前田年昭のブログ 更新情報(直近分もくじ)
- 2023/07/17 読書会『抗日パルチザン参加者たちの回想記』第2回ごあんない
第1回読書会(5月20日)では、「抗日パルチザン参加者たちの回想記」に記された1930~40年代朝鮮人民による抗日革命闘争の歴史について、また訳者・鈴木武さんが翻訳を始めた当時参加していた釜共闘の運動について確認しました。そのうえで、回想記を一読し感じたこと、今この場所にどのように役立てることができるか、参加者全員で意見交換しました。
今回第2回は、全264話からいくつかの回想記を取り上げ、具体的な描写に即して読み深めたいと思います。3人の報告者がそれぞれの関心に基づき報告、問題提起したあと、全員で討議を行います。
ともに読み考え、話し合いましょう。ご参加をお待ちしています。- 8月13日(日)午後1時15分~4時半
- 東京・赤羽北区民センター(JR北赤羽駅徒歩1分)第1和室
- 参加費 500円(要予約)
- 主催 前田年昭 電話080-5075-6869
tmaeda1966516@gmail.com
報告1 13:30~14:00 田代ゆきさん(組版労働者)
明けてくる明日のために リ・ヨンスク
熱い心臓 キム・リョンヨン
〈トルチ〉に関する話 ファン・スニ
ウァンウグの人民 キム・ヂャリン
14:00~14:15 討議
報告2 14:15~14:45 キム・ヨンイルさん(福祉労働者)
不屈の闘士 リム・チュンチュ
任務を遂行するまで チャン・サンリョン
14:45~15:00 討議
報告3 15:15~15:45 須田光照さん(労働運動家)
燃える復讐の一念で パク・ソンウ
我々はこのように武器をとった リ・ヨング
15:45~16:00 討議
16:00~16:30 総括討議↓ 画像をクリックすると,案内チラシ表裏pdfを読むことができます。
- 2023/06/14 映画『差別』と日本人の責任
映画『差別』(原題 차별(差別), 監督. キム・ジウン+キム・ドヒ,2021年韓国,91分)を見た。高校授業料無償化は2010年から実施され,対象には国内にある外国人学校も含まれたが,朝鮮学校だけが除外された。いったいなぜ朝鮮学校が「高校無償化」から排除されたのか。日本の政府と国家権力のみならず,差別と排除を支える日本社会の嫌韓・「北」差別がある。日本人民の恥ずべき堕落と運動の衰退がある。映画『差別』は韓国映画であるが,監督のキム・ジウンさんは「歴史的に被植民地と南北分断の責任がある韓国政府と私たちは…」と自らの立場を明確にし,これが全編に貫かれている。結果,私たち旧宗主国・日本人民の,植民地支配と南北分断の責任を正面から問うものとなった。崔有福さんの生き方と負けじ魂は,金敏寛さんとともに心をうつ。「日本人として恥ずかしい」という森本孝子さんの情は私と同じだ。「民族教育を植民地支配の清算としてなすどころか真逆の朝鮮学校排除は歴史への侮辱」という丹羽雅雄さんの理とともに,あるべき日本人の反省の道を示す。清田美喜さんの「理解するためには歴史を知らねば」という言葉は,希望である。映画は,朝鮮学校無償化訴訟を扱ったドキュメンタリーであるが,狭い報道の域にとどまらず,情も理もある映画として,おすすめしたい。
私は,関西有数の工業都市であり,労働者の街である尼崎で育った。尼崎は,阪神教育闘争の舞台であり,このブログでも2010.5.8付ほかで採り上げてきた。高校生だった私は,当時まだ存命だった方々から話を聞き,記録を読みあさった。全共闘運動の昂揚期でもあったこの当時,私が「反教育」「反学校」という主張に与することができなかったのは,悪いのは教育や学校ではない,教育や学校には,差別を再生産する教育・学校(天皇制と東大),差別と闘う教育・学校(夜間中学,朝鮮学校)があると知ったからだった。とりわけ,この映画にも出てくる阪神教育闘争は,私にとっても原点である。朝鮮戦争の開戦前夜に闘われた阪神教育闘争は,「MP40名来署,責任者逮捕に協力し朝鮮人21,日本人22,計43名を検挙」(尼崎市行政課編『尼崎市警察史』年表)と記され,私はこの1行に朝鮮バッシングとヘイトの吹き荒れる現在の日本社会とは明らかに違った日朝関係史の希望を見いだすからである。
