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繙 蟠 録 2009年8月前半

2009/08/15 続報《中国人俘虜殉難者慰霊大法要》

8/10付のつづき。〔以下,転載紹介〕09/08/08新華社:中華人民共和国駐日本国大使館から

惨死した強制連行中国人の霊を慰める

 本久寺は東京の台東区にある静かなたたずまいのお寺だが,8日朝はいつもの静けさとうって変わり,僧侶たちが早く起床し,祭壇を設え,中国から来た僧侶と一緒に読経して,60年余り前に日本に強制連行され,むごたらしく死んだ中国人の霊を慰めた。

 お寺の外では,「世界平和を祈る・中国人俘虜殉難者慰霊法要」の横断幕が厳粛な雰囲気を漂わせていた。法要が始まる前から,お寺の周りの小道は,取材の記者や参拝の市民で身動きできないほどだった。

 日本で殉難した中国人労働者のために中日両国が共同で法要を行ったのは初めて。立ち上る線香の煙と悠遠な鐘の音は人々を半世紀余り前に連れ戻した。

 第2次大戦中,日本軍国主義は中国に対し大規模な侵略戦争を起こした。侵略者は抗日の軍民と罪のない庶民を強制連行して,日本で労役をさせた。そして無償の労働を強い,非人間的扱いをし,多くの死者と障害者をだした。

 第2次大戦中,日本に強制連行された中国人の話になると,「花岡事件」に触れざるをえない。1945年6月30日夜,秋田県北部の花岡で,怒りを抑えきれない700人余りの中国人労働者が蜂起した。日本の当局は2万人の軍人・警察を出動させて鎮圧にあたった。酷暑の7月,中国人労働者は両手を縛られ,石畳の広場に跪かされ,3日3晩飲み物食べ物を与えられなかった。そのうえ罵られ,殴られた。数日後,広場一面に死体が横たわり,目を覆うほどの光景となった。

 当時の惨状について,慰霊祭に参加した「花岡事件」の生存者,87歳の李鉄錘老人は目に一杯涙を浮かべ,何度も頭を振った。そして体を震わせながら言った。「実にむごかった,いまでもあの出来事は思い出したくない……」

 中国人は死者の埋葬を重んじる。日本の華僑と日中友好人士はつねに中国人労働者の遺骨のことが気がかりだった。事件で犠牲になった中国人労働者の遺骨が60年前に花岡で発見されてから,日本の友人,朝鮮の友人と在日華僑は共同で,全国的範囲の,困難な遺骨探しの活動を始めた。その努力により,1953年から64年までに,中日国交正常化に先立って,連行中国人の遺骨が9回に分けて祖国に持ち帰られた。これらの遺骨は現在,天津市烈士陵園の「在日殉難烈士・労働者記念館」に安置されている。遺骨探しのために大きな努力を払った友好人士と在日華僑らは,周恩来首相の接見を受け,たたえられた。

 この日,日中友好宗教者懇話会と中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の入念な組織と手配の下で,強制連行された中国人殉難者の遺族70人余り,台湾の名士高金素梅氏の率いる少数民族の人々50人余りおよび中日両国各界の友好的人々100人余りが本久寺で行われた追悼慰霊行事に参列した。両国僧侶の読経の声が流れると,人々は感極まり,会場は嗚咽に包まれた。崔天凱駐日中国大使,江田五月参議院議長,中国仏教協会副会長の学誠・法師,斉暁飛中国国家宗教事務局副局長,郭長江中国紅十字会副会長らが慰霊祭に出席し,焼香した。

 異郷で客死した中国人の魂が故郷に戻るようにと,主催者は中国の市民を組織して数千足の黒い布靴をこしらえた。そして8月9日,中国人遺族,友好人士,日本の熱心な市民と一緒に,これらの布靴を芝公園の芝生に並べて,死者の魂をなぐさめた。

 崔天凱大使が慰霊祭で述べたように,人々は中国人殉難者の悲惨な境遇を振り返り,哀悼の気持ちを表すと同時に,侵略戦争の残酷さ,平和・友好の貴さを一層深く感じた。中日両国は共に,歴史を鑑とし,未来に目を向ける精神で,過去の不幸な歴史を正しく認識し,歴史が残した教訓を深く汲み取り,決して痛ましい歴史を繰り返させないようにすべきである。 (東京8月8日発新華社)】

