繙蟠録 I & II
 

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繙 蟠 録 II 2020年4月

2020/04/20 競争原理批判(11)――新自由主義に対する日常的意識の変革として競争原理批判を!

鈴木大裕さんは、前掲『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店、2019年)で、アメリカの凄まじい教育格差、公教育の崩壊の特徴的な事実を挙げて、後を追うかのごとき日本の公教育崩壊に警鐘を鳴らし、「それらはすべて、社会を取り巻く潮流の教育的な症状に過ぎず、真の問題は新自由主義という潮流そのものにあると思っている」〔p.130〕と指摘している。
 まさに、競争原理批判は、個別の××問題(シングル・イシュー!)反対の運動などではない。中嶋哲彦さんは『国家と教育 愛と怒りの人格形成』(青土社、2020年3月)で、「教育制度の競争主義的・格差的編成は教育を受ける権利に関する憲法意識を、また社会の競争主義的編成と「自助・共助」の強調は生存権に関する憲法意識を、変質させ」るものだと批判し〔pp.159-160〕、朝日新聞社とベネッセ教育総合研究所が二〇一八年に行った「学校教育に対する保護者の意識調査 2018」に着目する。調査によれば、所得による教育格差を「問題だ」とするものは2008年の53.3%から2018年は34.3%、これに対して、許容する(「当然だ」+「やむをえない」)とするものは2008年の43.9%から2018年は62.3%と逆転したのだ(出典)。中嶋さんはこの変化を「教育を受ける権利がすでに抜け落ちているか、権利という言葉の意味が変質しているのではないか」と批判し、次のように書いている。

 幾世代にもわたって競争主義的教育制度にさらされ続ける日本人は、競争は自らの生存を確保する手立てであると認識しがちだ。学校は競争の場であり、教育は競争を通じて自らの生存基盤を確保する手段である、と。このため、制度化された教育競争の理不尽さは十分すぎるくらい認識していても、また学力競争が子どもの人間形成をゆがめることはわかっていても、親たちは競争制度の中で勝ち残ることに子どもの生きる方途を見出さざるをえないと考えてしまうのではないか。このように考える人々は、教育を受ける権利や教育の機会均等原理そして日本国憲法は、競争を通じて自分や家族が勝ち取った優位をご破産にしかねない理不尽な仕組みにすぎないと考えるかもしれない。
 日常的生活意識に引きずられて国民の憲法意識がこのように変化すると、明文改憲によらずとも憲法規範の内実が変質してしまう。また、憲法意識の変化が進めば、日本国憲法の基本原理の意義を理解できなくなり、明文改憲を受容する意識が醸成されていく恐れもある。これらは明文改憲と同じ意味をもつ。政府は社会をこれまで以上に排他的・競争主義的に組織し、憲法意識の変質を促すモメントを強化している。これらにも適切に注意を払わなければ、安倍政権による改憲と国家改造プロジェクトに対する対抗軸を設定しそこなう可能性がある。〔同書、pp.160-161〕
 そのとおり、競争原理批判は、日常性のなかに生きる意識の変革としてでなければ成就しない。一方における競争の勝者はえらくて、他方における競争の敗者は努力が足りないという見方、考え方そのものを問い、転覆する必要がある。ふるい分け、ふるい落としを自明のものとする奴隷精神自体を変革しなければならない。 〔つづく〕 (M)

2020/04/15 競争原理批判(10)――悉皆式全国学力テストが学校を格子なき牢獄に変えた

教育に、評価でなく評点(点取り競争)を持ち込むことの弊害は繰り返し伝えていく必要がある。昨年12月、高知県の土佐町議会で「全国学力調査を、悉皆式から抽出式の調査に改めることを求める」意見書採択にこぎつけた運動の代表、鈴木大裕さんは、『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店、2019年)で、評点制度の愚を次のように批判している。以下、少し長めになるが、同書pp.98-99から引用、紹介する。