- 映画『差別』予告編 https://youtu.be/-IM7DZG-ays
- 朝鮮学校「無償化」排除に反対する連絡会 https://mushoka2020.blogspot.com/
- 2023/05/22 核独占クラブによる茶番――G7サミット
G7サミットが終わった。最も象徴的なことは会期中の5/20の各紙がうち揃って「核廃絶 ヒロシマから一歩」と事実に合致しない翼賛報道に終始したことだった。「平和」を掲げるならば,「抑止力」を強調して,戦争当事者の一方だけを招いて武器支援をうたうことではなかったはずだ。
これを「失敗」だと評するのはあまりにおめでた過ぎる。戦争は帝国主義がつくりだす。戦争はG7の本質的必然である。G7の本質とは何か。それは,米英仏という核独占国が,先の敗戦国である独伊日,および加という手下を従えた核独占戦争クラブなのである。理念として掲げている「多元主義,自由民主主義」はその本質を覆い隠す煙幕であり,「核拡散禁止」とは核の排他的独占を守り抜くという宣言に外ならない。世界はいま,米ロ中による世界共同支配下にある(米帝国主義とその手先はこれを「国際秩序を守り抜く」と表現する!)。半世紀前は,米ソの世界共同支配に,社会主義中国を中核にした第三世界が対峙するという構図だったが,ソ中の完全な変質と裏切りで一変した。進路を問われているグルーバルサウスの活路は社会主義以外にない。社会主義の旗を掲げ続けるキューバ人民の道こそが,労働者人民の生きるすべである。国家は独立を求め,民族は解放を求め,人民は革命を求める。 (M)
- 2023/05/21 茶茶羅可笑「叙位叙勲」
毎年4月,11月の2回,叙位叙勲が報じられ,毎回おおむね4,000人が受賞する。勲章には大勲位菊花章,桐花大綬章,旭日章,瑞宝章,文化勲章,宝冠章がある。勲章制度の始まりは,1875年の勲章制定ノ件(太政官布告第54号)公布であり,これが現在の旭日章の基になった。以降,以降,1876年に菊花章,1888年に瑞宝章と宝冠章が制定され,1937年には文化勲章が,当時の内閣総理大臣・廣田弘毅の発案による文化勲章令(1937年2月11日勅令第9号)に基づいて制定された〔内閣府「日本の勲章・褒章」,wikipedia「文化勲章」〕。
位階は,1926年10月21日,位階令(勅令第325号)によって制定され,敗戦後の1946年に生存者に対する叙勲と叙位は一時停止されたが,1947年5月3日,位階令が改正され,生存者に対する叙勲は1964年に再開された。等級は「宮中席次」を表すもので,天皇との距離を意味し,「天皇制が日本社会の人間差別の根源であることを端的に示している」〔原寿雄「人権とマスメディアのあり方―ジャーナリスト意識の質転換を」部落解放研究 : 部落解放・人権研究所紀要 / 部落解放・人権研究所 編 (126) , 1999-02〕。前川春雄(元日銀総裁,1944-89)は,勲一等の内示を受けながら「人間に等級をつける勲章は好ましくない」として,生前も死後も受勲を返上,また,1964年の生存者叙勲復活に際し,皇室指南役の小泉信三(1888-1966)は等級に反対した。政治家や財界人でも心ある人で反対,辞退してきた者は,宮澤喜一(1919-2007),細川護煕(1938-)らがおり,また文化勲章辞退者も,今年3月3日に亡くなった大江健三郎(1935-2023.3.3)をはじめ,杉村春子(1906~1997),城山三郎(1927-2007)ら決して少なくない。にもかかわらず,新聞や放送の扱いはいつも大々的で,特集ページを組む新聞も多い。あからさまな人間差別に目をつぶり,「受勲者の喜びの声」をはじめ大きく取り扱うことに何の疑問も抱かないのか。こういう輩が,アメリカ帝国主義に尻尾をふって,「人権」だの「自由」だの「民主主義」だのと言っているのは,茶茶羅可笑(ちゃんちゃらおかしい)。 (M)
