繙蟠録 I & II
 

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繙 蟠 録 II 2022年1-2月

2022/02/28 均質な製品を作り出す単調な反復労働の力

さいきん,Twitterでうれしい書き込みを見つけた。

 機会あるごとに私が力説してきたことがこのように的確に受け止められたことは,うれしいかぎりである。組版・印刷労働者は、(一点モノを拵えるのではなく)読みやすく均質で同じ本を多く拵える。ある技術史家が書いているとおり,【何が作られるかということでなく,いかにして・いかなる労働手段をもって・作られるかということが,経済的諸時代を区別する。労働手段は,人間の労働力の発展の測度器であるばかりでなく,そのうちで労働が行われる社会的諸関係の指示器でもある】。本の品質には,時代と社会が記録されている。

 組版にかぎらずモノづくりは,生産物の立場から考察すれば,道具と対象(生産手段)と労働そのもの(生産的労働)としてある。単調な反復労働が世の中の富を生み出す土台であり,原動力である。労働は対象と手段を食い尽くす消費過程であるが,生産的消費が個人的消費とちがっているところは,前者は労働の生活手段として,後者は個人の生活手段として,それぞれ消耗するという点である。ゆえに個人的消費の生産物は消費者そのものであり,生産的消費の成果は消費者とは異なる一生産物である。

 組版・印刷労働の成果は,ひとえに実践と経験の歴史的検証に裏づけられた,均質で読みやすい本に現れている。 (M)

2022/02/15 日本には表現の自由があるという錯覚はどこからきているのか ――「民主」と「人権」3

1/31付で取り上げた「香港でのメディア弾圧」だが,日本で論じられている際に,「日本では,言論の自由があり,報道の自由がある」と無意識に前提している人びとがいるようなのだが,それは客観的事実に合致しているだろうか。

 1月27日,東京地裁は,映画「主戦場」出演者のうちケント・ギルバート氏,藤岡信勝氏ら5人が,ミキ・デザキ監督と映画配給会社「東風」を相手取って上映禁止と計1300万円の損害賠償を求めた訴訟に対して,「原告らは一般公開の可能性を認識していた」として請求棄却の判決を言い渡した。 →『朝日』1/27付『西日本』1/27付配給会社「東風」1/27付報告
 判決の意義については,元KAWASAKIしんゆり映画祭スタッフである越智あいさんが「デザキ監督を一人にするなーー映画『主戦場』東京地裁判決を受けて」〔月刊風まかせ 2022/2/9〕で【監督の、作品制作過程にはなんら落ち度はなく、かつ、上映禁止にする理由も見当たらないという判決内容は、すなわち「表現の自由」を守ったことになると私は解釈した。/けれど、この判決が意味することはそれだけではないと私は思う。「無理筋なことを訴えられても、臆さず、ビビらなくて良い」。そういう声が判決文から聞こえたように思った】と書いているが,同感だ。訴訟当時の報道などを振り返ってみれば明らかだが,歴史修正主義者(原告)側の声が大きく,報道の自由,言論・表現の自由などは日本社会にはない。良心的な人びとは委縮させられるばかりであり,闘い続けることによってしか,自由と権利は得られない。

 5年前,ある本の出版記念の催しで私は次のように記した〔「中国60年代と世界」第2期第5号〕。

半世紀前の人民中国は、しばしば中共と呼ばれたこともあった。中共とは中国共産党の略称だから国の名前として使うのは適切ではない。しかし、そこには、戦後、アメリカを盟主とする資本主義陣営に与した日本社会の反共意識が反映していたのである。「社会主義圏では報道の自由はなく、制限と管制のもとに置かれる」という思い込みもまた、半ばは事実にもとづき、半ばはこの反共意識による。この日、荒牧さんは自らのカメラマン人生の思い出として日本の皇室の写真が自由に発表できなかったというエピソードを語った。半世紀前の中国での報道の制限は、制限をかいくぐってこうした写真を発表できる程度の「制限」だったが、日本では、現在も、皇室の写真は発表すらできない「制限」なのである。この事実をとってみても、社会主義に報道の自由がなく、資本主義に報道の自由があるという思い込みは、事実に合致していないことがわかるだろう。
 (M)

2022/02/03 死んでも許してはならない差別主義者

いくつかの石原慎太郎の訃報は,彼の「失言」に触れた。失言とは何か。その語義を『明鏡国語辞典』では「言ってはならないことを,うっかり言ってしまうこと。また,そのことば。」としている。石原の,女性や障害者,在日朝中人民,病者に対する発言は,立場と思想の根っこからきた必然であり,けっして「うっかり」ではなく,個人的な「石原節」などではない。彼の差別主義者の本質をあらわしており,決して「失言」などではない。死んでも絶対に許してはならない。死者の思想を鞭打ち,葬れ。