関連: 遺骨発掘60周年 中国人強制連行殉難者のための慰霊と公道を求める八月行動(ムキンポ小僧のAlso Sprach Mkimpo Kid:写真必見!)/ 【ご案内】中国人強制連行受難者のための慰霊と公道を求める八月行動(平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動実行委員会)/ 通訊:6830雙布鞋――悼念在日本死難的中國勞工(09/08/09新華網:写真必見!)/ 通訊:為慘死在日本的中國勞工慰靈祈福(09/08/08新華網)/ 崔天凱大使の中日共催中国人俘虜殉難者追悼慰霊活動でのあいさつ(09/08/08中華人民共和国駐日本国大使館)/ 八月八日に「合同慰霊法要」 日中宗懇総会で活動計画協議(09/05/28中外日報)

2009/08/13 台湾原住民が祖先の霊の返還を要求し靖国神社への突撃に成功

還我祖霊隊a 還我祖霊隊b
〔写真は,09/08/11付『祖靈之邦』ウェブから〕
 

〔以下,転載紹介〕私の愛読ブログのひとつ「回虫」2009/08/12付から。

靖国神社への突撃に成功
台湾原住民が祖先の霊の返還を要求

2008年8月11日 中央社 中央社記者 張芳明 東京11日電

 中華民国立法委員の高金素梅は台湾原住民「還我祖霊隊」約50名を引きつれ,靖国神社への突撃にはじめて成功した。正殿前で「安魂曲」を高らかに歌い,靖国神社が祖先の霊の合祀をやめ,日本政府は反省し,謝罪と賠償に応じるよう求めた。

 高金素梅の一行は,9時30分ごろ,車で靖国神社に到着し,「祖先の霊を返還するよう靖国神社に要求する」などと書かれた横断幕を掲げ,隊列は正々堂々と靖国神社の正殿に向かい,スローガンを叫んだ。靖国神社の警備員が立ちふさがり,横断幕を奪い去ろうとした。

 還我祖霊隊は警備をかわして,正殿前の広場まで進み,「還我祖霊!」(祖先の霊を還せ!)というスローガンを叫び,日本政府が植民地時代に台湾原住民に対して行った迫害に対して反省し,謝罪と賠償に応じるよう要求した。

 警備の数が増えて,還我祖霊隊の行動を妨害し,原住民の隊員の数名が軽傷を負った。

 高金素梅は正殿前で,靖国神社が合祀をやめ,日本政府が反省と謝罪と賠償を行うよう要求した。

 それに続いて還我祖霊隊が「安魂曲」を歌い,早くに靖国神社に強制的に合祀された祖先の霊を弔った。30分間の行動を終えて,靖国神社の正殿から正々堂々と撤収した。

 その後,高金素梅は台湾メディアに対して,一部の隊員がどうしても靖国に合祀されている祖先に安魂曲を届けたい,ということで急遽この行動を行ったことを明らかにした。平和的な行動に徹していたが,神社側の警備員の対応が余りに酷かった。しかし隊員たちは終始平和行動の原則に徹し,警備側の粗暴な対応を阻止することに徹したという。

 以前,日本の法律に従って靖国神社までの行進を申請したことがあり,警察も神社内の一区画で行動することに同意していた。しかしホテルから出発した後に,右翼の妨害が激しいという理由で,警察はわれわれを神社に入れなかった。そういう事情があったから,今回は特に事前の準備もせずに靖国神社に来た,と高金素梅は語った。

 高金素梅とすべての隊員たちは今回の行動が成功したことに喜び,安堵している。高金素梅は,もし靖国神社が合祀名簿から祖先の名前を削除せず,日本政府が謝罪をしないのであれば,正義を実現するために毎年日本にやってくる,と語った。

 高金素梅と還我祖霊隊は7日に日本に到着し,昨日は国会に対して抗議を行なった。全隊員は今日の午後に一連の行動を終えて帰国する。】

出典:09/08/11『祖靈之邦』ウェブ
関連:高金素梅率隊首度突襲靖国神社成功 YouTube
11日、台湾原住民50人が靖国神社に突入(09/08/11 虹とモンスーン)/ 反日の台湾女性議員ら靖国神社でもみ合い(09/08/11 MSN産経ニュース)

2009/08/10 中国人俘虜殉難者慰霊とは何よりも「戦後」批判をたたかうことである

8月8日,東京で《中国人俘虜殉難者慰霊大法要》が行われた。戦時中に強制連行され,日本各地で無念のうちに死んだ中国人6830人全員を弔う初の日中合同の慰霊祭だった。合掌!

