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2020/05/29 競争原理批判〈号外〉――書評・中嶋哲彦『国家と教育』

書評を書きました。掲載紙は『週刊読書人』3341号(2020年5月29日付)です。

前田年昭「《教育を受ける権利》宣言の書
利潤と競争主義への問いかけから新自由主義批判へ
――書評・中嶋哲彦『国家と教育』青土社刊」
https://dokushojin.com/article.html?i=7059

よろしくお願いします。 (M)

2020/05/26 競争原理批判(17)――森崎湊の『遺書』

森崎湊は、1945年8月16日、日本軍国主義の敗戦の翌日、三重海軍航空基地において単身割腹自殺した。海軍予備学生出身海軍少尉候補生特攻要員、享年20。16歳から20歳にいたる日誌の抄録が『遺書』(図書出版社、1971年7月)として遺されている。彼は、映画『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ』監督の森崎東の実兄である。

 まえがきで、森崎東は、「今、私は森崎湊の死を、世上かまびすしい三島由紀夫の死との相似点においてではなく、その相違点においてとらえざるをえない。三島由紀夫は森田必勝という青年の介錯と殉死によって、自らの死を美的に完成し、森崎湊は自己の班員である予科練の少年兵たちに、きびしく軽挙の死を禁じた。森崎湊の死は、敗れた祖国に殉ずる従容たる武人の死というより、むしろとりつくろった美しい言葉で日本中の青春を圧殺しつづけた者たちへの憤激の死ではなかったのか?」と問いかけている。

 森崎湊は、1942年(18歳)から「満洲」の建国大学で学ぶ。「日本人と支那人が戦争をしなければならないということは悲しむべきことである。これは、米英帝国主義者の、アジア人同士の血を流させるという政策に日支双方が乗ぜられているのではないだろうか。大東亜戦争は、長い間侵略的帝国主義政策をとってきた米英両国のアジアにおける政治経済支配体制を打開し、広域共栄主義をアジア全域に実現するものでなければならない。しかし、だからといって、大東亜戦争は、決して西洋人もしくは白色人種を排撃する種族戦争ではない。憎悪報復をなそうと思ってはならない。この戦争は道徳戦争であらねばならない。」〔pp.63-64〕、「重慶により、延安によって苦闘抗戦する支那人たちも、思えば敬服にたると認めざるをえない。彼らからいわしむれば、崇高熱烈な志士、闘士であろう。……ソ連はソ連で、彼らなりの八紘一宇を実現すべく、営々の努力を重ねつつ、前進、前進、また前進してくる。ソ連流の新秩序――それはそれで立派なものである。英米帝国主義者流の秩序に比すれば、かなり高貴なものであるだろう。それにしても、ソ連の民族政策に関するかぎり、われら大いに学ぶべきものなしとしない。……中国の人々に大らかな信頼を抱いてもらうためには、日本自身がまず正しくあらねばならぬ。……尊敬する憂国の士は一意救国のため反満抗日を叫んで血を流している。今まで日本がどんなことを中国に対しおこなってきたかを彼らはよく知っている。」〔pp.70-71〕。

 戦前の、しかも「満洲」傀儡政権下、戦後の右翼、左翼と比べても(!)よほど国際主義的なこのようなものの見方、考え方を学び得た建国大学では、いったいどのような教育が行われていたのか。その検討は後に譲るとして、森崎湊は、当時の企業の上層部、「課長以上」の「大学出」に対して憤りをもって批判を記している。

 何としても、明治以来の「教育」の弊害だ。肩書教育、出世教育、見てくれ教育、丸暗記教育、押しつけ教育、官僚教育、腕力教育、追従教育、すべてこれ非日本的な便宜主義的なおそるべき教条教育の毒弊だ。帝国大学万能主義……帝大のなしきたった利害得失、いずれもある。日本を現在の水準まで高めきった功徳は認められるべきも、将来にわたってまで新日本に学閥をホシイママにする権利は毛頭ない。教育の革新、学閥打破――新日本建設、昭和維新、日本革命の第一歩である。〔p.143〕

 森崎湊の自決から75年経った今、私たちは彼の憤激にどう応えうるか。〔つづく〕 (M)