 「アカウンタビリティは、さまざまな意味で無責任だ」。そう言ったら、あなたは驚くだろうか。PISAショックや、ゆとり教育批判などの流れを受け、今の日本では、学力調査に頼った教育評価を疑問視すれば「責任逃れだ」と批判されるような雰囲気すら漂っているが、私はあえてアカウンタビリティの支配そのものを批判したい。
 私は、教育の効果が数値化できないとは思わない。ただ、そのすべてを数値化できるわけでもないし、実際に数値化できる認知能力などは、学校教育の幅広い効果のうちの一部に過ぎない。よって、それを軸に置いた学力観は偏っており、そのように偏狭な学力観にもとづいて教育政策を展開するのは無責任だ。誤解がないように言うが、評価をするなと言っているわけではない。アカウンタビリティも全面否定するわけではない。ただ、それが支配的になって費用対効果や測定可能なものだけを「教育効果」と定義した上で教育を評価すれば、学校はグローバル経済における即戦力を効率良く生産する工場、教育のプロであるはずの教育者たちは指示通りに働く労働者、教育はプログラム通りの結果を生み出す機械的な工程、若者たちは品質等級に分類された製品と化してしまうだろう。
 抽出式だった全国学力テストが全員参加に戻され、学校別成績開示までもが地方自治体の意向で可能となった現在、日本の学校、自治体間で点数競争が加熱し、アメリカと似たような現象が起きつつある(もしくはすでに起きている)。単に点数を上げれば良いのだから、教えるという人間的で複雑極まりない営みは、テスト対策のテクニックでしかなくなってしまう。そして、そのテクニックを持った教員がもてはやされ、その「カリスマ」たちの教材がパッケージにされて売られ、「成果」を上げた学校や自治体の取り組みが「ベストプラクティス」としてビデオやインターネットで拡散されるのだ。そして、従来テスト対策に特化してきた塾が教員研修や教材開発や補習を担うようになり、貴重な教育予算がどんどん民間に流れる一方で、少子化、効率化、デジタル化を理由に教員は削減されていく。少人数学級制は、費用に見合うほどの効果が出ないというが、なぜ「きめ細やかな指導」の効果をテストの点数で測ろうとするのだろうか。担任と生徒たちとの信頼関係、一人ひとりの特徴やニーズを生かした学級づくりから育まれる心の成長など、ペーパーテストでは測れない少人数制の教育効果は本当にないのだろうか。もし全国学力テストの数値だけで教育評価を行うなら、もはや学校は塾と変わらなくなり、教員の代わりにロボットが使われるようになるだろう。塾とは異なる学校の存在意義は、ロボットとは違う生身の教員の存在意義はないのだろうか。

 まさに、点取り競争(競争原理)が学校を、格子なき牢獄に変えてしまっているのである。許してはならない。
 パンデミックの影響を理由に、今年は全国学力テストが延期になった(「“200万人”全国学力テスト延期へ 感染拡大を懸念」3/16 テレ朝)。これを機に、教育とは何か、学校はどうあるべきかという根本的なところから論議をまきおこし、悉皆式を抽出式へ、さらに廃止へ、運動していく必要がある。

必読関連リンク
鈴木大裕「私は娘に全国学力調査を受けさせない 点数競争が過熱し、NY州では24万人の親が拒否。誰のため、何のための学力調査か」〔2019/02/27 WEB論座〕
インタビュー「あの人に迫る鈴木大裕 教育研究者、高知県土佐町議」〔2020/2/14 中日、2/15 東京〕
 〔つづく〕 (M)

2020/04/10 競争原理批判(9)――権力に簒奪されてきた敗北の歴史を振り返り、教育そのものへの問いを!