 8月を平和の季節とするすべての言説はあやしい。すべては疑いうる。国内非国民処刑制度としての死刑を容認した「憲法9条擁護論」,過去から現在にいたるアジア侵略を不問にした「不平等と格差論議」――これらは本質を覆い隠すまやかしである。事実を覆い隠す者こそその事実を作り出した犯人である。8月を平和の季節とする意見がなぜあやしいかといえば,それは侵略戦争責任に頬被りし「戦後平和」を賛美する年中行事になっているからである。

 36年間におよぶ朝鮮侵略,植民地支配を始め,台湾,中国大陸,東南アジア等への侵略,支配,「国内」植民地としてのアイヌ・モシリ,沖縄の同化,吸収――この日本の歴史を隠蔽するものが,「戦後」賛美であり「戦後民主主義」賛美である。したがって,慰霊は何よりも「戦後」批判から始める必要がある。

 反日反帝の質をもたない朝鮮ナショナリズム,反日反帝の質をもたない中国ナショナリズムは侵略のイデオロギーである。しかしここで留意すべきことは,被抑圧民族のナショナリズムと抑圧民族のナショナリズムとは同列に論じることはできない。被抑圧民族にあっては抑圧に対する反抗のひとつとしてナショナリズムがあるからである。

 過去の侵略の歴史的責任を回避しつづけ,侵略をつづける日本に対しての,帝国主義宗主国本国人としての闘いはまず,「戦後」批判,「戦後民主主義」批判として始められる。(M)

【報道】強制連行死6830人弔う 日中合同慰霊祭 劉さん遺族も参列(09/08/08北海道新聞)/ 中国人の強制連行死6千人弔う 日中が初の合同慰霊祭(09/08/08 47NEWS)/ 中国人強制連行:36年ぶり慰霊祭 遺族来日-東京(09/08/08毎日新聞)/ きょう中国人強制連行慰霊祭 妨害懸念し会場変更(09/08/08北海道新聞)/ 中台が「抗日」で連携=中国人強制連行で抗議と慰霊へ(09/08/07時事)
【関連】強制連行の朝鮮人遺骨(読書録 総集編 vol.9)

2009/08/07 「ソフトランディング」論は,被抑圧民族の怒りに対する恐怖の表明である

かつての「暴支膺懲」とうり二つの「北朝鮮の核施設への先制攻撃」という主張に対しては眉をひそめる日本の「リベラル・左派」。一方,彼らは「北朝鮮の“暴発”を防いでソフトランディングを」という主張には安心して胸をなでおろす。

 ニュー・アカデミズムのリーダー浅田彰は7年前,田中康夫との対談で「北は,金日成から金正日へ代わってますますひどくなり,狂気のテロ国家と化した。90年代後半の飢饉のとき,さすがにこんな体制は長くもつまいと思ったんだけど,結構もっちゃったのは見込み違いだったと認めるよ。でもまあ,終わりはすでに始まってると思うんで,大切なのは,最後のあがきで暴発するのを抑え,ソフト・ランディングに導くことだ」と言った(『週刊ダイヤモンド』2002年12月号「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル)。

 アフガニスタンでもイラクでも連綿と“暴発”を続けるアメリカに対してでなく,北朝鮮に対して「暴発するのを抑え,ソフト・ランディングに導く」と浅田が言うのはいったいなぜなのか。私にはその姿は,41年前(1968年)の金嬉老事件の際,被抑圧民族の憤怒の前に恐れおののき,ただただ“ライフル魔”と切り捨て目をそらそうとした当時の「リベラル・左派」と同類のいやらしさを感じる。単身決起した金嬉老は,現在の北朝鮮やイスラムに至る抵抗者たちの先駆のひとりである。そこには,絶望的なまでの革命勢力の衰微のあまり野垂れ死ぬのか闘って死ぬのかを問い詰めざるを得なかったがゆえの〈私戦〉としての憤怒と抵抗がある。