2020/05/22 競争原理批判(16)――国立大学法人化を総括する

国立大学における教育・研究活動の必要経費である国立大運営費交付金は、国立大学法人化以降、年々減少が続いている。この法人化の方向性を主導したのが、当時の文部大臣・有馬朗人氏であり、国立大学協会蓮實重彦氏であった。有馬氏はこのほど、日経ビジネス(中山玲子記者)のインタビューで「「国立大学法人化は失敗だった」 有馬朗人元東大総長・文相の悔恨」〔2020/05/21〕と語っているが、これは看過できない。
 有馬氏は、法人化をどう総括しているのか。

……検討委員会をつくって議論した結果、法人化したほうが良い面があるという結論が出ました。それで私は法人化を決心したんです。……ところが、実際、2004年に国立大学が法人化されると、その後、毎年1%ずつ運営費交付金が減らされていきました。
こうしたことが約10年続きました。この結果、運営費交付金には人件費が入っているので、若手研究者が雇えなくなったんです。全国の大学で正規雇用の若手研究者がガタっと減り、理工系で博士課程に進む数も大きく減りました。運営費交付金が毎年減らされていくことを、私は読み切ることができませんでした。……法人化するだけでなく、運営費交付金を減らさないことを法律に加えてほしいと言うと、法律にはそんなことは書けませんという答えが返ってきました。それならばと、法人化を定めた法律の付帯決議としてつけることになりましたが、結果的にその内容は無視されてしまった。大失敗でした。

 歴史を振り返っておきたい。2003年7月、国立大学法人法等関係6法が成立(10月施行)、2004年4月、国立大学法人に移行。基本的な事実経過は、国立大学の法人化の経緯(文部科学省)に示されたとおりである。カギとなったのは、1999年4月の閣議決定を皮切りに、2000年7月「国立大学関係者を含む有識者で構成された調査検討会議が検討開始」から2002年3月「調査検討会議が「新しい『国立大学法人』像について」(最終報告)をとりまとめ」に至る議論である。この間、文部大臣(2001.1から文科大臣)は、有馬朗人(1998.7~)、中曽根弘文(1999.10~)、大島理森(2000.7~)、町村信孝(2000.12~)、遠山敦子(2001.4~)、河村建夫(2003.9~2004.9)、国立大学協会会長は、蓮實重彦(1998.12~)、長尾真(2001.4~)、佐々木毅(2003.6~2004.3)であり、歴史的にみて政治的道義的に責を負わねばならぬのは主に有馬、蓮實の両氏であろう。
 批判は、当時から、あった。代表的な批判のひとつ、日本科学者会議は、2000年3月7日、「日本の高等教育を破壊する国立大学法人法案の撤回を求める 国立大学法人法案に対する見解」で、「示されている国立大学法人法案は、日本社会から自由と自治を根絶やしにし、教育と研究を国家戦略従属と競争原理に投げ込もうとするものである。しかも、大学からの抵抗を避けるためにほとんど秘密裏に構想・設計されたもので、短期間での国会審議で強行に実現させようとする政治的スケジュールは、日本の学問・研究を行政が支配する暴挙に他ならない。」と法案の即時撤回を求め、5月19日、「国立大学の独立行政法人化に対する第二次見解」では「2001年から施行される中央省庁再編――政策評価の強化、人事の能力主義の徹底、独立行政法人化、内閣機能の強化、文部科学省の設置、内閣直属の経済財政諮問会議や総合科学技術会議等――の体制のもとで、国策としての学術・科学技術・高等教育政策が大学に集中するならば、大学はその下請機関となり、真に国民や世界、未来に開かれた社会的役割・責任を果たすことはますます困難となる。/総じて、政府の大学政策は、「科学技術創造立国」「大競争時代の到来」を口実に産業界への大学の従属化、「大学の企業化」を推進し、大学を国民から遠ざけ、競争・管理を徹底し、その共同・自治を破壊するものであり、大学本来の可能性を閉ざすものといわざるをえない。」と批判、「われわれは、このような観点・展望のもとに、国立大学の独立行政法人化に強く反対することをあらためて表明する。」と訴えた〔太字は引用者〕。
 2000年2月11日~18日、『東京新聞』は連載記事「『国立大学』が消える日 迫る独立行政法人化」で問題点を指摘した。とくに、流れ読めなかった国大協」2月13日付、分裂の危機 国大協"沈黙"2月17日付は、国大協の批判精神の欠如ぶりを示してあまりある。

