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繙 蟠 録 2009年8月後半

2009/08/26 「裁判員には死刑囚が首をくくられて死んでいく様子を伝えるべきだ」

暴力が法をつくり,法を維持する。警察は法をつくりはしないが,法的効力をもつと騙る命令によって民衆を規制し,いざ秩序が「法」のみによっては維持できぬほどの民衆の抵抗と反乱に臨んだ際には,法秩序維持のため「無法」に,法の定める権限をも逸脱して干渉と弾圧をおこなう。たとえば,2008年10月の麻生邸拝見ツアー事件,またたとえば,2006年3・14弾圧以降の法政大学における学生弾圧など枚挙にいとまがない。

 裁判員裁判の報道を見て,不思議で不審でならないのが,裁判員として参加した人たちの話に「人を裁く」ことへのためらいや後ろめたさ,恐ろしさについての自省や自覚がほとんど欠如していることである。「立派に参加し,立派に判断できた」と。恐ろしいことである。無自覚なドレイほど恐ろしい。なぜ,国家の殺人である死刑の片棒をかつがなければならないのか。

 裁判員制度は,近年の民事不介入原則の破壊と同様,なりふりかまわぬ「法」からの逸脱である。判決は,起訴状のみで事実行為を法に照らして行うという原則から逸脱し,扇情的なプレゼンテーションによる判断にゆだねられる。死刑という国家による殺人行為に国民を立ち会わせ,加担させるものである。私は殺されたくないし,殺したくない。国家による人殺しに加担しない!

 死刑執行に立ち会った経験がある元刑務官で作家の坂本敏夫さんは「「死刑判決を下すというのは,死の宣告者になるということ。三,四日の審理で『あなたは死になさい』と言えるのか。裁判員には死刑囚が首をくくられて死んでいく様子を伝えるべきだ。刑場くらいは見せるべきだ」と言っている〔「死刑執行 葛藤の日々 立ち会った元刑務官訴え」,2009年7月31日付『東京新聞』〕。“国民の義務”などと信じ込まされる前に,耳を傾けるべきではないか。また,昨2008年5月6日に放送された「文化放送報道スペシャル 死刑執行」(WMAデータ54分)をぜひ聞いて欲しい。(M)

【参考】今井恭平『クロカミ 国民死刑執行法』2008年,現代人文社
 日本は346年間,事実上の死刑廃止国だった(保坂展人のどこどこ日記2008/06/08)
 ★文化放送報道スペシャル 死刑執行(WMAデータ54分:2008/05/06放送)
 前田年昭「書評・高山俊吉『裁判員制度はいらない』」
 前田年昭「書評:アンジェラ・デイヴィス『監獄ビジネス』」

2009/08/22 杜撰な記述は史観の歪みに起因する

小熊英二『1968』2009年7月 新曜社は,事実誤認が多く指摘されている。基本的事実について当事者への聞き取り調査や一次史料の精査が為されていないゆえの誤認である。より基本的,根元的なこととして,杜撰な記述は史観の歪みに起因すると私は考える。『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』に対するAmazonカスタマーレビュー欄にこのほど掲載された田中美津さんのレビュー「64ページ中,事実の間違いが45ヵ所も……」は,そのことを次のとおり指摘している。以下に転載して,記録しておく。

 【私はこの本の第17章「リブと私」に出てくる田中美津本人です。

 エッ,私って「拒食症」だったの?,高校時代に家出を「2回」した?「安田講堂に立てこもった男と同棲」してたって?「ぐるーぷ・闘う女」を3人で立ち上げた?