教育機会確保法の制定(2016年)は、けっして成果などではなく、むしろ危機なのである。かつては廃止勧告で息の根を止められる寸前までいった夜間中学がこれから開設されていく。危機だというのは、開設される夜間中学が文科省の下請けになっていくのか、それとも高野雅夫さんや夜間中学の仲間たちがこだわり続けてきた歴史を受け継ぐ奈良方式の夜間中学を勝ち取っていけるのか、正念場だからである。
 なぜ、そういえるのか。歴史は「これ等の人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させ」(「水平社宣言」1922年)てきた、悔しい歴史があるからである。同和対策審議会答申(1965)に始まり、男女雇用機会均等法(1985)、アイヌ新法(1997)、ホームレス自立支援法(2002)、健康増進法(2002)、障害者自立支援法(2005)、自殺対策基本法(2006)、障害者総合支援法(2013)……など、資本と権力は、弱者の要求を掠め取って、「人間を勦(いたわ)るかの如き運動」(予防反革命)を積み重ねてきた。
 これに対して部落解放運動は根源的な批判を深め、師岡佑行(1928-2006)は、「もう一度教育とは何かということを捉える作業が必要」と問いかけた〔『現代部落解放試論』柘植書房、1984-91増補、pp.247-248〕。

 解放運動のなかで教育の問題を考えるとき、教育とは何かを根本的に問う時期にきています。……識字学級や差別選別教育批判として行なわれてきたことは、教育全体に非常に大きなインパクトを与えてきましたが、教育全体のなかに解放教育の思想が生きているかといえば、生きてはいない。……今も新しい身分制の世の中で、エリート、中堅、平、落ちこぼれと分けられ……新身分社会というか、序列主義社会というか、学歴と偏差値によって一生が決められる状況になってしまっています。部落の親たちの教育要求には、自分の子供たちを一般並にしたいという要求があったと思いますが、逆にそれは競争原理にまきこまれる側面をもっているし、現にまきこまれてしまっています。つまり、新身分をつくり出す作業に手をかしているわけです。この点を捉え直して、それを打ち砕く教育を考えなければならないし、教育の原理が問われているのではないでしょうか。識字学級とは何であったのか、今日では何が行なわれなければならないのかと。同和教育全体が進学率向上に集約されてしまったり、解放塾が学習塾になってしまったりする状況を見直していかなければいけない。……かつて闘いのなかでかちとったものが、いまマイナスの作用を果たしているという部分を一つひとつ見きわめていかなければならないということですね。五〇年代から六〇年代にかけてあった差が基本的になくなったという現実のなかで、同じ主張を繰り返すのではなしに、もう一度教育とは何かということを捉える作業が必要同じ主張を繰り返すのではなしに、もう一度教育とは何かということを捉える作業が必要となっている時期にきていると思います。

 〔つづく〕 (M)

2020/04/08 競争原理批判(8)――制度や法律、政党に依存した運動が民衆運動を堕落させた

成績評価ではなく成績評定、評点、すなわち点数による序列化は、権力による民衆統治の手法の柱である。それは、虚構の機会平等において評点下位にふるい落とされた者自身をして、自分自身の無能力や努力欠如によるものとして諦めさせるもの(悪いのは自分自身!)ゆえ、極めて巧妙にできている。
 公教育にこの単位化、数値化によるふるい分けが浸透させられると、一人ひとりの子供や地域、学校の違いは無視され、平準化されて、単一の序列に位置づけられていく。義務教育!における形式中卒者の問題は、この単位化、標準化によるふるい分けがもたらす現実を如実に表している。「中学校を五百日以上休みながら「形式中卒」した」N少年として永山則夫は『木橋』(河出書房新社1990)で告発した。須尭信行は「法がその役目を充分に果していたなら夜間中学なんてものは必要ないはずだ! その生まれないはずの形式中卒者が生れ、必要ないはずの夜間中学が現実に必要なのはなぜだ!」と訴えた(全国夜間中学校研究大会1971)。
 日本は権利として教育が保障されているので特殊事例に過ぎぬと言い張る人びとがいるが、そのような人びとには現実が見えていない、いや現実を見る目、感じる心を奪われ喪ってしまっているのである。「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」(憲法第26条)、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」(教育基本法第3条)というのは、まさに絵に描いた餅にすぎない。
 1966年11月、行政管理庁(現 総務省行政管理局・行政評価局)が夜間中学廃止勧告を行った。これを生きる権利、学ぶ権利に対する死刑宣告と捉えた高野雅夫さんは半世紀以上にわたって夜間中学廃止反対の闘いを続けてきた。この闘いによって、文部省(現 文科省)や教育委員会、教師には見えなかった“存在しない者ども”の声が地上に現れてきたのだ。高野さんは、いう。