 このほど、ブログ「浜名史学」2020/05/21付は次のように批判したが、まったくそのとおりである。

……有馬はマイナス面を指摘しているが、法人化を批判する意見のなかに、国立大学を法人化することによって政府は高等教育予算を減らそうとしている、というものがあったはずである。有馬は、今ごろになってこれを批判している。
 しかし有馬は法人化することによってプラス面が生じたという。ひとつは、「大学の執行部が以前よりしっかりして、総長や学長が「これをやる」と決めると教授会もサポートするようになりました。」というのだが、しかし実際は総長(学長)を中心とした専制的な体制ができ、教授会は独立した機関ではなくなり、戦前からの「教授会の自治」は剥奪され……文科省の上意下達的な支配が強まったのである。
 有馬がプラスとしてあげているのは、産学協同の定着化である。……文科省からの運営費交付金が減っている中、企業からのカネに頼るようになり、その結果基礎科学よりもカネに直結するような産業界からの要請にもとづく研究が増えていったのである。はたしてそれはよいことなのかどうか。私は最終的にはマイナスになると思う。
 日本政府の施策は、いつも近視眼的で、目の前の成果だけに着目し、将来を展望しての長期的な研究には関心がない。大学政策も、それに従っている。
 有馬が運営費交付金の減少を理由に「法人化は失敗だった」というが、それは法人化する前からわかっていたことだ。批判的精神をもたない者が、官僚の口車にのって官僚の意図通りのことを行ったのである。批判的精神の欠如は、「失敗」を生むのである。

 哲学なき知識人、精神なき専門人が、いかに権力の政治に対して無力か。それゆえ、彼らは人民の敵以外の何ものでもないこと――歴史は冷厳なまでに審判を下している。有馬氏の「失敗だった」との見解表明に対して「どの口が言う」との批判もあろう。しかし、無総括のまま口をつぐむ蓮實氏より、ましかも知れぬ。

関連繙蟠録 「科挙と科研費、断絶と連続」2018.5.20付 (M)

2020/05/20 競争原理批判(15)――『資本論』の思想を歪曲した中山元訳を批判する

5月19日付『朝日新聞』新聞と読者のあいだで欄で、高村薫さんが「公教育の本義 問う姿勢見せて」として、プログラミング教育、ICT教育や9月入学をめぐる議論に対して「経済原理ではない、教育の本義を考える記事が必要な時期ではないでしょうか。」と批判的に問いかけているが、私は同感である。

 その意味で、連載・競争原理批判からちょっと脱線するが、何度か引用してきた公教育の始まりをめぐるマルクス『資本論』の邦訳問題に触れておきたい。(6)(12)(14)で引いた、第1部第13章第9節「工場立法。イギリスにおけるその立法化」の翻訳を比べてみよう。

原書頁中山元訳
日経BP社、2012
長谷部文雄訳
河出書房新社、1974
p.509ロバート・オーウェンの書物を読めば詳しく分かるように、未来の教育の萌芽は工場システムから誕生したのである。未来の教育では、ある一定の年齢になったすべての子供たちに、生産的な労働と授業と体育の両方を結びつけて課すべきである。しかもたんに社会的な生産の増大のための方法としてではなく、完全に発達した人間を作りだすための唯一の方法として、課すべきなのである。詳しいことはロバート・オーウェンを研究すれば分かることだが、将来の教育――社会的生産を増大するための一方法としてのみならず、全面的に発達した人間を生産するための唯一の方法として、特定の年齢以上のすべての児童のために生産的労働を知育および体育と結びつけるであろうところの、将来の教育――の萌芽は、工場制度から発生したのである。
pp.513-514工場立法は、資本家からやっとのことで引きだした最初の譲歩として、工場労働と初等教育を結びつけただけである。労働者階級が政治権力を奪いとるのは避けがたいことであるから、テクノロジーに関する授業は、理論的にも実践的にも、労働者のための学校において重要な地位を確保するようになることに、疑問の余地はない。〔太字は元の訳文では傍点〕資本からやっと奪った最初の譲歩としての工場立法は、初等教育を工場的労働と結びつけるにすぎぬとすれば、労働者階級による不可避的な政権獲得によって、技術学的な――理論的および実践的な――教育が労働者学校において然るべき席を獲得するであろうということは、うたがう余地がない。
p.514 注308どんな仕事でもこなせることを経験したので、もはや自分が軟体動物などではなく、人間なのだと感じている」どんな労働でもできるというこうした経験により、私は、自分が軟体動物でないどころか人間だということを感じています。