- 2023/04/12 読書会『抗日パルチザン参加者たちの回想記』ごあんない
1930-40年代、日本の侵略に抵抗した朝鮮人民による抗日武装闘争の記録を読もう。
- 5月20日(土)午後1時~4時
- 東京・赤羽北区民センター(JR北赤羽駅徒歩1分)第1和室
- 参加費 500円(要予約)
- 主催 前田年昭 電話080-5075-6869
tmaeda1966516@gmail.com
労働者・鈴木武さんが「この人たちを永遠に生かすために」という思いで30年余かけて全12巻を完訳しました。そこには限りある生を生きるための糧となる感情と思想があります。
このほど刊行された『翻訳と連帯(同志社コリア研究叢書5)』(非売品)に,『回想記』全264話から特選集として28話がおさめられています。電子版が,発行元の同志社コリア研究センターのウェブサイト https://do-cks.net/works/publication/korea05/ で無料公開されており,閲覧・ダウンロード・印刷は自由です。
まず,今回は13話,14話,15話について,感想や意見の交流,討議を行います。働きながら学ぶ皆さんと共に読み,話し合う場を持ちたいと思います。ぜひご参加ください。
↓ 画像をクリックすると,案内チラシ表裏pdfを読むことができます。(M)
- 2023/02/07 「分業にもとづく協業」の力
新聞社では,組版をやる人やグラフィックをやる人と印刷機をまわす人とは直接の関係はなく,顔を合わせることもない。それでも一定の品質の紙面が毎日できあがる。これはすごいことである。分業にもとづく協業の力である。フォーマット(組版の基本設計)の力,すなわち12字72行12段(むかしなら15字92行15段)の力でもある。
出版はかなりちがう。企画から編集(場合によっては組版まで),営業までひとりでやったりする。とはいっても印刷と製本は工場に出すし,配本も取次に託すが,前工程はDTPによってひとりででもできるようになった。活版期には植字/組版は,製版とともに工場における協業の一翼だったものが,工場を出たわけである。中野重治は『空想家とシナリオ』(改造社1939,講談社文芸文庫1997)で次のように書いた。
- 本はどうしてつくられるか? そこの山に樅の木が生えてゐる。それが伐りたふされる。挽かれて細粉になる。それが工場へ行つて紙になる。ここにボロがある。それが集められ。精撰され,そして同じく工場へ行つて紙になる。そこに山がある。鉱石が掘り出される。それが精煉されて鉛が取り出される。それが活字になり,それが工場へ行つて文字印刷の基礎になる。そこに汚い街があり,そこからぞろぞろと労働者が出て来て,そこで彼等が組んだり印刷したりし,そして活字のために鉛から来る病気になり,それから別の汚い街があり,そこで半分家内工業的なやり方で製本がなされてゐる。
工場の力とは,分業にもとづく協業の力である。一人が始めから終わりまですべてをやる作業ではない。活版では,文選―植字―印刷―製本という分業が,DTPによって前工程,つまり文選と植字がまとめられて,1台のパソコンによる作業で置き換えられた。文選工と植字工は同じ現場で隣り合っていたから,文字の拾い間違いを補い合うこともできたろう。書き手は,校正の際には植字工の手間を思って,入朱による1行減がページを渡ることがないように,別の挿入や新たな改行を入れることもあったろう。