 われわれは制度とか法律とか政党とか、既成の事実に頼りすぎているのではないか。戦後ずっと行われた運動の代表的なものは、署名とカンパという形で取組まれてきたわけですけれども、僕はあれば戦後の民衆運動を堕落させた最大のガンだと思っているのです。つまり運動する、生きる、戦うということの基本的な姿勢は、みずからの力で戦うということで、その第一歩はみずからの生きざまをさらすことだと思っているのです。だから制度にならなければ、自分たちの権利が保障されない、また制度になったら保障されるというのは一種の幻想であり、そういうものがあってもなくても、自分たちの生存権と教育権は、つねに優先していかなければいけない。
 そういう意味で教育と医療はあらゆる権力から、あらゆる利潤から独立したところで行なわれなければいけない。だからそういう運動をやっている人たちが、なぜ政党とか政治家に頼るのか。請願とか陳情とか全くナンセンスで、あれは階級差別思想以外の何物でもない。……
 沖縄の全軍労がスト権がないのに合計七日間のストをやった。現実にそういう権利がすべてに優先する、また優先せざるを得ない現実に立っていたら、それが法律で規制されていようがなにしようが現実にはたたかうわけですね。……第一波ストに突入した時テレビに出た全駐労の委員長が全軍労書記長への電話の第一声で「ごくろうさんそちらは雨らしいですね」といったことが本土の民主運動の基本的な姿勢をみごとに象徴しているんだ。
 生命をかけて闘っている人間に対して、「雨らしいですね」という姿勢、これ程の人間蔑視、階級差別はないのだ。あれは観光でいったヤツに対するコトバですよ。だから闘争資金カンパや抗議集会という形でしか現れないのです。そんなものは本当の連帯ではないし、むしろ自分自身を加害者からいんぺいしていく行動でしかないんだ。自らを加害者として非情に裁かない限り被害者として共通の出発点にたてないのですよ。〔“連続射殺魔”永山則夫の「私設」夜間中学『ルンプロ元年자립〔チャリブ〕 父・母の歴史(うらみ)を受けつげ仇打ち』1975、pp.824-825、太字は引用者〕

 この立場に立ったとき、廃止勧告から半世紀を経た国―文科省による180度の方針変更は、けっして成果とは言えず危機と捉えることができる。2014年、文科相は国会で「各都道府県に一校以上の夜間中学が必要」と答弁し、翌15年7月には形式中卒者の夜間中学再入学を認める通知を出した。2016年には教育機会確保法(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律)を制定した。これは、果たして成果なのかどうか。夜間中学とフリースクールの問題をくっつけて立法化したものであり、不登校を生み出している原因を個人の問題としてしまい、学齢の不登校者も夜間中学に入学できるとしたことなど、評価できるものではない。また、学校型教育制度のもつ問題点を不問にした官制夜間中学が動き出している。「夜間中学の最大の危機」である〔編集委員会編『生きる 闘う 学ぶ 関西夜間中学運動50年』解放出版社、2019年、pp.4-5〕。
※なお、『生きる 闘う 学ぶ 関西夜間中学運動50年』購入ご希望の方は、私 tmaeda1966516@gmail.com あてにご連絡ください。 (M)

2020/04/05 『Debacle Path』vol.2ご案内

Gray Window Pressが発行するハードコア・パンクについての不定期刊雑誌『Debacle Path(ディバクル・パス)』vol.2が、2020年4月25日ごろ発売予定です。A5版並製176ページ、日本語(※各記事の概要(英語)あり/Includes English abstracts of each article)、ISBN978-4-9910725-2-9。
 「ハードコア・パンクと学術」との特集が組まれている(パンクは常に、「学校」だった/ジェフ・エヴァンス/パワーバイオレンスから思想犯罪まで/マックス・ウォード/私たちのパンクのアイデアを積極的に再考すべき/スチュアート・シュレイダー ほか)。
 私は、「誰のために歌うのか 天皇の戦争責任と日本語の歴史」を載せてもらった。感謝。ぜひ、読んでください。この骨のある雑誌を購入してください。直販予約受付中! 1,400円+送料(ゆうメール、クリックポストの場合は全国一律200円。直販は4月中旬~20日ごろの発送予定とのことです。 (M)