 「田中は自己の『物語』の変更や矛盾に,否定的な意識をもたなかった」という自説を証明する資料として,「2004年の講演では『私,ずっと同じことやってるの,苦手なんです』と述べている」と小熊氏は記す。が,実はこれ,「ずっと同じ姿勢で話すのは苦手なんです」と言ってる箇所からの引用なのよ。

 こういうトホホな誤読・誤用そして捏造がなんと45箇所もある。これは710ページの「田中美津とその経歴」から数えてのことだから(私についての記述はそこから始まる),なんと64ページ中,45箇所間違っているということだ。(精読したらもっと増えるかも)。

 私が「直感」の人なら,彼は「誤読・誤用・捏造」の人なんだね。

 それに何だかあざといなぁ。「田中は白いミニスカートでビラを撒いてた」という証言について,「事実かどうか不明だが,とりあえずこの証言を採用する」と注に書いておきながら,「白いミニスカート姿で」「年齢不相応な白いミニスカートで」とその後4回にわたって記している。だいたい何ゆえその証言を採用したかも明らかにしないで,これ,ホントに学者が書いた本なの。「美津さんが永田洋子だったら,私は殺される側だと思った」という,誹謗中傷をもたらす以外に何の意味もないコメントも堂々採用されていて,もうアレーって感じよ。小熊氏は読み手をよほど見くびってるね。

 事実の検証が杜撰で,その上ミソジニー(女性嫌悪)を感じさせる記述の数々

 まだ私は生きてるのだから,せめて1度くらい取材すればよかったのに。何の取材もせずに「田中はそう思った,こう思った」と書いちゃうところが,昔読んだ週刊新潮の「男と女の事件簿」にそっくり。もう失笑しながら読ませてもらった。

 東大教授の上野千鶴子さんには事前に原稿見せたんだから,私にも見せてくれればよかったのにね。結果17章は無残な労作になってしまって!】〔下線は引用者〕

 小熊英二『1968』は,歴史の捏造者であり,階級闘争の簒奪者である。(M)

2009/08/20 〈質の高い在野史学〉を ~私の原点~

夜見る夢は朝になれば覚めてしまう。〈夢は昼見るもの〉と教えてくれたのは,夜間中学廃止反対運動を闘う高野雅夫さんと〈連続射殺魔永山則夫の「私設」夜間中学〉だった。

 全共闘運動から生まれた青年中国研究者会議の宣言ともいうべき「論文集発刊のあいさつ」(1972年)を電子復刻した。歴史研究者を志した私が灘高校における全共闘運動を経て中退,下放を決心したのは1969年に出会った3つの出来事だった。

 同年1月安田講堂攻防戦を東大闘争全学共闘会議や全国の闘う青年学生と共に闘ったML派(日本マルクスレーニン主義者同盟-学生解放戦線)は,正門に毛沢東の肖像を掲げ「帝大解体」「造反有理」と大書し,「一月激闘を五四運動の地平とせよ」と呼びかけた。私は歴史を研究するには歴史発展の原動力としての〈民衆の造反〉の立場に立たねばならないと思った。歴史は研究対象であると同時に自らも参加して主体的に変革を担う対象なのである。同年春,阪神工業地帯の中心である尼崎市で阪本勝薄井一哉の後を継ぐ「革新」首長のエース篠田隆義『尼崎の戦後史』『尼崎市史』別冊)の発行を差し止め回収,これに抗議する市民運動との出会いは,私に「革新」の欺瞞性を教え,言説ではなくどう生きるかという観点から物事を判断することを教えた。同年12月号『歴史学研究』に掲載された嶋本信子さんの論文「五・四運動の継承形態」は,前述の立場と観点に立つ歴史研究の方法とはどのようなものかを事実を通じて教えた。この3つの出来事は,私が〈民衆の造反〉の立場,観点,方法に立つ歴史研究を志した原点である。

 論文「五・四運動の継承形態」を書いた嶋本信子さんの名に39年後の昨2008年出会う。青年中国研究者会議編『中国民衆反乱の世界』(1974年 汲古書院)を池袋古書館で見つけたのである。39年ぶりの出会いに私は震えた。まだ見ぬ彼女ら彼らがいまなお40年前の動機と志を貫いているであろうことを思った。そして2009年,思想誌『悍』の書き手として〈質の高い在野史学〉の担い手のひとりであると確信する友と出会えた。まことに嬉しいことである。そう遠くない将来,いつの日にか,さらにまだ見ぬもうひとり以上の友の参画を得て〈質の高い在野史学〉の研究会をつくりたいと考えている。(M)


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