 メルロ・ポンティは次のように書いている。

 【暴力に対する暴力を控えるということは,暴力の共犯となるということである。わたしたちは,純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく,異なった種類の暴力のどれかを選ぶべきなのである。受肉した存在であるわたしたちにとって,暴力は宿命である。】(合田正人訳『ヒューマニズムとテロル』みすず書房,2002年,p.159)

 「テロにも戦争にも反対」という喧嘩両成敗的考えや「ソフトランディング」論をふりまく「リベラル・左派」のなかには,民族差別抑圧に対する義挙に起った金嬉老烈士を「暴徒」扱いする帝国主義宗主国人の醜い感性が生き続けている。弱々しくあきらめていると思っていた者どもの蹶起を前にして,彼らはこの叛乱を自らの視界から排除しようとする。しかし,反撃の暴力を非難する者は,権力の暴力の共犯者である。(M)

【ダイジェスト動画】お母さん、許してください~日本初の劇場型犯罪・金嬉老事件の真相~(報道発ドキュメンタリ宣言,TBS,2008年11月24日)

2009/08/06 「雨の降る品川駅」の読み方

差別され抑圧される側の人びとの言うこと,することはみな正しい――私自身も高校を中退し,日雇労務者の街・釜ヶ崎へ行った当初はそう思い込んでいた。しかし,共に働き,暮らすうち,思い込みの誤りは現実によって正されていった。私が「下放」したのは,彼らが正しいからではなく,彼らが抑圧される側に立たされているからだった。差別抑圧されている人なら誰でもみな正しいという思い込みは,全共闘運動の積極面の反動,正しさが行き過ぎた誤りだった。差別され抑圧される人びとの社会運動に対する,日本の社会運動の利用主義と政治主義は,7・7華青闘(華僑青年闘争委員会)告発以降さらに検証され,反省された。調査と点検もまた個別具体的に事実に即してなされるべきであり,“気分”による代理告発は百害あって一利なしである。

 中野重治の詩「雨の降る品川駅」。

 このなかの「日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾」という表現が,「違いを認めあう対等な立場での連帯ではなく,朝鮮人を取り込んで利用してきた日本の革命運動の欠陥と同じものをはらんでいる」のではないかという批判がある。尹学準「中野重治の自己批判 朝鮮への姿勢について」(『新日本文学』1979年12月号)につづく水野直樹「「雨の降る品川駅」の事実しらべ」(『季刊三千里』21号 1980年春)は,そうした全共闘後の“気分”のなかにあった。

 これに対して,鄭勝云(ジョン・スンウン)『中野重治と朝鮮』(新幹社,2002年11月)は,「雨の降る品川駅」の初出,朝鮮語訳,朝鮮語訳からの水野再翻訳,現行形など15の版を比較し,〈盾〉〈うしろ盾〉〈前衛〉について辞書の語釈,中野の他の作品での使用例,さらに聖書のなかでの使用例まで検討を加えた。そのうえで鄭さんは,「日本プロレタリアートのうしろ盾先駆け」とする読みを提示し,朝鮮日本プロレタリアートの「国際的な連帯意識の表現」と結論づけた。辞書にない〈まえ盾〉は決して日本人の“弾丸よけ”の意などではなく,「〈前衛〉の意味として理解すべきではなかろうか」というのである。

 私は鄭勝云さんの読みに賛成である。何よりも具体的事実に即して丹念に調べるという立場と姿勢に,心からの敬意を持って共感する。(M)

【資料「雨の降る品川駅」】
 1978岩波文庫版
 1929改造版+1980水野直樹+2002鄭勝云
 初出形
 朝鮮語訳の再日本語訳形
【参考『中野重治と朝鮮』書評】
 03/02/01 民族時報 第996号

2009/08/01 戦後民主主義と戦後日本賛美は,帝国主義宗主国におけるブルジョアジーと貴族的プロレタリアートによる共同支配の旗印だ

大日本帝国はあらゆる毛穴から朝鮮・琉球・アイヌ・中国などアジア人民の血を滴らせて生まれた。大日本帝国はアジア人民の抵抗戦争に敗れたが,アメリカの庇護と指示の下,戦争責任を頬被りした「戦後」日本国家に継承された。アジア主義革命は第二維新としての西南戦争と昭和維新の敗北,民権から国権へ変質によって敗北した。

