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繙 蟠 録 2009年6月後半

2009/06/29 再論・all natural personsとpeople,人民と国民

6/15付で私は,戦後民主主義とは植民地支配無責任体制を覆い隠すイチジクの葉だと断じ,「法の下の平等」の権利を保障した対象が「一切ノ自然人(All natural persons)」(GHQ草案)から「people(人民)」(日本国憲法英文)へ,さらに「国民」(日本国憲法)へとねじ曲げられた史実を指摘した。

 経過は,国立国会図書館電子展示会「日本国憲法の誕生」(2003-2004/05/03)にまとめられている。1946年2月8日,日本政府はGHQに「憲法改正要綱」提出,そこでは「日本臣民ハ本章各条ニ掲ケタル場合ノ外凡テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ侵サルルコトナキ旨ノ規定ヲ設クルコト」とあった。2月13日,GHQはこの「憲法改正要綱」を拒否,日本側にGHQ草案を手渡したが,それが前述の「一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ」だったのである(同草案は民政局(GS)内で書き上げられ,2月10日マッカーサーのもとに提出され,マッカーサーは,局内で対立のあった,基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する規定の削除を指示した上で,この草案を基本的に了承した)。

 前段(一切ノ自然人から人民へ)の変更はマッカーサーと民政局,および民政局内の思想闘争の反映であろうか。後段(人民から国民へ)の訳語すり替えについては,笈野泉が「日本変革の条件(11)―「国民」が「者」になるまで(前編)」(09/06/15 JANJAN),「同(12)同(後編)」(09/03/24 同)で『敗北を抱きしめて』『ビッソン日本占領回想記』などを参照しつつ,まとめている。それによると,主導者は佐藤達夫ら日本側官僚であり,「凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ法律ノ下ニ平等ニシテ」から「凡ソ人ハ其ノ法ノ下ニ平等ニシテ」へ,さらに「すべて国民は,法の下に平等であつて」へ,【「人民」が「国民」へと置き換わる過程は,憲法上の保障から「外国人」が排除される過程】(笈野)だった。さらに「日本国民たる要件は,法律でこれを定める」という条文を第10条として新たに挿入,1950年にその具体的内容を国籍法として,植民地宗主国臣民の度合によって格付けた。

 それはともかく1940年代後半から50年頃までは一般商業紙誌も含めて「人民」が使われ,皇居前広場は人民広場と呼ばれていた。これが50年代半ばから左翼運動のなかでも「国民」へと変化する(国民的歴史学,国民的科学など)。背景には日本共産党が徳田球一の死(1953)後,六全協(1955)を経て変質し,国際主義と暴力革命を投げ捨てたことがある。かくして,戦後民主主義は,植民地支配無責任体制を覆い隠す「左」右両翼の国民(臣民)による新たな翼賛体制(55年体制)として,朝鮮中国はじめアジア人民を排除して,完成したのである。

 ちなみに,革命を堅持していたころの中国は,北京編集・出版の日本語版『人民中国』で中国語の「日本人民」を「日本のみなさん」と訳すが,「中国人民」を日本語に訳すときは「中国人民」だという(竹内実『中国 同時代の知識人』合同出版,1967)。日本に〈日本人民〉が再び登場するのはいつのことだろうか。(M)

2009/06/25 船本洲治同志を追悼する

34年前(1975年)のきょう,船本洲治同志は沖縄の米軍嘉手納基地前で焼身した。同年7月4日,西成市民館(大阪・釜ヶ崎)で行われた人民葬で発表された追悼文を以下に掲げ,34周年の日の追悼とする。

船本洲治同志を追悼する
――船本同志は労働者人民の闘いの中に生きており,不死身である……

暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議
山谷悪質業者追放現場闘争委員会

 I

 一九七五年六月二五日,船本洲治同志(コーちゃん)は沖縄の米軍嘉手納基地前において,海洋博粉砕! 皇太子来沖阻止! 朝鮮革命戦争に対する反革命出撃基地粉砕! 米帝の北朝鮮に対する核攻撃を断固阻止せよ! と叫びながら焼身した。