ごらんのとおり、教育を労働と結びつけるという、公教育についてのマルクスの思想の核心が中山元訳では「生産的な労働と授業と体育の両方を結びつけて」(中山訳)って……! 莫迦も休み休み言え、臍が茶を沸かすとはこのことではないか。これに対して、長谷部訳の「生産的労働を知育および体育と結びつける」は明解である。
 中山は訳者あとがきで、フランス語版から訳したことの優位を述べ、「傍点は理解しやすいように訳者がつけた」と書くが、まじめに読んだのだろうか。読んでも理解できなかったとしか思えぬ。「今回の翻訳が可能になったのも…先行の訳業の土台があったからこそ」「それでもこれまでの翻訳にはどうしても納得のできないものが残っていた」などと書いて悦に入っているが、拠って立つ立場に誤りがあると紹介屋にすらなれないことを証明している。さらに付言すれば、アマゾンのブックレビューでこの駄訳を「達意の文」「どれか一つ推薦すべき和訳を挙げよと言われれば、私はこの中山訳を挙げます」と書いている提灯持ちがいる。ともに徹底的に鼻つまみにする必要がある。〔つづく〕 (M)

2020/05/17 競争原理批判(14)――神戸における夜学校の歴史、一専多能の思想

学校が整えられていった初期には、貧困のために小学校に行けない児童が多かった。経済的不況に対処して地方の教育費の節減を図るため、1885(明治18)年の教育令の再改正では「土地ノ情況ニ依り午前若クハ午後ノ半日又ハ夜間二授業スルコトヲ得ヘシ」と規定され、夜間授業が認められた。神戸における歩みを、神戸学院大学・水本浩典ゼミの丁井美紀は「神戸市の夜学校に関する一考察 戦前の夜間教育の役割」(2019)で詳細に追っている。それによると1880年代後半、民間有志者によって新田夜学会、西野夜学会、宇治野夜学会、葺合夜学会、大悲夜学会が開設され、昼間は労働のために就学できない児童にとって尋常小学校に代わる役割を果たしたという。兵庫県は当時、大都市のなかでも就学率が低く、夜学会は私立夜学校(22校)へと再編され、1913(大正2)年には神戸市に完全に移管され、17の市立夜学校となった。被差別部落地域に創設された夜学校の紆余曲折の歴史から「被差別部落地域の児童の収容」という役割が明らかになる。また夜学校の「神戸市内で勃興し増加していく工場などの就労を支える役割」もまた明確だった。児童労働は、マッチは神戸を最大産地とするが、たとえば東川崎のマッチ工場では全体の8割が幼年労働者だった。

 京都の町衆が明治政府に先んじて開校した番組小学校(64校)や、大阪や福岡の被差別部落の人びとが、自らの力で建てた学校は、教育を労働と結びつけたものだった。生まれたばかりのプロレタリアートの力がまだ弱かった時にすでに、マルクスは「資本からやっと奪った最初の譲歩としての工場立法は、初等教育を工場的労働と結びつけるにすぎぬとすれば、労働者階級による不可避的な政権獲得によって、技術学的な――理論的および実践的な――教育が労働者学校において然るべき席を獲得するであろうということは、うたがう余地がない。」〔『資本論』〕と指摘していたが、歴史は確実に進む。マルクスは『資本論』でA・コルボンの『職業教育について』からフランスの一労働者の次のような証言を引いている。

私がカリフォルニアでやったようなあらゆる仕事が私にできようとは、私のかつて思わなかったところでした。私は印刷業以外には何の役にもたたぬものと確信していました。……シャツを代えるよりも容易に手仕事を代えるこの冒険者たちの世界の只中にひとたびはいると、どうでしょう! 私も人々と同じことをやったのです。鉱山労働の仕事はボロくないことがわかったので、私はそれをやめて町にゆき、そこでつぎつぎに植字工、屋根師、鉛工などになりました。どんな労働でもできるというこうした経験により、私は、自分が軟体動物でないどころか人間だということを感じています。〔長谷部文雄訳、原書p.514、強調は引用者〕

 識字運動は、福岡・行橋の部落解放運動から始まり、日雇労働者の寄せ場や夜間中学廃止反対運動のなかへも広がっていく。識字運動としての中国革命は、やがてプロレタリア文化大革命のなかで、生きる武器としての思想を鍛えていった。本源的権利としての印刷する権利は壁新聞の権利へと発展し、労働と結びついた教育は《一専多能》(一つの専門に通じ、併せてどんな仕事もできること)という思想に結実していった。〔つづく〕 (M)

