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繙 蟠 録 2009年12月後半

2009/12/27 組版の権力はどこにあるのか

12月15日、武村知子、山本貴光、白井敬尚、郡淳一郎の4氏からなるユニット・アンパサンドによるウェブサイト「リテラエ・ウニヴェルサレス(文字無窮)」が公開された。これは「一橋大学大学院言語社会研究科2008-09年度プロジェクト「百学連環の計――リベラルアーティスト炎上の巻」のための、ワーク・イン・プログレス式のサイト」(「序」)だという。

 注目すべきは,その設計思想である。ソースにその志は明確であるが,設計・管理、技術担当の山本貴光さんは「引」で,「本ウェブサイトは,数枚の「パネル」から構成されている。従来,ウェブは,「ページ」という書物の比喩で形容されることが多い。だが,ここでは,その1枚当たりのサイズを10万ピクセル四方に設定した。このため,仮に本サイトが一冊の書物として等倍の紙に刷られたとしても,もはや容易に繰ることのできるサイズを遙かに超えている。こうした身体感覚に合わせて,当サイトでは「ページ」という言葉の代わりに「パネル」と呼んでいる。(中略)私たちは、このパネルには、ぜひとも拡大縮小機能とできるだけシンプルな移動のインターフェイスが必要だと考えている。ちょうどイームズ夫妻が生み出した驚異の映像『Power of Ten』のように、あるいはGoogle Mapsやマンデルブローのフラクタル図形を眺めるように、パネルに対して近づいたり離れたりしたい。もちろん、私たち自身が、10万ピクセル四方のパネルを一望してみたいと考えていることもさることながら、上空からナスカの地上絵を見るように、パネルを一望した状態が、当該パネルの目次であり、また、そこから任意の地点へ向けて降り立つことができるような、そんな使い方を思い描いている」と書いており,予告された鳥瞰と移動,ズームインとズームアウトのインターフェイスの実装を私は楽しみに待ちたい。

 他方で,このようにトンがったスタイルと不即不離であるべき内容の一部は残念ながら陳腐である。武村知子さんは「学術の言語(1)――ブラウザVS組版指定の仁義なき戦い」で「学術テクストにおいて組版が一定以上必要であるとすれば、それはおそらく、学術以外のテクスト全般においてそれが本来必要だからに他ならないだろう。書記言語が書記言語である限り、字というものの形、その視覚的配置というものなしにそれは原理的に成立しえないが、それでも、ブラウザ機能においてテクストは組版指定から限りなく逃れ去ろうとする。フォルムから逃れてどこへ行くのか、テクストは結局、書記言語たることをついに再び脱却して音声言語のほうへ先祖返りしていこうとでもいうのか」などと発信者の苛立ち(?)を露にしているが,テクストが「組版指定から限りなく逃れ去る」ように表れるのは活版が写植になりDTPになるなど組版の技術基盤が激変するときの常である。『群像』12月号(特集・活版印刷の記憶)で松浦寿輝さんと市川真人さんが活版への郷愁をヌルく書いていてつまらないがそっくりだ。コンプレックスに起因するテクノ奴隷の姿がここにある。むしろインターネット組版の変化の特徴は受信者側から組版に介入できることだ(だからこそ「リテラエ・ウニヴェルサレス」の設計思想に私はワクワクする)。ヌルいこと言ってるんじゃないぜ。武村さん自身「結束されるものが紙でなくとも、営為の本質に変わりはない」と高らかに宣言しているではないか。バンドとして頑張れ、毎日見てるぜ。(M)

2009/12/24 在野の批判精神と学問研究

12月19日,大阪大学豊中キャンパスで行われた「共に考えることについて:研究機械の場所と運動」招かれ参加,私は冒頭,次のような話をした。

【 この場で話す機会を与えてくださった渡邊太さんと紹介してくださった小野俊彦さんに感謝しています。参考資料として4年前に書いた文章をお配りしましたので,後ほどお読みいただければ幸いです。在野の批判精神ということについて考えていることをお話しします。

 勉強は,知らないことがわかっていく,とても楽しいことでした。小学生のころ,近所(兵庫県尼崎市)で田能遺跡が発見され,弥生時代の生活の痕跡をそのまま見ることのできる考古学への興味から私は歴史研究者になりたいと思いました。やがて全共闘運動にふれ,研究する主体が研究対象と共にあり研究対象を創造する一員でもあると知り,歴史学への関心は革命への志となったのです。

 中学3年生のとき,『尼崎の戦後史(尼崎市史別巻)』回収事件を引き起こしたのが戦後「革新」勢力と知り――同書は市民運動の力によって翌年無修正で出たのですが――,私は「革新」を口舌の徒としてではなく生き方としてどう貫くのか,考えずにはおれませんでした。同書を執筆した師岡佑行さんは全共闘を支持して立命館大学を辞め,私は歴史研究=革命を在野でやろうと高校を3年生で中途退学し,下放しました。

 日雇労務者の街・釜ケ崎へ行き,衝撃を受けたのは,行き倒れて死ぬ人々の少なくない事実でした。普通,人は亡くなれば目を閉じ死装束を着せられるわけですが,引き取って弔う近親者もなく無縁仏として葬られていく人々の写真は目を開けたままのものが少なくありませんでした。私は,彼らの無念を晴らし,執念を生かすようなことができないかと考えました。1974-75年に私が編集代表として出した『労務者渡世』という雑誌は,死者たちと共にありつづけ,労務者が労働者として認知されることをお願いするのではなく労務者こそが労働者だと開き直っていくという発刊趣旨でした。当時,生活と闘争を共にしていた船本洲治さんは後に沖縄で皇太子来沖に抗議して焼身自決するわけですが,釜ケ崎で彼と共に出した『釜ケ崎反入管通信』とともに『労務者渡世』は私が考える在野の批判精神の原点です。

 ドイツのハイデルベルグ大学へ行ったとき,ここに学生牢というものが20世紀初めまでの数百年間あり,学生組合に加入している学生は国家の法に反する行為ことがあっても警察官は逮捕することはできず,大学のなかで刑に服したと知りました。大学の原点としての在野の批判精神とは,このように国家権力との二重権力を保ち続けるなかで初めて貫かれたのです。

 批判精神とは言葉とその生命力です。言葉を粗雑に使うことは私たち自身の生き方を粗雑に扱うことであり,自己変革と社会変革に真摯に向き合おうとするなら,現実を捉えて直視する言葉を使っていくことが必要です。ここに「コンフリクトの人文学」と掲げられていますが,抗争と言えばヤクザの対立が浮かび,闘争といえば階級闘争や反戦闘争が浮かびます。フランス5月革命を称揚しながら日本の全共闘運動を“大学紛争”と呼んだ莫迦がいましたが,「コンフリクト」という言葉で誰のための学問をやろうというのでしょうか。そのような言葉でなければ研究プログラムが通らないというなら,そこでなお志を失っていないならば,ドレイの言葉を使っているという屈辱を抱え続けてほしいと思います。その屈辱がなければ,やがてモノを視る目自体を失ってしまうのではないでしょうか。それが批判精神というものだと私は思います。】(M)


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