 船本同志は警察権力の悪らつな攻撃によって,公然と闘う場を奪われながらも,新たなる闘いのため,全国工作隊として活動し,闘いの最先端を切開いてきた。それに対し,とうとう最後まで彼の苦闘を共有できなかった我々は,現在語るべきことばを持たない。

 船本同志の突然の「死」を前に我々は深い悲しみと憤りをおぼえる。それはまず,彼の闘いに対する敵権力のドス黒い野望への憎しみであり,同時に,彼につづいてなすべきことをなしえなかった我々自身へのくやしさでもある。

 船本同志は,人民のために生き,人民のために死んだ。生きるために死んだのであり,闘いの中で倒れたのである。孤立して死んだのではなく,闘う労働者人民の中に永遠に生き続けているのである。

 II

 船本同志はよきトビでもあり土方でもあった。彼はわれわれの解放の闘いを大きく前進させた。一九六八年山谷において開始されたその闘いの小さな火花は,一九七二年五月以降,釜ヶ崎・山谷の大衆的な闘いとして燃え広がった。その中で船本同志は常にその先頭となって闘い,仲間たちに非常に多くのことを教え,また身をもって示した。

 まず第一に,労務者とよばれる流動的下層労働者こそが最も労働者らしい労働者であり,未来をわがものとする階級であること。

 次に,今の社会で全てを奪われ,「弱者」としてさげすまれている者こそが敵を倒す力強い団結を作ることができ,全てを獲得できる存在であること。現象的には「強者」とみえる敵を打ち倒すためには,自らの抑圧された状況を武器として闘い,敵を倒し自らは立派に生き残ってみせるという「弱者」の政治=軍事をわがものとすること。

 第三に,下層労働者の団結の発展強化のためには,(在日)朝鮮人民,アイヌ人民,沖縄人民,被差別部落大衆との連帯を獲得することが必要不可欠であり,またその連帯は下層労働者としての団結を基礎としてのみ獲得できるし,そうしなければならないのだ,ということ。

 第四に,ベトナム人民の英雄的勝利以後,革命と反革命の激突の場が主要に東アジアにうつされ,沖縄を要とし,日本列島全体が朝鮮革命戦争の反革命出撃基地としてキバをむいている今,「韓国」の支配情況を基準にすえ,物事を考える時代がきたということ,日帝の朝鮮革命戦争に対する反革命後方活動を妨害しかつ介入する余裕をなくさせるような闘争を組み,革命勢力として自己を鍛え,日本列島を世界革命戦争の前線へと転化しなければならない,ということ。これである。

 III

 船本同志はその最後の闘いを通して,奴隷として命を保つよりは,闘って倒れる方が何倍も光栄であると考えるというプロレタリアートの赤い魂をさし示した。それは彼の,仲間への,一日一日を真剣に生き,闘い,黙って野たれ死ぬな! という日頃の教えを身をもって示したものである。

 船本同志は「死」の直前において,釜ヶ崎・山谷の仲間たちに呼びかけている。「黙って野たれ死ぬな! 闘わずして殺されるぐらいなら闘って死のうではないか!」と。つまり,若くて健康なときはチヤホヤされ,こき使われ,年老いて肉体がボロボロになれば路上に放り出され,野たれ死んだ後,大学の解剖材料にされる状況の中で,アキラメと絶望でブタ共とそのしっぽ共の言いなりになって反抗もしない生き方を否定することである。

 船本同志は,全てを奪われた労務者としての存在を逆に武器に転化し,その壮絶な「死」をもって我々が獲得すべき人生観を提起した。

 船本同志の「死」を敗北的自殺としてかたづける「評論家」は我々の敵である。人民のために死ぬ用意もないヤカラが彼の「死」をとやかく言うのを断じて我々は許しはしない。

 IV

 船本同志の「死」を無駄にするな!

 船本同志がそうしたように,心に仕事現場で死んでいった仲間たち,ドヤのベッドでひっそりと死んでいった仲間たち,誰にも認められず,誰一人として悲しむ者とてなく,無念の涙を流して死んでいった無数の仲間たちを想い,その無念をはらそうではないか!

