は指定管理制度で無茶苦茶にされ,戦後の遺産である公民館文化は死滅させられた。ズバリ核心をついた映画原題に敬意を表する。 (M)


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