繙蟠録 II
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繙蟠録
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繙 蟠 録 II 2011年3月

2011/03/31 原発の狂気は「人が人を食う」ことにある

現在の不安は「知らされないこと」からくるように見える。不安は知識欲を強制する。確かに「知らしむべき」ことを「知っているはず」の人びとが説明していないのはよくない。確かに「分かっていて隠している」こともあるようだが,ひょっとしたら「だれも分かっていない」のかもしれないという真実がよりおそろしい。

 自分を被害者と措定して「知らせろ!」と要求することは,「隠している」人びとと「隠している」事柄に対する要求やお願いとしてはかみあっているだろう。しかし,「だれも分かっていない」ことに対して,被害者の御旗を立てて「知らせろ!」と要求することは,ますます被害者を被害者のままドレイとすることになる。なぜなら,自身をずっと「知らせてもらう」側に置いて,相手にますます強い権限をあずけること(命令を出してくれ!)になるからだ。

 飛散拡散しつづける放射性物質によって人びとはじわじわと肉体的に傷つけられていく。肉体的に弱い老人や子ども,女性から先に犠牲になっていく。それとともに,それ以上に,人びとは精神を病んでいく。発狂していく。心優しい人や敏感な人びとから先に犠牲になっていく。

 被害者運動は,政府やマスコミが「安全」だけを強調していると批判する。しかし,「安全」は実は被害者,ドレイの願望の鏡なのだ。これは自家撞着である。試しに政府やマスコミが「安全じゃない」と(本心ではききたくないと思っていたことを)発表したらどうなるだろうか。

 パニックだ。パニックが起こる。

 いま,われわれ不安定貧民が殺されるとしたらパニックによってである。くり返し流される「エーシー(公共広告機構)」のコマーシャルが「ニッポンは一つ」と強調するのは,すでにニッポンは一つなんかじゃないからである。それは,いまの中国でなぜ「和諧社会」がスローガンになっているかを考えればわかるだろう。

 結論を先取りすれば,「知らせろ!」という被害者運動は中産階級の,正規の上層労働者の,ドレイの運動である。さらに“不謹慎”発言をすればそれは没落の恐怖におびえるヒステリー運動である。福島の講演会で安全を強調する御用学者に対して批判した市民が同じ会場の市民たちから「帰れ」などと批判される事態は,その不吉な前触れである。

 パニックにおいて,階級戦争は,「政府+マスコミ」対「知らされていない被害者」ではなく,「上層の被害者運動」対「不安定下層貧民」として鮮明になっていく。結果,われわれ「不安定下層貧民」は,「政府+マスコミ+上層被害者運動」に殺されかねないのだ。

 原発の狂気と恐怖は技術万能論に立つリスク管理論議では決して分からない。人とモノとの関係,人と技術との関係において,決定的な力を持つのは人の要素である。事故対策で泥縄式に打ち出されるさまざまな方策に決定的に欠落し,あるいは隠蔽されているのは,「じゃあその作業はいったいだれがやるのか」ということである。

 原発の狂気と恐怖は,資本と国家による差別構造の拡大再生産にある。映画『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(監督 森崎東,製作 キノシタ映画,配給 ATG,1985年,105分カラー)は漏れた廃液に足を浸して被曝し殺されていく原発労務者を描き出した。「君ら現代の特攻隊やぁゆうておだてられてええかっこしたバチや」という台詞は,全土がフクシマ化し釜ヶ崎化した現代ニッポンのドレイたちの叫びとして,26年の時空を超えていま見えてきたことだろう(これまでは正視することを避けて,見なかったことにしてきただけなのだが)。

政府はこれまで原発を批判し警鐘を鳴らしてきたすべての研究者技術者,すべての個人と組織を集めて事故対策委員会を組織し,全権を委ねよ!

事実を隠蔽するものはその事実を作り出した犯人である―第三者による事故調査委員会をつくり,事故責任者を人民裁判にかけよ!

