繙蟠録 I & II
 

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繙 蟠 録 II 2020年6-8月

2020/08/26 紅花落水の夢 追悼・森崎東監督

「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党」の一党員として、森崎東監督への追悼文を書きました。『週刊読書人』2020年8月14日号(3352号)掲載。
  紅花落水 追悼・森崎東監督
    掲載URL
    https://dokushojin.com/reading.html?id=7546(読書人WEB)
 (M)

2020/08/24 書評:中嶋哲彦『国家と教育 愛と怒りの人間形成』

書評を書きました。『週刊読書人』2020年5月29日号(3341号)掲載。
  《教育を受ける権利》宣言の書
  利潤と競争主義への問いかけから新自由主義批判へ
    掲載URL
    https://dokushojin.com/review.html?id=7238(読書人WEB)
 (M)

2020/07/19 紅花落水

尊敬する映画監督・森崎東の訃報をきく。『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985)は各紙とも挙げているが、気持ちに届く記事はない。悔しい。バーバラが繰り返す「アイちゃんですよゥ、ゴハンたべたァ?」という呼びかけは、ご飯を仲間といっしょに食べることの大切さ、連帯とは人と人がそのように繫がりあうことだと示してあまりある。しかも、この「党」は20年近く後の『ニワトリはハダシだ』(2004)にも貫かれており、森崎が生涯求め続けた“あるべき党”だったのではないだろうか。

 『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』冒頭の中学生の学ランの背中の「紅花落水」の四文字こそが「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党」の中国名である。森崎自身が『にっぽんの喜劇えいが PART(2) 森崎東篇』(映画書房、1984)のあとがきで書いている〔pp.302-303〕。それによれば、「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党という紅衛兵のグループが上海で旗上げ」という新聞記事を読んで、以来脳裡に刻み込まれ、「何とか調べたくて文化革命の最中二度も中国へ行ったことのある親友の中国史研究家Kに尋ねると、たぶんこんなところじゃないかと書き送ってきたのが前述の「紅花落水」の四文字」だった。しかも、このKは「映画クランク・インの数日目に自死した」という。森崎はKとしか書いていないが、中国近代史研究者・近藤秀樹(1932-87)にちがいない。近藤は『日本の名著45 宮崎滔天・北一輝』(中央公論社、1982)を編んだ。解説「明治の侠気と昭和の狂気」は「中国人になりそこねたことを悔いて死んだ滔天は、日本が世界の中心国になってはならぬと信じていた。/日本が世界の中心国になろうなどということが誤りであることは、一九三一(昭和六)年から十五年間つづいた昭和の狂気がこれを如実に証明しているといえる。/しかしまた、ひるがえって考えるに、そもそも世界にはどこの国が中心といったことはあり得ぬと考えたほうがよい。というのは幸いにして地球は環球なのだから。」とむすばれている。

 ふたたび三たび、文化大革命を! それこそが「ぼくが映画に期待するのは、ほとんど世界的ですねえ」と言い続けた森崎東の遺志ではあるまいか。

関連リンク:「コモンズ大学、ゲスト・前田年昭さんの報告「原発事故幻視者・森崎東という視点」」2011.07.01、【こぐれ日乗】by小暮宣雄 (M)

2020/07/11 小括 競争原理批判(19)

『水源をめざして』(太郎次郎社、1977)や『競争原理を超えて ひとりひとりを生かす教育』(太郎次郎社、1976)を著した数学者・遠山啓が亡くなって間もなく41年になる(1909年8月21日-1979年9月11日没)。「定年になって彼のラジカルな本質が光彩をはなつようになる」と森毅に評された遠山は生涯、競争原理と闘い続けた。