工場を出た植字/組版は一人でやることになって,入ってきたテキスト(いまは専ら書き手の入力したデータ,ちょっと前なら手書き原稿からの入力専門者)を版に仕上げるまで一人でやることになる。書き手や編集者は,物理的に同じ現場にいるわけではない(ことが多い)から,活版のときの校正者のように“やさしく”はない(ことが多い)だろう。……と書き進んできたが,植字/組版などプリプレスでの協業は,印刷機による印刷という労働からみれば,前段階の補助的労働である。植字/組版は,コンピュータ化によって大きく変わり,協業から一人での作業に戻った。印刷工は重い鉛版を運ばなくてもよくなり,植字/組版工もまた肉体的負担は減った。しかし,パソコンは労働者を労働から解放するのでなく,労働を内容から解放する。機械を使うのではなく機械に使われるようになる。話が脱線するが,ここで気になるのが,活版から写植へ(手動機から電算へ),そしてDTPへという道具の変化のなかで,同じ人が古い道具を新しい道具に切り替えて仕事を続ける例は多くはなかったのではないか。また,そのたびに,組版の基本は継承されることなく切れていったのではなかったか。だとすれば,技能でなく技術を継承していくにはどうすればいいのだろうか。(M)
- 2023/02/06 電算写植のコトバ
電算写植のコーディングとは,テキストに組版の指令(ファンクション)を入れて,組み処理機におくるデータをつくる作業である。ファンクションとは,人間のコトバからコンピュータのコトバへの橋渡しをするコトバであり,SAZANNA-SP313の場合,116項ある(『SAZANNA-SP313データ作成マニュアル』写研,1989-1990)。自動発生ファンクションもあって,日常は約100のファンクションを覚えればよい。
手動写植の熟練職人だった方であっても,これになじめない人もおり,手動写植職人がみな電算写植コーダー(=コーディングする人)になったわけではない。電算写植にもDTPにもなじめず,「コンピュータは苦手」と言って植字/組版から離れていった人も少なくなかった。私の場合,植字/組版を始めたのが激動激変の時期で,活版も手動写植もほとんど身につける間もなくオロオロするばかりだったから,逆に,道具に依存しないで文字を配列する原理,ルールに興味関心が向いた。これが電算写植のコーディングにすんなり入っていくことができた理由だったのだと今にして思える。同僚は写研の教室に通ったが,私には先生はおらず,前記マニュアルや出力センターが出していたガイド本を読んで覚えた。『(書名失念)』(東京リスマチック,刊年不明),『コーディング・パーフェクトガイド』基礎編・応用編(帆風,1991-92),『パソコンで始める電算写植』(日本ハイコム,1990-91)など。そのほか『SKコーディングガイド』(アルクス,1990),『How to C.T.S.』(写研)はたいへん役立った。SAPCOLは,分かりやすく読みやすい組版を体現する組版言語として,いまだに最高のものである。それだけでなく,人間のコトバをコンピュータのコトバに橋渡しするコトバとしてもすぐれている。すぐれているというのは,簡にして要を得たものだということだ。一例を挙げれば,ルビで [(]親文字[)][ルビ][(]ルビ文字[)]で,親文字やルビ文字が1字の場合は[(][)]は省略可。これだと 漢[ルビ][(]かん[)]字[ルビ]じ となる([ ]がファンクション1文字。肩付きか中付きかなど体裁は別途指定)。これに対してHTMLは,より機械のコトバに近く <ruby>漢<rt>かん</rt>字<rt>じ</rt></ruby> と必ず終了タグを入れる。機械のコトバの理屈としては開始があれば必ず終了が要る。しかし,機械とちがって人間は忘れるものだ。デフォルトさえしっかりしていれば組処理機側で自動処理すればよいことだから省略すればいい。SAPCOLでは一事が万事こうなっている。コーディング結果は出力するまで見えず分からないことは短所ではあろうが,論理的な組版が成立する。逆に,WYSIWYGで見たとおりに文字を置けるということは便利で長所でもあるが,論理が立ってなくてもとりあえずできた気分になってしまう。一例を挙げれば,写真に対するキャプションの配置について,昨今は「見たまま」で「てきとう」に置いたものが多く,左揃えで1mm(=4H)アキ」とかすら揃えられていないものが何と多いことか。 (M)