黙って野垂れ死ぬな!(M)

2011/03/20 東京電力とはなにか

歴史学は,偶然性のなかに貫かれた必然性を発見し,以て人々と社会のために寄与する学問である。

 この立場からみると,東京電力福島原子力発電所事故は明らかな人災である。「現場が頑張っている(涙)」とか「前線で頑張っている人がいる」というお涙頂戴物語には気をつける必要がある。根本を問う議論を否定し,誰も何も言えない空気にしてはいけない。戦時に「前線で戦っている兵隊さんに申し訳ない」との論理でどれだけ判断誤ったか振り返らないと,と思う。

 東京電力とはなにか。

 東京電力とは世界最大の民間電力会社である。設立は朝鮮戦争のさなか(!)の1951年5月。維新後の日本の電気事業史をひもといていただきたいが,設立は全国9地域の電力会社への分割・民営化の一環だったことに注目する必要がある。これはまた,戦後労働運動をリードした産別会議の中心組合のひとつ電産(日本電気産業労働組合)の骨抜き,右傾化の総仕上げであった。詳細は省くが,1987年の国鉄分割民営化や現在の郵政民営化の先取りであったことは指摘しておきたい。そして鉄道民営化が人々に何をもたらすのかは,ケン・ローチ『ナビゲーター ある鉄道員の物語』(2001)が見事に描きだしている。

 まさか「官業がダメで民営がいい」などと素朴に信心している方が多いとは思わないが,東京電力の誕生と歴史そのものは,事業の公共性と社会的責任の立場からもっとも必要なことである《公開性》が失われていった歴史でもあった。

 社内社外における批判の抑圧,隠蔽体質は民営化半世紀のなかで定着し,「社風」といえるまでになっていた。ここ数年だけでも原発震災の危険性の警告 http://bit.ly/e70Ckx や津波で機器冷却系マヒの危険と点検申し入れ http://bit.ly/gKmTyP などが無視されるだけでなく,明らかにされただけでも30年来,故障を隠蔽しデータを改竄 http://bit.ly/gGSIaw してきた。これは,日本原子力学会 http://bit.ly/i0mBgD など各方面から批判をあび,今回の事故に対しても英紙インディペンデント(電子版)やガーディアン(同)は東京電力の隠蔽体質を指摘 http://bit.ly/h4R5eq している。東京電力と電事連(電気事業連合会)は記者クラブと新聞・テレビを支配し,科学者運動の力で50年代にはかろうじて存在した《民主・自主・公開》という原子力政策を骨抜きにしていった。原子力安全・保安院がなぜ経済産業省の機関なのか。

 まさに,事実をおおいかくすものはその事実をつくりだした犯人なのである。電力業界の主導的存在である東京電力の大株主は,日本トラスティ信託口,第一生命保険,日本マスター信託口,日本生命保険など(『会社四季報』ほか)。彼らもまた東京電力と同様,社会的責任を果たすべきである。

 批判に耳を傾けず,批判を抑圧する企業や組織,国家や社会は必ず腐敗し,事故をもたらす。智恵と力を生かせない社会はまた,権限を持つ者の無責任と無能力を加速する。北澤防衛相は今回の福島原発への海水投下について「私と菅直人首相が話し合いをするなかで結論に達した」と述べながら「首相と私の重い決断を統合幕僚長が判断し自ら決心した」と丸投げした。これはリーダーとしての責任放棄であり,文民統制の放棄である。(M)

2011/03/05 カンニング事件は大学が建学精神を投げ捨てたことを示した

京都大学の入学試験で,インターネットの質問サイトをつかって答えをカンニングしていた受験生が逮捕された。

 入学試験で「不正」があったというなら大学は調査の上,合格を取り消せばよい。それだけのことである。なぜ警察の手に委ねたのか。それは大学が競争社会における肩書のための場に成り下がり,学問が資本の餌食になっているからに他ならない。

 ハイデルベルグ大学では20世紀の初めまで学生牢があり,自由意志により学生組合に加入した学生は,たとえ国家の法律に反しても警官は逮捕できず,国家の裁判に服する必要もなかった。大学のなかの学生牢で刑に服していた。大学や学問は本来,国家権力に対する批判=二重権力として存在するものだからだ。

 大学は世界の変革に必要な知恵と力を身につけるところである。自然改造(自然に対する人間の闘い),社会改造(旧階級に対する新階級の闘い),自己改造(旧思想に対する新思想の闘い)という社会的実践の拠点である。○○を学ぶとは○○批判として,批判と変革のために学ぶのである。本来的に時の国家権力に対して批判的なものなのである。大学は,これを保障する組織,空間として存在する。

 私は2005年にドイツへ行ったときに壁に落書きの残る学生牢を見て感動し,「大学の自治とはこのような《二重権力》として培われてきたわけです。真理をめざす批判的な行為,学問や表現の自由はこのように具体的に国家権力と対峙する権力を持つことによって保障されるのであり,ここに大学の社会的存在意義と社会的責任があります」と,早稲田大学ビラ撒き逮捕事件に関連して発言し,書いた【註】。

 現代日本には大学も学問もないということだ。今回のカンニング事件に対する大学当局の行動は,その真実をみごとにあぶり出した。(M)

【註】「ネオリベラリズムはリベラリズムで批判できない」2006


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