2020/05/08 競争原理批判(13)――京都の番組小学校、上野英信の考え

明治維新ではじまった近代日本の公教育は、資本と権力に忠実な兵隊と官僚を育てるため、試験制度を軸にした差別選別を目的とした。しかし他方で、京都の町衆は、明治政府に先んじて「番組小学校」をつくったのである。遺された歴史資料(教科書・文献資料・教材・教具等)を収集・保存、展示する京都市学校歴史博物館(600-8044 京都市下京区御幸町通仏光寺下る橘町437、TEL 075-344-1305 / FAX 075-344-1327)は、次のように歴史を伝える。

幕末の動乱による戦禍、明治維新による事実上の東京遷都により、京都は衰退の危機にありました。しかし、町衆をはじめとする明治の先人達は、厳しい状況下にもかかわらず、京都の復興のため、都市基盤の整備や勧業政策など様々な近代化政策を実施しましたが、中でもとりわけ力を入れたのが“教育”でした。我々の先人達は、「まちづくりは人づくりから」の信念により、明治5(1872)年の学制公布に先立ち、明治2年に日本で最初の学区制小学校である64校もの「番組小学校」を開校させました。

 【関連】京都教育年表 1868-1945〔→pdf

 京都の町衆を中心とした人々の先見性と情熱は、人づくりの基盤としての教育に注ぎ込まれた。拵えた京都独自の教科書は、1887年からの文部省検定教科書、1904年からの文部省国定教科書に先んじて使われた。その教育とは、労働を知る場であり、労働と結びついた教育だった。たとえば、西欧化による近代化を急ぐ文部省の指導で、京都でも鉛筆(実際は石盤に石筆)を使う洋画の画法が教えられたが、日本画を基礎とした産業の町京都では、毛筆による図画教授の研究が取り組まれた。ものづくりを基盤とした「実学」の歴史はいまも京都の街に受け継がれている。
 下放した中小炭鉱で坑夫たちの多くが文盲であり、それが資本による意識的な文盲政策に起因することをしった文学者、上野英信(1923-87)は、「まず識字運動からはじめなければならない」といったが、けっして公教育による「解決」を求めたのではない。晩年、次のように語っている。

僕は学校教育制度の占める比重や幅が広がったこと自体がいやなのね。学校教育なんて人間形成のほんの一%であっていいんじゃないの。立派な教育制度で、良い結果を生んでいようとも、人間形成の中でそれが五〇%を超すほど大きくなるのは良くない、と考えています。学校という温室の中ではなく、親兄弟含め地域社会の中で、みんなが教えたり教えられたりする、それに尽きると思いますね。〔略〕親子関係は結局、労働や生活を通して成立するものでしょう。そういう意味でも、理想を言えば学校が労働の場、というか労働を知る場になってほしいですよ。(「学校を労働知る場に(教育を追う 「改革」私の意見)」『毎日新聞』1984.9.14)

〔つづく〕 (M)

2020/05/07 競争原理批判(12)――公教育成立の歴史的経緯と根拠

連載で崩壊する公教育の現状を述べたことに対して、ある方から「均一な“国民”教育の目的は徴兵制で総力戦のための軍人を育てることが目的では」との質問があった。私は「そうですね、だから資本と国家からすれば教育は義務なのです。しかし、歴史的にみれば、公教育は近代のひとつの到達点であり、人民にとっては権利なのです」と答えた。
 近代に入って、公教育が成立した経緯と根拠について、しっかりと述べておきたい。
 (4)で次のように書いた。

機械の時代が、それまでの時代に必要でなかった公教育を必要とした。ここに起源がある。それまでは、人間の生産的生活と人生は重なりあっていた。農村での農事のあれこれと共同体的生活は一体であり、都市での親方のもとでの徒弟仕事もまた人生と一体であった。子供の成長、学習は、大人たちの生産的生活と一体であり、学びはそのなかにあったのである。
 しかし、工場の労働には、人生との一致はない。そこから、失われた人生の指南を与える役割、および工場の機械のリズムのなかで働くための事前の訓練の必要から公教育という制度が必要になった。学校は、社会が必要とする児童の訓育のための、専門家(教師)の組織として生まれたのである。