- 2023/02/04 植字/組版史における電算写植の位置
私が本格的に植字/組版の仕事をしたのは,電算写植からである。活版は見習いにすぎなかったが,私が初めて体験した工場労働だった。手動写植は「見た」だけといってよい。電算写植には工場の匂いがした。この感じ方は私だけでないはずだと思い続けてきたが,戸田ツトムが鈴木一誌との共著『デザインの種』(大月書店,2015年)で【デザイナーから見ると,電算写植は,文字がまた工場のなかに入った,という印象だった】(p.196,傍線は引用者)と語っている。
労働の能力が、個々の人間の身体と一体になった職人の世界は,一方ではこしらえることの実感が伴う豊かさがあったが,他方では封建的ともいえる主従関係や精神主義(気合いと根性!)を伴っていた。技能的な熟練を解体していく歴史の流れは,前者の豊かな労働とともに後者の世界も解体していく。私は1990年代には東京写真植字協同組合第7支部の一員だった。当時の写植業者仲間の顔とともに,業態のあまりに急激な変化に対応するために「組合名を写植組合からDTP組合に改称する」案が“まじめに”討議されたことを思い起こす(その後,全日本写真植字工業会は,全日本DTP工業会へと名称を変更,2001年には,日本写真製版工業組合連合会と統合して日本グラフイツクコミュニケーシヨンズ工業組合連合会になった)。植字/組版の分野にコンピュータ化の波が及んだことによる変化は,金属加工の分野で汎用旋盤からNC旋盤へ変わったことによる変化と比較して,どこが同じでどこが違うのか。職人の技能的なワザは公開的な技術へと変わったのかどうか。電算写植とDTPは植字/組版の何を変え何を変えなかったのか。
技術史家・中岡哲郎さんは,先んじて『人間と労働の未来』(中公新書,1970年)で次のように指摘していた。
- 過去の百年間に熟練の解体の波をかぶったのが職人と熟練工であったとすれば,これからの百年に熟練の解体の影響をもっとも大きくうけるのは……現代の熟練工であり職人である…管理的労働者――中堅ホワイトカラー,医師,科学者,ジャーナリスト等々であることはまちがいない。……現在すでにこの層の分解ははじまっている。……いずれにしても,そこには,週刊誌などの描きだすバラ色の様相とは全く異なった,強い困難と矛盾がはらまれているのである。〔同書,p.178〕
植字/組版の歴史は通常,活版・写植・DTPと三つに区分される。しかし,コンピュータ化という物差しでみると,活版と手動写植・電算写植とDTPという二つに区分できる。他方で,協業など〈工場〉という物差しでみてみると,活版(+電算写植)・(手動写植+)DTPという区分にもなろうか。
コンピュータ化は精神労働の機械化だという。肉体労働の機械化に対しては,労働者人民は初期の機械打ち毀しも含めて抵抗し,団結して闘ってきた。『資本論』は,その最も生き生きとした描写である。日本においても植字/印刷工は労働運動の中心のひとつの部隊だった。いま,なぜ,印刷労働運動は元気をなくしてしまったのか。植字/印刷労働者について振り返ってみれば,「クリエイター」と持ち上げて個々人バラバラにするフリーター神話(by リクルート)にだまされて,階級解体されてしまったことが大きいのではないか。写植の敗北の総括は緒に就いたばかりである。 (M)
繙蟠録 II 22年8月< 22年12月<