 2001年4月9日,都知事石原慎太郎は,陸上自衛隊第1師団の記念行事に出席し,「東京では不法入国した多くの三国人,外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな災害が起きた時には,騒じょう事件すら想定される」と発言した。以下が,死んでも許してはならない彼の「三国人」発言の内容である。これを読めば明らかなとおり,石原は「確信犯」である。 →出典:毎日新聞(web.archive.org)

石原知事「三国人」発言

陸自記念行事で(9日)

 本日は陸上自衛隊、そして第1師団の創設記念にお招き頂きまして、ありがとうございます。そしてまた、この機会に国民、都民を代表しまして、皆さんへの改めて大きな期待を述べさせて頂きたいと思います。

 今日(こんにち)の日本を眺めますと、残念ながらどうも国の外側も内側もタガが緩んできたなという感じを否めません。ずうたいの大きな経済国家でありますけども、この日本の姿、社会に起こっている出来事を眺めますと、何か肝心なものが欠けてしまっているなという感じが否めません。私たちのうちに、自分たちが属する伝統のある、力のあるこの日本という国家社会に対する意識が、どれほどあるかなという疑念がわいてまいります。

 国家の国民に対する責任の最大のものは国民の生命と財産を守るというのは自明なことであります。そしてまた、国民もそれを期待するがゆえに国家というものに対する責任あるいは忠誠というものを抱いてるに違いないが、しかし、残念なことに今日の日本の政治を眺めますと、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にら致されていた、いたいけなあの少女1人を救うこともできずに、これは政府の責任であると同時に私は国民1人1人の責任というものが結束していないその証拠ではないかという気が強くいたします。

 まあ、あまり物騒なことは申しませんけども、私たちどうもですね、この敗戦後の50年間、実に見事に内側からも外側からも解体されたという気がしてならない。私の大の友人でありました評論家の村松剛君が交換教授に行った帰りに、ニューヨーク・タイムズに寄りまして、私たちが戦争に敗れた時(1945年)の8月15日、向うの14日のニューヨーク・タイムズの論説、そしてまた、数か月前、ドイツの敗れた日の論説をコピーして、持って帰ってくれました。私とこれも今は亡き、(作家の)三島由紀夫さんに一つの資料としてくれた。非常に対称的なことに、ドイツの降伏は当たり前に扱われておりますが、日本の降伏の場合には非常に醜い大きな怪物の姿が、そのあんぐり開いた口からアメリカの兵隊が3人でやっと大きな牙を抜いている。そして、その解説にこの怪物は倒れはしたが、まだ骨と牙は抜き去られていない。我々は永久にかかっても、この解体をアメリカのために世界のためにするんだという記事がありました。

 彼ら白人にとってみると、日本人だけが有色人種の中で唯一見事な近代国家を作ったということそのものが、意に沿わない事実だったのでありましょう。ゆえに、このへんを非常に危険視したアメリカは、あのいびつな憲法に象徴されるようにこの日本の解体を図って、残念ながらその結果が今日露呈されていることをだれも否めないと思います。

 そういう中で皆さん、ある意味で社会の中に途絶された形で、場合によっては白眼視されながら日々精励され、この国家をいったん緩急の時には守る、国民の生命を守る、財産を守るために精励していらっしゃる。これは当たり前のことであると同時に、実は日本の社会にとって稀有(けう)なことであると、残念ながら思わざるをえない。どうか一つこういった状況に決して屈することのないように、いったん緩急の時に崇高な目的を達成されるために精進を続けて頂きたいということを、改めてこの機会に国民、都民を代表して熱願する次第でございます。

 先程、師団長の言葉にありましたが、この9月3日に陸海空の3軍を使ってのこの東京を防衛する、災害を防止する、災害を救急する大演習をやって頂きます。今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな大きな騒じょう事件すらですね想定される、そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そういう時に皆さんに出動願って、災害の救急だけではなしに、やはり治安の維持も1つ皆さんの大きな目的として遂行して頂きたいということを期待しております。

