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繙 蟠 録 2009年7月後半

2009/07/26 「共生」とはどういう階級の思想か

小野俊彦さんが,ブログ「九州帝國ブログ板」の7月26日付「「共生」…?」で「共生」という言葉とその背後の思想に対する批判を提起しており,賛成だ。記事は直接には7・20排外主義によく効く表現行動![福岡]を闘うなかで実行委での論議のことという。また,提起は「下記のキム・チョンミさんのような歴史感覚からではなく,もっと曖昧漠然とした感覚から」としながらも1996年のキム・チョンミさんの問題提起を引用,「ニヒリズムにからめとられたナチ,ファシズム,天皇主義,そして「佐藤優現象」とは明確な決別をする」と述べられている(全文参照してください)。

 私はこの提起をとても重要だと思う。政府は共生社会政策(内閣府)を推し進め,地方自治体や教育委員会では「多文化共生」は錦の御旗である。たとえば,茨城県には国際課があり,ウェブの多文化共生の基礎知識には「国籍や民族などの異なる人々が,互いの文化的違いを認め合い,対等な関係を築こうとしながら,地域社会の構成員として共に生きていくこと」として,国際交流や外国人支援とは違うものだとの説明が載っている。

 歴史的経緯の調査,検証が必要だが,大ざっぱには,総評による弱者救済・国民春闘(1974年~)の流れだと断定してよい(反差別国際運動や「生きさせろゼネスト」を主張する旧新左翼党派なども思想的には同じである)。

 結論を先取りして言えば,「弱者救済」や「多文化共生」は上層(強者)の下層(弱者)に対する憐憫のたかちをとった過剰包摂政策であり,叛乱に対する予防反革命である。これは巻き起こる下層(弱者)叛乱に対する恐怖と保身であり,何としてでも自己の地位と権益を守り抜きたいという動機に起因する。「弱者救済」や「多文化共生」を言いいだすのが常に帝国主義本国人,労働貴族,男,健常者の側であって,抵抗者の側ではないことがその証拠である。

 近年の「格差社会」論議の問題点は,第三世界からの収奪で成り立っている帝国主義本国内での利益配分をやり直せ(=帝国主義本国内の格差是正!)とは言っても,けっして帝国主義本国の収奪そのものを問わないことである。それゆえ,運動は中間層の没落への恐怖や「上」へのねたみ,エゴを組織するのみで,自分の痛みは訴えても他者の痛みへの想いはない。自分自身への問い直しも自己変革もない。社会変革の主体を形成することはできないのである。

 先ごろ,ある集まりで「好きで派遣やってる奴がいたらお目にかかりたい」「派遣を半年やったが二度とやりたくない」と息巻くヲヂサンがいたが,フリーター40年やってるよと言ったりしたら逆ギレされそうで黙っていた。ヲヂサンは肩を怒らせて「自己責任論」を説いていた。こういうことを言うのはたいていはヲヂサンであって,おばさんではない。(M)

2009/07/19 再論・最後の仇討ち

7/4付の最後の仇討ち事件について,吉村昭「最後の仇討」(2001年)と同じ題材で長谷川伸が書いていた。「九州と東京の首」,初出は「中央公論」1962年12月号。61年12月号からの連載「日本敵討ち異相」の第13話であり,1963年中央公論社刊『日本敵討ち異相』に収められ,1968年新装版,1974年中公文庫版が出ている。また,「九州と東京の首」は国書刊行会刊『書物の王国16 復讐』2000年にも入った。

 吉村「最後の仇討」とちがって仇討ち禁止令についての記述はない。しかし,長谷川「九州と東京の首」のむすびはより壮絶である。【臼井六郎出獄すと新聞が書くと,発狂したものがある,六郎の母を無残に斬った往年の萩原伝之進である。萩原は怖れ戦いて死んでいった。】。

 連載にあたって掲載された予告で,長谷川伸は戦時中,大型トランクに『日本捕虜志』と『日本の敵討ち』の二つの草稿を「空襲のサイレンを聞くと土中に埋め,解除のサイレンを聞くと掘り出した」と書いている。敗戦をはさんで準備されたこの作品で,長谷川伸が訴えたかったことはいったい何だったのか。「討つ側=正義,討たれる側=不正義」という固定観念を打ち破ることもあっただろう。それとともに,復讐の歴史のなかで根付いてきた有理有利有節(道理があり,利益があり,節度がある)という伝統を掘り起こしたかったのではないか。

 新左翼の内ゲバを質量ともに数倍上回る明治維新の暗殺と復讐の歴史は,近代国家の出発にあたって1873(明治6)年の仇討禁止令で封じ込められ,国家的公刑罰権が確立され,個人の復讐権は奪われた(承前)。殺された者の無念のみならず,殺した者の執念もまた虚空をさまよい続けている――靖国神社・遊就館に展示された,西郷軍制圧の官軍司令官谷干城の大きな写真を見るたびに,私はそう思うのである。(M)


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