繙蟠録 I & II
 

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繙 蟠 録 II 2014年7-8月

2014/08/19 日常のなかで政治を「ぐいぐい話せる」勇気

パンクバンド「MALIMPLIKI」は,8月15日の新宿Urgaでのライブ「SOUND OF RESISTANCE‘14 ~俺達の抗戦CARNIVAL~」で初見だった(写真1 写真2)。ヴォーカル/ギター:ななえちゃん,ベース:ひろえちゃん,ドラム:いずみちゃんという3人組。ときおり合いの手のように入るドラムをバックに語られたMCがよかった。ななえちゃんは「戦争をやる国にはたとえ“非国民”と言われても反対します」と話し始めて,大意次のように話した(文責・前田)。

原発も戦争も日常の労働もすべてつながってて,自分にとって必要ないということは,“言ってもムダ”というのではなく,日常お酒飲んでるときでも普通にぐいぐい話せるようにしていきたい。私は10代のころ社会に適合しないのかなと思ったこともあったけど,言いたいこと言って何が悪いのと思って生きてきた。たくさんの人を自分の考えと同じにする必要はないけど,だれか独りでも自分の本当に思ってることを話せるだけで死なないですむんじゃないか。前は自殺する人に対して,何で?悔しい!と思ったけど,でも今はちがう。話せる人が隣りにいた私は運がよかったわけで,聞いてくれる人がいれば生活が苦しくても生きていける。独りでも話せる人がいるということは素晴らしいことだ。決定的瞬間がたくさんあったことでいまこうして生きている。自分の苦しさを在日外国人,在日朝鮮人のせいにする主張があるが,隣りに聞いてくれる人がいれば「死ね」とか「出てけ」という発想にはならないはず。話せる人がいたから私は権力が悪いと思うようになったけど,彼らはなぜそうならないか考えたい。でも在特会の人たちが人間のクズだとは私は思えません。

パンクでもラップでもともすれば男の子たちは強がりをカッコよさと勘違いして,日常の生活を歌うことが少ない。生活と分離したところでの「活動」はやがて言葉をひからびさせ,頭と心を壊していく。反原発運動のなかでの,「安倍死ねーっ」という言葉を持てはやしブルドーザーをカッコイイと感じるようなマッチョな感じ方考え方は,転倒された人間の壊れっぷりの証明であり,生き方としてパンクでもロックでもない。そのような荒んだ「運動」は自分自身を変え得ず,したがって社会を変えることなどできはしない。いま,いちばん団結を阻害しているのは,「そんな堅い話はやめて適当にやろうぜ」とか「何やっても変わらないよ」「○○って××派で,実は裏で……」「(引用ばかりひけらかして)『○○論』も読んでないのか!」などという冷笑主義(シニシズム)や知ったかぶりではないか。

 日常の生活のなかで政治も「ぐいぐい話せるように」というMALIMPLIKI・ななえちゃんのさわやかなMCのなかに,私は冷笑主義や知ったかぶりと対峙する希望を見た。次のライブは,10月4日(土曜)鴬谷WHAT'S UP。(M)

2014/07/30 組版・タイポグラフィ論最終講義

7月26日の最終講義で,私は“くむ”ことと“うたう”ことの,人間の意識・活動における位置について述べた(→レジュメPDF)。これは,神戸芸術工科大学における組版講義および多摩美術大学における書物論講座での平出隆さんとの対話,植村愛音さんら参加者との討議を通じて深め,まとめていっている途上のものである。

 書ク―読ム―書ク,話ス―聞ク―話スという文字と言葉を介しての往復運動は,狭い意味では,文字と言葉の一方の機能としての《伝達》である。20世紀の視覚偏重の技術の発達(情報処理革命)は,DTPやカラオケによって本を作り歌うことを個々人に解放したが,他方で,テキストは流すもの(DTP),画面の歌詞をなぞるもの(カラオケ)と成りはてた(という偏向が生まれた)。しかし,本来,“くむ”こと,“うたう”ことは,頭と心をとおって咀嚼され,文字と言葉のもう一方の機能である《表現》と不即不離のものとして,コミュニケーションの相手に届く(=魂にふれる)ものである。

 精神活動としての“くむ”ことや“うたう”ことは,文字と言葉の湧き出る源、初期衝動たる意志(主観的能動性)の発露である。頭と心もまた肉体であり、この肉体としての頭と心を経由することによって,文字と言葉は生きた命を吹き込まれ,物質の力に変わる。このことはまた、世界を改造していく社会的実践、言葉の闘いの歴史において書物と歌の果たしてきた大きな役割を表している。

 プロレタリアートが世界を認識する目的は世界(自然,社会,自分自身)の改造であって,これ以外に目的はない。正しい認識は,物質―精神―物質,つまり実践―認識―実践へという何回もの繰り返しによってしだいに完成されていくのである。

 2010年12月,「“革命犯罪”としての大逆万歳! 奴隷根性を正す文体革命を訴える」で,私は次のように強調した。

現下の切実で焦眉の基本問題は依然,情報処理革命か,それとも文化大革命か,と立てられている。“多く早く”の強迫観念に囚われた情報処理革命は,情報過多と外部メモリ依存によって実のところ“鈍く狭く”なった。目を拡張した結果,目が弱っちまったという訳だ。耳を拡張した結果,聴き取る力が萎え,闇夜を生き抜く五感は衰弱した。モノを視る目,感じる心,考える力を奪い返すためには情報遮断も必要である。情報の海に溺れる前に,時に情報を断って引きこもって自身を見つめ,自身の五感を確かめる時間と空間を持つこと。

改めて呼びかけたい。情報処理革命に対峙する文化大革命を! と。(M)

2014/07/09 中島らもメモリアルWEEK 2014

(転載紹介)http://ramo-nakajima.com/memorial/

作家として、ミュージシャンとして、数々の名作と伝説を残し、多くのファンを魅了してやまなかった天才にして奇才ー中島らも。
今年の命日で没後10年となるのを機に、落語・文学・映画・音楽etc、中島らもが残した様々な作品で一週間笑って盛り上がる、「中島らもメモリアルWEEK 2014」をこの夏開催!

  • 7月21日(月・祝) オープニングイベント らもさん昇天10周年〜ひつこいファンの集い〜
  • 7月22日(火) らも噺の会
  • 7月23日(水) リーディングRAMO
  • 7月24日(木) 中島らも短編集~林英世ひとり語り2014~
  • 7月25日(金) ビブらもバトル
  • 7月26日(土) 中島らも追悼LIVE〜Knockin' On Heavens Door〜
  • 7月23日(水)〜7月27日(日) らも映画祭2014

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