繙蟠録 II
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繙蟠録
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繙 蟠 録 II 2011年5月

2011/05/11 「だまされた被害者」という奴隷精神は,批判精神の対極にある

4月上旬,シンガーソングライター斉藤和義の「ずっとウソだった」が反原発の気分を捉えて話題になった。うまいし単なる替え歌には終わらぬ完成度は,元歌を知っていれば余計にニヤリとしてしまうほどだった。

…俺たちを騙して言い訳は「想定外」…
ほんとウソだったんだぜ 原子力は安全です…
ずっとクソだったんだぜ それでも続ける気だ
ほんとクソだったんだぜ 何かがしたいこの気持ち
ずっと嘘だったんだぜ ほんとクソだったんだ

では,だまされた者に責任はないのか。

 「戦争を知らない子供たち」がこしらえてきた戦後日本は,「十万馬力」の原子力モーターで空を飛ぶ「科学の子」鉄腕アトムの時代でもあり,原子力発電の危険性を批判し警鐘を鳴らしてきたのはごく少数の人々だった。大阪万博で点された「原子の火」を多くの人々はほめそやした。

 だからといって,だまされた者に責任はないのか。

 「勤勉で礼儀正しい」ともてはやされる日本社会は実は無責任社会であり,誰にどのような社会的責任があるのかを常に曖昧にしてきた。「安らかに眠って下さい/過ちは/繰返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)の碑文は原爆投下犯を隠蔽する主体不明の無責任文体だと私は思う。しかし,戦後革新勢力(社共)はこの碑文を強く擁護してきた。なぜなら彼らは「大東亜戦争」を軍国主義勢力に「だまされた」と総括しているからだ。

嘘を嘘だといなすことで即刻関係の無いヒトとなる/演技をしているんだ/あなただってきっとそうさ/当事者を回避している(東京事変「群青日和」作詞・椎名林檎)

だまされた者にはだまされた当事者としての責任がある。道義的な社会的責任とは,あやまちの事実と原因を明らかにすることである。起きてしまったことは取り返しがつかないが,だました者を裁くことによって悔い改めさせ,謝罪と賠償,可能な限りの回復を果たさせることであり,だまされた者はなぜだまされたのかという自覚と反省を通じて,あやまちを繰り返さない社会を創るために行動することである。

 東電福島原発事故でも同様である。しかし,現在の反原発運動のなかには私も含めて責任と反省の自覚が欠如していないだろうか。今や時の人でもある小出裕章さんは,繰り返し次のように述べている。

…誰だって放射能など食べたくありませんし,私も同じです。しかし,私たちが汚染した食料を拒否すれば農業と漁業が崩壊します。私たちはエネルギーを厖大に使える社会があたかも豊かであるように思い,農業と漁業を崩壊させてきましたが,その象徴が原子力だと私は思います。その原子力が事故を起こした時に,さらに農業と漁業を崩壊に追いやってしまうことは,事故から何の教訓も汲み取らないことになります。
 「原子力だけは絶対安全」と偽りの宣伝を流してきたのは国と電力会社,巨大産業群です。一般の人々が騙されても仕方がないと思います。しかし,騙された者には騙されたことに対する責任があります。子どもたちは少なくとも原子力を選択したことに責任はありませんし,放射線の感受性が高いので,何とか彼らを被曝から守らなければいけません。すべてのデータを公表し汚染した食料は日本人の大人が引き受けることこそ必要だと思います。(2011年4月29日,出典:http://chikyuza.net/n/archives/9063,強調は引用者)

現在の反原発運動は,小出さんの長き苦闘をただ消費し利用しているだけではないのか。小出さんの提起のこの部分だけはスルーして。

 無自覚のまま看過してきたことも含めた加害への加担責任――これに対する反省の自覚なき被害者運動はけっして実らないだろう。被害者意識一辺倒の平和運動も消費者運動も同様である。

 “不謹慎”発言をすれば,原発の恩恵を受け続けたいならば,みんなが等しく放射能を浴びる社会であるべきではないか。なぜなら,原発をはじめ科学と技術の恩恵を受け続けたいならば,危険とリスク,痛みも分け合うべきではないのか。原発労務者が「英雄」と持ち上げられながら被曝し,東京電力は自らの給電地域“外”に原発を拵える,こんな卑怯卑劣を許していいのか。