 その遠山が『遠山啓著作集 教育論シリーズ 第1巻 教育の理想と現実』(太郎次郎社、1980)で、学校教育の目標について、自らの教育観を端的に述べている。

 学校はなぜつくられているか、それは学校がなにによって存在しているかを考えれば、明らかなことである。学校は、国公立の場合は父母の払う税金によって、私立の場合は父母の納める授業料によってまかなわれている。校舎や運動場の建設費も維持費も教師の俸給も、すべて父母たちの労働の対価によってささえられている。したがって、その父母たちの子どもをすべて、例外なく“賢くて丈夫な人間に育てる”ことが学校教育の基本目標でなければならない。
 しかし、現在の日本では、この学校教育の本来の目標が見失われて、まったくべつの目標を追い求めている。その目標とはつぎのようなものである。
 「ひんぱんにテストを行ない、そのテストの点数によって子どもたちを優劣の順に序列づけ、そして、それを社会に報告し、社会的な序列の根拠として提供する」
 換言すれば、生徒たちを序列化することが主要な目標となっている。これを私は序列主義とよんでいる。
 いま、日本の学校教育はさまざまな荒廃現象を露呈しつつあるが、その主要な原因は、この目標設定の誤りにあると私は考えている。この目標設定の誤りを正し、“すべての子どもを賢く丈夫に”という目標に向けなおさないかぎり、荒廃はけっしてなくならないだろう。
 さきにのべた序列主義の根底には、人間は人間どうしの競争によって、また、それによってのみ努力し、発展するという人間観が横たわっている。しかし、この人間観は誤りであると私は考える。これまでに人類が生みだした最高のものは競争心などという卑小な動機によって創りだされたのではない。それらは《真》《善》《美》に対する人間本来の願望から生みだされたものである。競争心によってつくりだされたものがあるにしても、それはせいぜい第二級品以下のものでしかない。
 子どもの教育も、子どもどうしの競争心をあおることによってやる気を起こさせることは邪道であり、彼自身が、生まれながらにしてもっている《真実なるもの》《善きもの》《美しいもの》に対する内的な欲求を引きだすことをめざすべきである。
 競争は結果において他人にのみ注目することになり、自己発見をさまたげ、自立できない人間をつくる。今日、いわゆる優等生とかエリートとかよばれておだてあげられている大学生のなかには、多量の知識をつめこまれているが、自己の世界観や人生観をもっていないし、また、そのようなものをもつ必要さえ感じていないものが多い。
 だが、教育は百科事典に二本の足をつけたような人間をつくることをめざすべきではない。自分自身の力で自己の世界観・人生観をつくりあげ、自己の意志によって自己の人生目標を設定し、そのことに責任をもてる人間、つまり、自立した人間をつくることが教育の、そして、もちろん、学校教育の目標でなければならない。

 社会はいま、新自由主義による自己責任論という奴隷精神に覆われている。学校教育は、PISAや全国学力テストという数量化、差別選別の徹底化によって破壊されている。こうした時だからこそ、遠山啓の《競争原理批判》にたち返って考え直してみようではないか。 〔第1部 了〕 (M)

2020/06/30 都知事選に対する私の意思表示

東京都知事選(7月5日投票)に、「革新」側から宇都宮健児さんと山本太郎さんが立候補した。それぞれの支持を訴える人がおり、両者は統一すべきという意見がある。私は当初、宇都宮さん支持、かつ、山本さんが立候補することにはためらいながらも反対だった。しかし、客観的事実を検討した結果、興りつつある新しい力は山本さんに代表されており、「割ってでも」立候補という闘いが歴史の方向に合致していると考えるに至った。以下が、その理由と経緯である。

「託すのではなく、創る、動かす~2020年6月、東京都知事選をめぐるAとBとの対話~」

 (M)