 目を世界に向け,東アジア人民とりわけ朝鮮人民とともに反米反日の闘いに続こうではないか!

 おれたちはここに誓う。船本同志の遺志を受継ぎ彼の願いを達成するために,労働者階級解放の旗を高々とかかげ,必ずや野たれ死ぬ前にブルジョア階級のブタ共と毅然として闘いぬくことを。

 おれたちは,船本洲治同志の名を心に刻み,誇り,闘いつづけ,勝利はわがものであることを確信し,前進する。】

 ※ 草稿は私(前田)が書き,組織名で発表したものである。(M)

2009/06/23 テロルと復讐,法律と国民国家

「初期文革の1966-69年と中学の3年間がぴったり重なっていた私にとって,文革は全共闘運動の彼方の夢であった。しかも,朝になればさめてしまう夜の夢ではなく,現実の昼の夢だった」()。「全共闘運動の,そして文化大革命のなかの〈暴力〉は人々を崇高にもし,醜悪にもした」(
 竹内好は,「明治維新は,革命として成功したことにおいて失敗した。辛亥革命が,革命として失敗したことにおいて革命の原動力を失わなかったのとは,反対である」と指摘した(「指導者意識について」1948)。私は明治維新の“成功”(日本)と文化大革命の“敗北”(中国)とを対照して考え続けている。明治維新は新左翼の「内ゲバ」というテロルを質量共に上回るテロルに裏付けられていた(中沢圣夫『史説 幕末暗殺』他)が,“成功”によってテロルの歴史は正史から削除された。同様にテロルと暴力に満ちた文化大革命は“敗北”故にその「悲惨」が正史に記され,後に続く革命への闘志を抑え続けている。

 テロルは復讐を呼ぶ。明治維新でも文化大革命でも,犠牲者の無念と残された者の復讐への執念とはそこここに渦巻いていたにちがいない(と新左翼「内ゲバ」の経験から推測する)。復讐の権限を誰が握るか。私は,1873(明治6)年2月7日(太陽暦)の仇討禁止令に注目している。「人を殺すは国家の大禁にして,人を殺す者を罰するは,政府の公権に候処,古来より父兄のために讐〔あだ〕を復するを以て,子弟の義務となすの風習あり。右は至情やむを得ざるに出ると雖も,畢竟〔ひっきょう〕私憤を以て大禁を破り,私義を以て公権を犯す者にして,固〔もと〕より擅殺〔せんさつ〕の罪を免れず」〔太政官日誌〕。

 中国で文化大革命の敗北の後,紅衛兵たちの無念と執念はいかばかりだったろうか。毛沢東死後の中国は革命を捨てた。さまざまな法整備と「法治」国家として再出発した土台には,私的復讐に対する国家の禁止令(=国家的公刑罰権の確立)があったのである(いまの中国は現代化を称えるが,中国の「近代」はどこにあったのだろうか)。

 私には,「明治維新の革命が,反革命にたいして勝利をえたとき,つまり反革命を圧殺することによってそれ自体が反革命へ転化する方向で革命に成功した」経過と二重写しに見えてくるのである。(M)

2009/06/21 信条のある乱と信条のない乱と……

【〔……〕文革の根源を個人崇拝の罪に帰着させる者がいるが,わしは一面的だと考えている。わしらは,どうして毛主席を崇拝したのか? あのお方は,この工作組と対立した立場におられたからだ。彼は「司令部を砲撃せよ」で,「革命派を包囲攻撃し,異なった意見を抑えつけ,わがもの顔で得意になり,ブルジョワ階級の威風を増し,プロレタリア階級の志気を挫こうとしている」など,一つひとつ痛快に語ってくださった。まさに,この発言は,排除され,抑圧され,甚だしくは独裁下に置かれた学生たちの心を完全につかんだのだ。〔……〕

 考えてみろよ。県長,県委員,書記など,ふつうならお顔などまともに見られないだろう? 雲上の「父母の官」だ。しかし今や,毛沢東が大衆に気あいを入れてくれたんだ。「革命は,客をごちそうに招くことではない」。こうして,人を殴ることで騒ぎが始まった。

――人をつるし上げるのは,そんなに興奮するんですか?