 コストと効率ばかりの論議に欠けているのは,人と人との関係をどうするのかという視点である。犠牲の差別を見て見ぬふりをしているのか,見えなくなってしまっているのか。痛みを分け合うのが嫌というなら,原発といっしょに資本主義そのものを「廃炉」しようではないか。なぜなら,原発は資本と国家の狂気だからである。

 絓秀実さんが68年全共闘運動は勝利したと言ったようだが,莫迦言っちゃいけない。全共闘運動は「観念の帝大」を批判し揺さぶったが,「現実の東大」を解体し得ず敗北した。その結果が今,資本と国家のしもべと化した大学とマスコミの姿として鼻つまみにされているではないか。学問とジャーナリズムは批判精神が魂だったはずではないか。ショクダイオオコンニャクは16年かかって強烈なにおいとともに開花するが,全共闘運動を圧殺した日本の大学とマスコミは40年を経て,こらえきれない腐臭を放っている。(M)

2011/05/05 民権から国権へはどのように変質するのか

維新を実現した明治草莽者たちにとって,国権と民権は相反するタームではなく,彼らは国と民が一体になった「自由と平等」の社会を夢見ていた。しかし武力による反政府運動を圧殺した西南戦争を起点に民権論と国権論は乖離していく。もちろん続く自由民権の運動があった。が一面でそれは明治絶対主義の政府と権力の枠内での政治的請願という基本的性格において根底的な変革性を持ち得なかったのではなかったか。

 少なくない草莽者たちは苦闘のなかで,民権の伸長よりは国権の拡張をはかるべきだと思想的に変質していった。なぜなのか――私はこのことを以前から考え続けている。そうしたときに,東電福島原発事故をめぐる思想状況はまたも民権から国権への変質を垣間見せてくれた。

 私は4月25日,ツイッターで次のように発言した。

「避難命令を出せ」と資本と権力に陳情(要求と言換えても同じ)するだけの新旧左翼のドレイ根性は惨めである。二重権力の思想がないからだ。要求すべきは【政府はこれまで原発を批判し警鐘を鳴らしてきたすべての研究者技術者,すべての個人と組織を集めて事故対策委員会を組織し,全権を委ねよ!】

これに対する反応の中に「放射線被曝にさらされている被災地の人々を守るために“避難”を要求することが奴隷根性とはうなずけない」という感情的批判があった(ここでの目的は個人批判ではないから特定の論旨を引くことはしない)。放射能汚染地に人が居続けることを私は望まない。しかし,その地から人々を追い出せば,チェルノブイリ事故とその後に起きたように,今度は人々の生活のすべてが崩壊してしまうのである。国家の強権発動による“避難”を要求する批判者は,そこまで想いを及ぼしているのだろうか。彼らはいっけん「被災地の人々を守る」という大義を掲げながらも,私には民衆の生活のすべてを国家権力に委ねているようにしか思えない。

 似たことがあった。2009年4月4日の「政府,ミサイル発射を誤発表 米衛星探知と勘違い」という事件だ。河村官房長官と浜田防衛相は「国民におわびしたい」と陳謝,野党はこぞって不手際を非難した。しかし,非難するということは「防衛力」の強化を政府と国家権力に求めることに他ならない。私は反対だ。ブルジョア政府と国家権力はできるかぎり“しっかりしていない”ほうがよく,“だらしない”ほうがよい。なぜならブルジョア政府と国家権力がわれわれを守ったことはこれまでもなく,これからもないからだ。

 原発ビジネスの綻びを繕うだけでなく事故処理から廃炉までをも儲けにしようとする原発国際資本に事故対策を任せてはならない。小倉利丸さんが指摘するとおり「原発は資本と国家の狂気」だからだ。犯人は犯罪を隠蔽することしかできないからだ。したがって,第三者の,とか,批判者も入れて,とかでなく,《これまで原発を批判し警鐘を鳴らしてきたすべての研究者技術者,すべての個人と組織による事故対策委員会》にすべての権力を委ねなければならない。そこをどけ,任せろというわけだ。権力を奪い取って,全権をこの事故対策委員会が握らなければならない。ここに二重権力の思想がある。

 原発は電気が足りようが足りなかろうが,即刻全廃すべきものである。東電福島原発事故の惨劇の事実をみてもなおそう考えない人々が少なくないことに,私は絶望している。そして,〈全共闘運動の激闘を五四運動の地平とせよ〉と40年前に闘った闘士たちの国権論への転落を悔しく思う。(M)


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