 どうか、この来る9月3日、おそらく敗戦後日本で初めての大きな作業を使っての、市民のための、都民のための、国民のための大きな演習が繰り広げられますが、そこでやはり、国家の軍隊、国家にとっての軍隊の意義というものを、価値というものを皆さんは何としても中核の第1師団として、国民に都民にしっかりと示して頂きたいということをここで改めてお願いし、期待して、本日の祝辞と皆さんに対するお礼と期待の言葉にさせていただきます。頑張って下さい。

青ケ島村で(10日)

--第三国人という発言が波紋を呼んでますが。

 知事 何かいけないことを言いましたか。戦後の混乱の中で、せっかく作った青空市場で、いわゆる三国人がその中には韓国系、朝鮮系、中国系、アメリカ軍もいて、不法なことをあえてする。我々に実害を与える外国人のことを当時の新聞は三国人と報じていた。おれはそのつもりで使った。東京だって不法入国した顔色がそれぞれ違った身元のはっきりしない人たちがいっぱいいる。その人たちが必ず騒じょう事件を起こすと私は思うし、だからその事実を考えましょうと言っただけだ。

--各紙が大きくとりあげてますが。

 知事 銀行が裏にいるわけではないだろうけど、どこに問題があるか言ってもらいたい。おれは自分の慣用語として戦後の歴史を踏まえて、古い人間だから、古い表現を使ったのかもしれないが、差別というのはまったくない。

 日本人にとって厄介な、迷惑千万な外国人のことをかつて第三国人と表現した。第三国というのは交渉を国際関係する、それをウォッチしながら口をはさんだり、調停してくれる日露戦争の調停をしたような国を第三国という。そこから戦後の混乱の中で日本人が迷惑させられた、居丈高な外国人のことを言った。日本人が一番弱い立場にあった時だ。科学的に、言語学的になぜいけないのか説明してもらいたい。

--(三国人は)差別用語と言われてますが。

 知事 どうして差別用語なの。日本人が彼らにひどい目にあって、それを皆で守る自警団まで作った。歴史を知らない馬鹿どもがいっている。歌舞伎町だって池袋だって危うい。東京の犯罪はどんどん凶悪化している。だれがやっているかといえば全部三国人、つまり不法入国して居座っている外国人じゃないか。スネークヘッドだってそうだろう。ブルド-ザ-で宝石店に穴をあけて、そのまま香港に持っていく。

 だから関東大震災の時は流言ひごで朝鮮の人達が殺されるようなことになる。今度は逆に不法に入国している外国人が必ず騒じょう事件を起こす。ロサンゼルスみたいに犯罪を繰り返しているその種の外国人のことを言ったので、他の意味はない。

2022/01/31 印刷する権利を侵すものは人民の敵である ――「民主」と「人権」2

香港でのメディア弾圧をどうみるか。昨2021年6月「蘋果日報(アップルデイリー)」,同12月「立場新聞(スタンド・ニュース)」,2022年1月「衆新聞(シチズン・ニュース)」と,幹部の逮捕,資金差し押さえなどによる業務停止が相次いだ。

 ()これは,中国の国家権力と政府による「印刷する権利」への侵害である。印刷する権利は,人間の本源的権利である。何びとも,この権利は侵されてはならない。
 印刷する権利は,諸権利のなかでも結社の自由と権利とならぶ基本的権利であり,これがどう扱われているかに,その社会の本質があらわれる。
 歴史を振り返ってみよう。1789年,フランスの「人および市民の権利宣言」は「すべての市民は,自由に発言し,記述し,印刷することができる」と宣言した。そして,中国の人民はプロレタリア文化大革命で壁新聞(大字報)を生みだした。中国共産党は1970年,この人民の創意を採り上げて憲法に明記した。「第13条 大いに意見をのべ,大胆に意見を発表し,大いに弁論し,大きな文字の壁新聞を貼るのは,人民大衆が創造した社会主義革命の新しい形態である」。これまでに労働者階級人民が実現した,印刷する権利の最高形態だった。しかし,資本主義に変質した中国は1978年の憲法改正でこの条文を削除した。社会主義と共産主義は印刷する権利を認め,資本主義は印刷する権利を侵す。
 したがって,香港で惹起したメディア弾圧は,中国が人民の権利を守る社会主義ではなく,人民の権利を侵す資本主義であることを証明している。