2020/06/15 「“同窓会”だいすき。高歌放吟」な人びと

辺見庸ブログ 6月7日付を、頷きながら引用する。

左翼小児病
○さよくせうにびやう

6.15集会の案内状届く。笑。アタマのぼけたご老人たちから。ベンイもニョウイももはや判然としなくなった元ブントの恍惚闘士たちのオツムやあはれ。おむつ替えましたか?
左翼小児病とは、客観情勢を無視して、物事を観念的・情緒的に判断し、しばしばいかにも過激っぽい言辞・行動をとる傾向。が、転向を転向とも意識できず、内通者多し。やだね。
さよくせうにびやう者はさらに、〝同窓会〟だいすき。高歌放吟、カラオケだいすき。腕組んで、涙目で。終わったら平気で労組弾圧。あれはあれ、これはこれ。
テレビジョンのわがボケ面も到底堪えがたし。途中で消す。犬と寝る。

歴史の簒奪に抗するには、徹底した沈黙?でなければ、批判し続けることしかない。「んなこと、やってられるか」という自らの気持ちと闘いながら。 (M)

2020/06/10 競争原理批判(18)――半労半学の建国大学

日本軍国主義の敗戦翌日、森崎湊は「死んで護国の鬼となります」と両親に「遺書」を遺して自決した。❜生きたままアメリカに屈することができなかったのである。彼は、「満洲」・建国大学で「満洲」系学生と共に学ぶなかで、彼らの心を深くとらえているのは中国共産党であることを知る。森崎湊をして中朝人民の抗日闘争の大義を知らしめた建国大学の教育とは、どのようなものであったのか。

 建国大学は1938年5月に開校した。学生は、五つの民族(日、漢、朝鮮、蒙古、露)からなり、全寮制で、前期3年後期3年の6年間を塾舎で共同生活しながら学んだ。日本の中国侵略戦争がもっとも激しいこの時期、互いに喧嘩しながら相手の立場を想うようになっていく。15万冊の蔵書には当時読むことのできなくなった社会主義関係の本も多く含まれ、毛沢東の著作も回し読みされていた。また、教員には、三・一朝鮮独立宣言書の起草者の一人、崔南善(1890-1957)や中国五・四運動の先頭に立った鮑明鈐(1884-1961)もいた。やがて、対米英戦争が始まると日系学生は1943年10月の学徒出陣で建国大学を去り、続いて朝鮮、台湾の学生が実質的な徴兵で去り、中国人学生は抗日戦争に加わるために次々と去っていった。建国大学は実質的にはこの段階で終わった。

 森崎湊は四期生として1942年に入学。『遺書』編者の泉三太郎のあとがきによれば、重慶の蔣介石、延安の毛沢東と日中和平を交渉する決死隊をひそかにつのり、その第三陣を自ら「計画したが、これを知った大学当局は狼狽し」、病気を理由に森崎を1943年、帰国させた。森崎は帰国後、医師からどこも悪いところはないと診断され、「自発的に退学届を大学当局に提出」したという。上野英信(1923-1987)は1941年に入学し、1943年12月学徒召集で関東軍に入営するまで建国大学で学生生活を送る。共に鍬をふるい、机を並べた時期もあったにちがいない。

 この建国大学の授業は実習に重点を置くユニークなものだった。朝の起床は5時半(冬は6時半)、学課を午前中に終えると、午後にさまざまな実習訓練が行われた。実習訓練の主な内容は、学内農園の実習と現地農民の実態調査だった。20万坪(約70ヘクタール)近い大農場があった。農場主任の教官、藤田松二は、河上肇の影響を受け、橘樸(たちばなしらき、1881-1945、※魯迅が「中国のことをよく知っている」と評価した)と同じように郷村単位からの国づくりを志した農本主義者だった。そして、夕食後の自習時間にはしばしば座談会がもたれ、激論がたたかわされた。この半労半学の学びのスタイルこそ、建国大学の教育の核心でもあった。

 なお、建国大学については、河田宏『満洲建国大学物語 時代を引き受けようとした若者たち』原書房、2002年7月に詳しい。また、フィクションであるが、安彦良和の漫画『虹色のトロツキー』(初出1990-1996)は、建国大学を舞台にアジア主義を俎上にした壮大な作品である。〔つづく〕 (M)


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