 興奮するなんてもんじゃない。すごく発熱するのだ。〔……〕

 わしのような庶民出身の者は,激動する状況の中で,このようにいばらせてくれて,もうたまらなく感激していた。〔……〕造反は時代の最強音だった。〔……〕

 わしの青春,夢,熱狂とロマンは,みな文革にかかわっている。おまえがどう思おうとも,少なくとも文革初期の一,二年間,人民は十分な自由を,ひいては絶対的な自由を享受したんだ。不自由なのは,走資派で,高級幹部の子弟で,特権階層だった。やつらはふだんは高いところにいて,民間の苦しみなんか知らんぷりをしていた。しかし,今やいかなる政治運動とも異なり,世界が逆転し,やつらにもプロレタリアの鉄拳の味を教えたのだ。〔……〕

 でも幸福だったなあ。みな早起きして,互いにうなずき,ほほえみあった。黙っていても心はつながっていて,連れだって大経験交流会に出かけた。〔…〕もしかしたら,わしらは一生,あの一日,あの一時のために活きてきたのかもしれない。

――今でも聖人のように感じているのですか?

 わしがどうして自分の過去を否定しなかればならんのだ? あの時の歴史を否定しなければならんのだ? 〔……〕わしのような者には何も残っていない。文革の他に,何か追憶する価値のあるものがあるというのか?〔……〕

 わしは信じとるぞ。その場にいた一人ひとりはみんな毛沢東の時代に生まれたことを非常に誇りに感じていたのだ。〔……〕人はある種の信条を持つべきだ。信条が人を純潔にして,献身の勇気を持たせるのだ。

――そのために空前の規模の武闘が起こり,二つの派の戦士が信条のために生きるか死ぬかの命がけの争いをして血を流し,そこから親子も,夫婦も反目して,敵同士のようになってしまったんですよ。

 それでも,今のようにわずかなカネのために生きるか死ぬかの騒ぎをするより,まだましだ。少女がカネのために「三陪」にさえなる。汚職官僚は,ためらうことなく公然と法律を犯し,庶民の社会保障積立金で私的な取り引きをする。息子がカネのために,年老いた母を絞め殺す。信条のある乱と信条のない乱とは,メダルの裏表だ。】

 ※ 劉衛東の話,廖亦武『中国低層訪談録』pp.194-205

2009/06/20 マルクス主義を「マルクス主義学生」から取り戻そう!

【 学生服をきて横柄な顔附きをしたのっぽの青年が,攻撃の音頭をとっていた。

 「君たちにゃわかっていると思うんだが」とかれは傲慢そうにいった,「同胞にむかって武器をとっているので,君たちは自分を,人殺しや裏切者の道具にしちまっているんだってことが?」

 「ところで兄弟」と兵士は真剣な顔で答えた,「君にゃわかっていないんだ。二つの階級があるんだ,分からないかね,プロレタリアートとブルジョアジーだ。俺たちは――」

 「あー,僕にゃそんな馬鹿げた話はわかっているんだ!」と学生はぞんざいに口をさしはさんだ。「君らのような無知な百姓の群は,誰かがちょっとした人気言葉をわめくのを聞くんだ。君らにゃその言葉の意味がわかっていないんだ。君らはまるでオウムみたいにそんな言葉を口まねするんだ。」群衆はわらった。「僕はマルクス主義学生だ。実際の話,君らが戦いとろうとしているのは,社会主義じゃないんだ。それは全く明瞭なドイツびいきの無政府状態なんだ!」

 「うん,知ってるよ」と兵士は眉から汗をたらしつつ答えた。「君は教育のある人間だ,そんなことはたやすくわかるよ,そして俺は馬鹿な人間にすぎんさ。しかし俺は思うんだが――」