 ()香港におけるメディア弾圧について,日本や欧米のジャーナリズムが書きたてている「民主主義と独裁」という俗論を批判する必要がある。世界初の労働者人民の国家,ソビエト連邦はストライキ権を認めなかった(ロシア革命の烽火はモスクワ・カザン鉄道の労働者ストライキだったことを想起せよ!)。やがて,資本主義に変質し崩壊した。同じように,中国も大字報(壁新聞)の権利とともにストライキ権を1982年に削除し,そして社会主義の旗を下ろしてしまった。これは,ソ連・中国の官僚たちの「労働者の国にストライキは存在せずストライキ権は不要」という形而上学であり(→小森田秋夫「ロシアにおける労働紛争と法」),権力を握ったのち,初心である国家の廃絶を捨て去った共産党の堕落と変質に起因する。党が変質した結果,民主主義を質的に進化させるための社会主義と共産主義が,あたかも民主主義に反する「独裁」であるかのように描き出されてしまったのである〔この項,追って詳論予定〕。

 ()結論。印刷する権利を実現するためには,変質しない社会主義と共産主義が必要であり,そのための革命を実現することである。日本に印刷する権利があるというのか。否,断じて否。紙,インキ,印刷機から配布にいたるまで,労働者人民の自由と権利はない。社会主義と共産主義を! (M)

【参考文献】前田年昭「大字報の権利を保障した文革憲法」2017年4月

2022/01/15 人民とは? ――「民主」と「人権」1

『朝日新聞』社説余滴1月9日付に,古谷浩一「「人民」って一体誰のこと?」が載っている。これを,共産主義,社会主義に対する現下の「俗論」,だがしかし,共産主義,社会主義の側からの明解な批判がいまだにみられない重要問題のひとつとして採り上げ,検討してみたい。
 国際社説担当・古谷氏は【「人民」という単語。英語ではピープル,日本では人々と訳されることも少なくないが,中国では反体制以外の人とか,「敵対勢力」ではない人といった意味を持つ。】として,【敵と見なされた人々は封殺される。〔中略〕香港では立法会の選挙から民主派が排除された。それでも中国の高官が「民主的だ」と強弁するのは,敵を取り除いた選挙がまさに「人民の民主」の実現だからにほかならない。】と指摘している。
 社会主義はいまや「民主主義」の対義語にされてしまった(ちなみに,『現代思想2017年10月号 特集=ロシア革命100年』までが,10月革命を民主主義の死の始まりと描くという基調で貫かれていた)。これはほんとうなのか。
 共産主義,社会主義には「民主」も「人権」もない,という現下の「俗論」を検討する前提として,「人民とは何か」をはっきりさせておきたい。古谷氏は【「人民内部では民主制度を実行する。選挙権は人民だけに与え,反動派には与えない」。毛沢東は1949年にそう言っていた。〔中略〕異論を唱える人を排除し,切り捨てるのは民主だろうか。そんな考えを認めることはできない。】という。
 毛沢東はいつどこで何と言ったのか,確認してみよう。毛沢東は,「人民民主主義独裁について」(1949年6月30日)のなかで,次のように言っている。

 人民とはなにか中国ではそして現段階では,労働者階級,農民階級,都市小ブルジョアジーおよび民族ブルジョアジーである。これらの階級が労働者階級と共産党の指導のもとに団結し,自分たちの国家をつくり,自分たちの政府を選び,帝国主義の手先すなわち地主階級と官僚ブルジョアジーおよびこれらの階級を代表する国民党反動派とその共犯者たちにたいして独裁をおこない,専制をおこない,これらの連中を抑圧し,かれらに神妙にふるまうことだけをゆるし,勝手な言動にでることをゆるさないのである。勝手な言動にでれば,ただちにとりしまり,制裁をくわえる。しかし,人民の内部では民主制度を実施し人民は言論集会結社などの自由の権利をもつ選挙権は人民だけにあたえ反動派にはあたえない。この二つの面,すなわち,人民内部における民主の面と反動派にたいする独裁の面が結びついたものが人民民主主義独裁である。】(『毛沢東著作選』p.537)

 古谷氏が引いている元の文はこれだろう。しかし,古谷氏は前提を落としてしまっている。毛沢東は,「中国ではそして現段階では」と限定したうえで,1949年における中国での内容を論じている。人民とは,実態概念ではなく,ある時代のある社会と限ったなかでの機能概念である。労働者人民の解放にとって障碍となる勢力と闘っている人びとを指す動的,主体的な概念なのである。
 したがって,たとえば現在の,中国の党と権力,政府の香港政策が,正しいのか間違っているのかは,2022年における中国と香港の階級分析として論じなければならない。ましてこれをもって共産主義,社会主義への批判とするのは,間違っている。日本で人民とは誰のことかも具体的な分析にもとづいて規定される。 (この項,つづく)(M)


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