 この経緯を、マルクスは『資本論』で次のように書いている。〔以下、長谷部文雄訳、河出書房新社版による〕

近代的工業の技術的基礎は革命的である、――すべての従来の生産様式の技術的基礎は本質的に保守的であったが。〔原書p.512〕
大工業の本性は、労働の転変・機能の流動・労働者の全面的可動性・を条件づける。〔中略〕大工業は自己の破局そのものによって、つぎのこと、すなわち、労働の転変したがって労働者のできるかぎりの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常的実現に諸関係を適合させることを死活問題たらしめる。〔中略〕すなわち、ある社会的細目機能の単なる担い手たる部分個人に置換えるに、その者にとっては様々な社会的諸機能があい交代する活動様式であるような全体的に発達した個人をもってすることを、死活問題たらしめる。大工業の基礎上で自然発生的に発達したこの変革過程の一契機は、工芸学校および農学校であり、もう一つの契機は、労働者の子供が技術および様々な生産用具の実際的取扱いにかんする若干の授業を受ける「職業学校」である。資本からやっと奪った最初の譲歩としての工場立法は、初等教育を工場的労働と結びつけるにすぎぬとすれば、労働者階級による不可避的な政権獲得によって、技術学的な――理論的および実践的な――教育が労働者学校において然るべき席を獲得するであろうということは、うたがう余地がない。〔原書pp.513-514〕

 こうして近代は公教育の根拠を据えた。日本資本主義の黎明期における、京都の街の自治が生んだ番組小学校や神戸の夜学会の歴史をたどってみたい。〔つづく〕 (M)

2020/04/20 競争原理批判(11)

鈴木大裕さんは、前掲『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店、2019年)で、アメリカの凄まじい教育格差、公教育の崩壊の特徴的な事実を挙げて、後を追うかのごとき日本の公教育崩壊に警鐘を鳴らし、「それらはすべて、社会を取り巻く潮流の教育的な症状に過ぎず、真の問題は新自由主義という潮流そのものにあると思っている」〔p.130〕と指摘している。
 まさに、競争原理批判は、個別の××問題(シングル・イシュー!)反対の運動などではない。中嶋哲彦さんは『国家と教育 愛と怒りの人格形成』(青土社、2020年3月)で、「教育制度の競争主義的・格差的編成は教育を受ける権利に関する憲法意識を、また社会の競争主義的編成と「自助・共助」の強調は生存権に関する憲法意識を、変質させ」るものだと批判し〔pp.159-160〕、朝日新聞社とベネッセ教育総合研究所が二〇一八年に行った「学校教育に対する保護者の意識調査 2018」に着目する。調査によれば、所得による教育格差を「問題だ」とするものは2008年の53.3%から2018年は34.3%、これに対して、許容する(「当然だ」+「やむをえない」)とするものは2008年の43.9%から2018年は62.3%と逆転したのだ(出典)。中嶋さんはこの変化を「教育を受ける権利がすでに抜け落ちているか、権利という言葉の意味が変質しているのではないか」と批判し、次のように書いている。

 幾世代にもわたって競争主義的教育制度にさらされ続ける日本人は、競争は自らの生存を確保する手立てであると認識しがちだ。学校は競争の場であり、教育は競争を通じて自らの生存基盤を確保する手段である、と。このため、制度化された教育競争の理不尽さは十分すぎるくらい認識していても、また学力競争が子どもの人間形成をゆがめることはわかっていても、親たちは競争制度の中で勝ち残ることに子どもの生きる方途を見出さざるをえないと考えてしまうのではないか。このように考える人々は、教育を受ける権利や教育の機会均等原理そして日本国憲法は、競争を通じて自分や家族が勝ち取った優位をご破産にしかねない理不尽な仕組みにすぎないと考えるかもしれない。
 日常的生活意識に引きずられて国民の憲法意識がこのように変化すると、明文改憲によらずとも憲法規範の内実が変質してしまう。また、憲法意識の変化が進めば、日本国憲法の基本原理の意義を理解できなくなり、明文改憲を受容する意識が醸成されていく恐れもある。これらは明文改憲と同じ意味をもつ。政府は社会をこれまで以上に排他的・競争主義的に組織し、憲法意識の変質を促すモメントを強化している。これらにも適切に注意を払わなければ、安倍政権による改憲と国家改造プロジェクトに対する対抗軸を設定しそこなう可能性がある。〔同書、pp.160-161〕
 そのとおり、競争原理批判は、日常性のなかに生きる意識の変革としてでなければ成就しない。一方における競争の勝者はえらくて、他方における競争の敗者は努力が足りないという見方、考え方そのものを問い、転覆する必要がある。ふるい分け、ふるい落としを自明のものとする奴隷精神自体を変革しなければならない。 〔つづく〕 (M)