2020/04/04 競争原理批判(7)――停課革命(全共闘運動、文化大革命)の歴史的意義

日本の全共闘運動、中国の文化大革命は、ともに停課革命だった。停課革命とは、「公」でも「教育」でもなくなってしまった公教育に対して、授業停止によって日常を断ち切ることによって、そのあり方を問い直す運動である〔拙稿「教育革命いまだ成らず」2007年、参照〕。
 1969年1月18-19日、全共闘が占拠していた東大安田講堂は、権力と大学当局の要請による機動隊8,000人によって封鎖解除され、20日、1969年度入試中止が決まる(東京教育大も体育学部を除いて中止)。ペーパーテストによる点取り競争は「紙切れ一枚に身をたくす/まるで河原の枯れすすき」と「受験生ブルース」(作詞・中川五郎、作曲・高石友也)で歌われた、まさに「砂をかむよな味気ない」学校生活を青少年に強いていた(今も変わらない!)。私自身も、「おばけにゃ学校も試験も何にもない」という「ゲゲゲの鬼太郎」(作詞・水木しげる、作曲・いずみたく)に快哉を叫びながらも、点取り競争に翻弄されていた。息苦しさは、「とにかくいい学校を出て、」という親や“世間”にのまれていく自分自身へのいらだちでもあった。だからこそ、東大入試中止事件は、何かが変わるのではないかという一縷の希望をいだかせた。
 中国での停課はさらに大がかりなものだった。1966年6月6日、北京の高級中学生(日本の高校生にあたる)は大学の入学試験廃止を要求、その根拠は、①受験のため書物の山に頭を突っ込ませる②学校を進学率追求一辺倒にする③徳、知、体の全面的成長を妨害する――という3点だった。またたく間に共感と賛同は広がり、10日には北京市第四中学は全校で、現行制度を「新しい科挙」だと批判、入試廃止を要求した。これに対して、13日、「中国共産党中央委員会と国務院の、大学・専門学校の学生募集・入学試験方法の改革にかんする決定」でこの年の大学・専門学校の新入生募集を半年延期とした。大学と中学の授業は全面「停課」となり,期末試験もなくなった。教育革命(紅衛兵運動)は、「停課」によって時間を、「串連」(他校他地方との経験交流)によって空間を得たという(文革 – 停課閙革命(1966))。
 いずれの歴史的経験も、私たちに、何のため誰のための教育か、根源的な議論を広く行うためには、まずもって前提として、点数競争自体をひとまずストップ(=停課)する必要とその意義を教えた。
 萩生田文科相は先日、4月16日に予定されていた今年度の全国学力テストの当面見送りを発表したが、私は、延期から中止へ、さらにその廃止へ向けた議論へ広がることを心から望む。昨年12月、高知県土佐町議会は、全国学力調査を悉皆式(全国の小6と中3を対象とする全員参加形式)を抽出式にするよう国に求める意見書を採択した(戦後史における悉皆式と抽出式をめぐる経緯については久冨善之さんによるまとめを参照)。これは、有理有利有節にかなった要求であり、新自由主義にまみれた公教育に「公」と「教育」を取り戻していく第一歩となることは間違いない。

【4月5日 追補】『都政新報』2020年4月3日付に、鈴木大裕さん「立ち止まって考える教育と「幸せ」」が掲載された。鈴木さんは、紹介した土佐町議会の意見書の提案者の一人で、《全国学力調査を抽出式に》の指導者である。悉皆式全国学力調査が地方自治体や学校を点数競争の巻き込み、この息苦しい格差社会を支えている現実をとても分かりやすく解き明かしており、必読です。 〔つづく〕


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