 「おそらく」と相手は蔑むようにさえぎった,「レーニンはプロレタリアートのほんとうの友達だと思う,とでもいいたいんんだろう?」

 「そうだよ」と兵士はがまんしつつ答えた。

 「ところで君,君はレーニンが封鎖列車で,ドイツを通って送られてきたことを,知っているかね? レーニンがドイツ人から金をもらったことを,知っているかね?」

 「さあ,俺はそんなこたぁ,あんまり知らんがね」と兵士は頑固そうに答えた,「しかし,あの人のいうことは,俺や俺みたいな馬鹿な人間全部が,聞きたがっていることだと思うよ。ところで,二つの階級があるんだ,ブルジョアジーとプロレタリアート――」

 「君は馬鹿だ! ねえ君,君がまだ革命家を射ち殺して,『神よ,ツァーリを救い給え』を歌っていたころに,僕は革命的活動のために,二年をシュリッセルブルグですごしたんだぜ。僕の名前はヴァシリー・ゲオルギエヴィチ・パニーンていうんだ。君は僕のことを聞いたことはないかね?」

 「残念ながら,聞いたこたぁないね」と兵士は謙遜して答えた。「ところで,俺は教育のある人間じゃないんだ。君はたぶん偉い英雄だろう。」

 「そうだよ」と学生は確信をもっていった。「そして僕は,われわれのロシアを,われわれの自由なる革命を,破壊しつつあるボリシェヴィキーに反対なんだ。さて,君はそれをどう説明するかね?」

 兵士は頭を掻いた。「俺にゃ全然説明できんよ」とかれは,知力を働かせることの苦痛で,しかめ面をしながら言った。「俺は全くかんたんだと思うんだが――ところでしかし,俺はいい教育をうけてはいないんだ。ただ二つの階級だけがあるように思うんだ。プロレタリアートとブルジョアジー――」

 「君のばかげた公式がまた出てきた!」と学生は叫んだ。

 「――ただ二つの階級だけが」と兵士は頑固につづけた。「で,一方の側にいない者はだれでもみんな別の側にいるわけなんだ。……」】

 ※ ジョン・リード,原光雄訳『世界をゆるがした十日間 上』岩波文庫 pp.255-257

2009/06/17 戦後民主主義賛美はアメリカに媚びへつらうドレイの論理

6/15付で右傾化を戦後民主主義からの逸脱として批判する護憲論理から脱皮し,右傾化を戦後民主主義の本質的帰結として批判しようと述べたが,それはこういうことだ。核拡散反対という論理。これはアメリカなどによる核独占を擁護する屁理屈である。まさかと思うがアメリカの核は安全で北朝鮮の核は危険だと信じ込んでいるとしたらドレイ度が高すぎるぜ。またたとえば,イランでの改革派=善,強硬派=悪という論理。これはどの階級がどういう状態にあるかを見ずに“名付け”に踊らされており,「人権」を振りかざせば内政干渉から侵略までやりたい放題という屁理屈まではすぐそこだ。

 戦後民主主義とは「「冷戦」の日本的展開」であると明確に指摘している権赫泰さんは,「日韓関係と「連帯」の問題」で書いている。【これはサンフランシスコ講和体制(片面講和)と日米安保条約をひとつのセットとする対外関係によって形成の基盤が作られた。アメリカが軍事的リスクを負担し日本が軍事基地を提供する日米間の「役割分担」により,建前としての「平和路線」が維持された。このような日米の役割分担のなかで,日本には兵站基地,韓国をはじめとする周辺国には戦闘基地としての役割がそれぞれアメリカによって与えられた。日本を含む周辺国にはアメリカが付与した役割に相応しい安定した政治体制が必要であり,このような必要が日本においては自民党政権,韓国などの周辺国には反共独裁体制を作り出した。〔中略〕周辺諸国が軍事的リスクを負担することによって日本の戦後「平和体制」が維持できたのである。わかりやすくいえば,韓国の厳しい「徴兵制」は日本の「軍隊に行かなくともいい若者の当たり前の権利」と関連しあっているということである】(『現代思想』2005年6月号 pp.204-212)。

 植民地支配責任を隠蔽し,頬被りする体制,他国の「戦乱と貧しさ」の犠牲のうえに作られた自国の「平和と繁栄」の体制――これが戦後民主主義である。「戦後」と「戦後民主主義」を賛美する人びとはアメリカに媚びへつらうドレイなのである。(M)


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