 「戦後」とは,国際的には米ソによる「平和共存」,国内的には保革による「戦後民主主義」というそれぞれの共同支配体制であった。66-69文化大革命と68-69全共闘運動はこの「戦後」に対する根柢からの叛乱だった。「平和共存」はソ連の崩壊と中国の変質によって,また「戦後民主主義」は「革新」勢力の潰滅によって,「戦後」支配は再編成されつつある。権力支配隠蔽のイチジクの葉はいま,国際的には「反テロ戦争」であり,国内的には「戦後日本賛美」である。佐藤優現象(註1~註4)はその典型的な翼賛表現である。

 金光翔さんは佐藤優現象との闘いを通じて現状を「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」で,次のように的確に描きだしている。

 【日本国家は,過去清算抜きの大日本帝国の継承者である。その土台の上で,「ウヨク」または「サヨク」は,「平和国家」日本という仮面を,仮面と意識せずに,掲げているわけである。そしてのこの,「戦後レジーム」,「平和国家」日本を擁護する人々は,極右勢力と距離を置くか対抗しようとする。ところがその極右勢力は,まさに日本国家の土台の価値観と親和的である。ところが日本国家の建前は「平和国家」日本である。/このメビウスの輪のような循環における,「ウヨク」または「サヨク」と極右勢力の抗争のプロセスを通じて,従来はこの土台自体に批判的だった市民派や左派勢力,従来は政治的な問題に無関心だった大衆の一定層が,組み込まれていくことになる。〔中略〕「戦後社会」の擁護というイデオロギーが中軸に置かれることで,右派勢力が従来の左派の大部分を包含し,社会的基盤を拡大したと言える。したがって,今後,日本の右傾化はよりスムーズに進む,と思われる。】〔同 11〕。【「平和国家」という自己認識を持つ「ウヨク」または「サヨク」たちは,一致して,格差社会の惨状を嘆き,村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに涙し,北朝鮮の核実験に対して「唯一の被爆国」としての怒りを表明し,在特会のあからさまかつ行き過ぎた言動・行動に眉をひそめる。みんな,いい人たちで,「平和」を愛する人々なのだ。「一党独裁支配」の中国や北朝鮮,ナショナリズムが「過剰」で徴兵制のある韓国,軍事的緊張化に置かれている台湾など,周辺諸国は「平和」とはほど遠い状態だ,それに比べてわが日本は・・・と彼ら・彼女らは,「戦後日本」とこれからの日本に誇りと自信を持っていることだろう。/日本国家の右傾化は,こうした,日本が「東アジア唯一の平和国家」だという自己認識を持った人々による,日本国内の極右勢力との抗争プロセスを通じて,意図せざる形で,進むことになる。】〔同 12

 この金光翔さんの指摘の正しさは,日本の「左派」が事実で証明している。たとえば,アメリカの「対テロ戦争」を批判する際になぜ「フセインやタリバンを支持するわけではないが」と言い訳し,北朝鮮船舶に対する公海上での臨検を批判する際になぜ「北朝鮮を支持するわけではないが」と前置きするのか。また,日本の政府と国家権力による朝鮮総聯や朝銀信用組合などに対する干渉と弾圧を批判する際になぜ「総聯を支持するわけではないが」と語り始めるのか。ここに,日本帝国の“よき臣民”としての日本人(およびその日本人にすり寄って媚びる一部アジア人)の姿がある。

 また,日本の新旧左翼はいまや,帝国主義宗主国内部の「被害」を訴えて「格差是正」という名の権益の配分獲得運動に奔走している。しかし,自らの加害の側面への自覚とその自覚をとおした自己変革なき運動は社会変革の力になりえないのである。(M)

(註1)金光翔「〈佐藤優現象〉批判」(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)
(註2)愼蒼宇「金光翔氏の<佐藤優現象>批判によせて」2009年7月28日
(註3)金玟煥「日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で――沖縄平和祈念公園を通して見た沖縄戦を巡る記憶間の緊張」2009年4月1日
(註4)早尾貴紀「佐藤優氏のイスラエル支持について」2009年3月1日


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