2020/04/15 競争原理批判(10)

教育に、評価でなく評点(点取り競争)を持ち込むことの弊害は繰り返し伝えていく必要がある。昨年12月、高知県の土佐町議会で「全国学力調査を、悉皆式から抽出式の調査に改めることを求める」意見書採択にこぎつけた運動の代表、鈴木大裕さんは、『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店、2019年)で、評点制度の愚を次のように批判している。以下、少し長めになるが、同書pp.98-99から引用、紹介する。

 「アカウンタビリティは、さまざまな意味で無責任だ」。そう言ったら、あなたは驚くだろうか。PISAショックや、ゆとり教育批判などの流れを受け、今の日本では、学力調査に頼った教育評価を疑問視すれば「責任逃れだ」と批判されるような雰囲気すら漂っているが、私はあえてアカウンタビリティの支配そのものを批判したい。
 私は、教育の効果が数値化できないとは思わない。ただ、そのすべてを数値化できるわけでもないし、実際に数値化できる認知能力などは、学校教育の幅広い効果のうちの一部に過ぎない。よって、それを軸に置いた学力観は偏っており、そのように偏狭な学力観にもとづいて教育政策を展開するのは無責任だ。誤解がないように言うが、評価をするなと言っているわけではない。アカウンタビリティも全面否定するわけではない。ただ、それが支配的になって費用対効果や測定可能なものだけを「教育効果」と定義した上で教育を評価すれば、学校はグローバル経済における即戦力を効率良く生産する工場、教育のプロであるはずの教育者たちは指示通りに働く労働者、教育はプログラム通りの結果を生み出す機械的な工程、若者たちは品質等級に分類された製品と化してしまうだろう。
 抽出式だった全国学力テストが全員参加に戻され、学校別成績開示までもが地方自治体の意向で可能となった現在、日本の学校、自治体間で点数競争が加熱し、アメリカと似たような現象が起きつつある(もしくはすでに起きている)。単に点数を上げれば良いのだから、教えるという人間的で複雑極まりない営みは、テスト対策のテクニックでしかなくなってしまう。そして、そのテクニックを持った教員がもてはやされ、その「カリスマ」たちの教材がパッケージにされて売られ、「成果」を上げた学校や自治体の取り組みが「ベストプラクティス」としてビデオやインターネットで拡散されるのだ。そして、従来テスト対策に特化してきた塾が教員研修や教材開発や補習を担うようになり、貴重な教育予算がどんどん民間に流れる一方で、少子化、効率化、デジタル化を理由に教員は削減されていく。少人数学級制は、費用に見合うほどの効果が出ないというが、なぜ「きめ細やかな指導」の効果をテストの点数で測ろうとするのだろうか。担任と生徒たちとの信頼関係、一人ひとりの特徴やニーズを生かした学級づくりから育まれる心の成長など、ペーパーテストでは測れない少人数制の教育効果は本当にないのだろうか。もし全国学力テストの数値だけで教育評価を行うなら、もはや学校は塾と変わらなくなり、教員の代わりにロボットが使われるようになるだろう。塾とは異なる学校の存在意義は、ロボットとは違う生身の教員の存在意義はないのだろうか。

 まさに、点取り競争(競争原理)が学校を、格子なき牢獄に変えてしまっているのである。許してはならない。
 パンデミックの影響を理由に、今年は全国学力テストが延期になった(「“200万人”全国学力テスト延期へ 感染拡大を懸念」3/16 テレ朝)。これを機に、教育とは何か、学校はどうあるべきかという根本的なところから論議をまきおこし、悉皆式を抽出式へ、さらに廃止へ、運動していく必要がある。

必読関連リンク
鈴木大裕「私は娘に全国学力調査を受けさせない 点数競争が過熱し、NY州では24万人の親が拒否。誰のため、何のための学力調査か」〔2019/02/27 WEB論座〕
インタビュー「あの人に迫る鈴木大裕 教育研究者、高知県土佐町議」〔2020/2/14 中日、2/15 東京〕
 〔つづく〕 (M)


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