繙蟠録 I & II
 

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繙 蟠 録 II 2013年3月

2013/03/31 1・27文革シンポジウム記録の公開

1/7付でご案内したシンポジウム「レンズが撮らえた文革 1966年から21世紀中国への視座」が1月27日,多数の参加を得て専修大学(神田校舎)で開かれ,その記録が『専修大学社会科学研究所月報』No.596(2013.2.20)にまとめられ,先ごろウェブ公開されました。

 掲載URLは
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/smr596.pdf
〔PDF, 938KB〕で,私が司会を担当した「歴史を記録するということ、あるいは隠蔽への抵抗 ~シンポジウム記録~」はpp.37-57です。お読みいただき,3/28付でも述べた歴史のとらえ方についてもお考えいただければ幸いです。(M)

2013/03/28 中国の都市の単位制度と歴史の内面的理解

橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司の三氏に対する3/10付批判の続き。

 中国の都市の単位制度については,たとえば,柴彦威・劉志林「中国都市における単位制度の変化と生活活動および都市構造への影響」(『東京大学人文地理学研究 16』pp.55-78, 2003-10-01)がある。「新生中国にとって,国家の総力を挙げた中央集権体制によって国内の資源を総動員し,生産活動システムを維持しながら貧困を脱出し,社会生活システムを高度にコントロールできる都市建設が必要とされた。単位制度は,限られた資金や資源を最大限に工業建設に使用し,国家が生産システムと生活システムとの両方をコントロールできるものとして登場した」として,同論文は「一方,単位制度の組織的,政治的基礎が革命期における根拠地制度と供給制にあった〔中略〕1930~40年代には,共産党と解放軍の根拠地では,集団生産,平等分配を特徴とする供給制が実施され,個人生活のすべてが集団によって管理されていた。また,根拠地内の政府機関や軍隊,学校などは,生産農場や工場,商店などの施設をもっていた。こうした生産と生活システムの戦時臨時体制は初期国有単位の原型と見られ,建国後の社会主義都市建設に影響をもたらした」と指摘している〔太字は引用者〕。

 橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司の三氏による『おどろきの中国』に対する私の批判は,先に述べたような中国近現代史についての基本的事実に対する無理解に対してただ向けているのではない。彼らは,中国の歴史と社会の外にあり,たとえば単位や档案などの制度をどのように批判しても何ら痛みを感じない。自分自身の居る日本の歴史と社会を進歩したものと自明に捉え,そこから見下ろしているのである。その侵略者的心根を私は心から軽蔑する。

 では,中国史の内面的理解とはどういうことか。私の尊敬してやまない増淵龍夫先生が,名著『歴史家の同時代史的考察について』(岩波書店,1983)のなかで陳垣や魯迅の歴史意識にふれ,次のように指摘している。

そこでは,現実の背後にあるぶ厚い歴史の厚味を,やり切れない程の重さとして実感されている。そして,それをなんともやり切れない程の重さとして実感するということは,現実と,その背後にある歴史のぶ厚い厚味に,抵抗し,それをはねかえさねばならぬとする主体の決意,いいかえれば,現実と歴史とに対する対決の決意があるからでしょう。〔中略〕外の力を借りることで改革を期待することができると考える者にとっては,歴史の外に期待を求めることで,歴史と対決をさけることができますから,現実の背後にぶ厚い歴史の厚味を実感することも比較的少なくてすみ,又それを,耐え切れない程の重さとして,実感することもなくてすむのかも知れません。目は外に向き,自らの内にむかわないからでしょう。現実を変革して行くためには,自らの力による外はない,とい決意するとき,現実の背後にあるぶ厚い歴史の厚味は,耐え切れない程の重さをもって実感されてくるのですが,それとの不屈の対決の持続を通じて,そのような主体の決意をささえる力を,歴史の底に新たに見出すことにもなるのです。〔同書pp.103-104〕
この立場から改めて考察するとき,「日本を代表する三人の社会学者」三氏の何と薄っぺらで軽いことか。(M)

2013/03/10 「日本を代表する三人の社会学者」に欠如する歴史的視座

ある哲学者が教えたとおり,学問の批判は「もっとも単純な、もっとも普遍な、もっとも根本的な、もっとも大衆的な、もっとも日常的な、何十億回となく繰り返される関係」に向けられなければならない。在特会の行状には眉をひそめてみせても, 高校の就学支援金対象から朝鮮学校は除外すべきとしたり顔して語って恥じることのない「リベラル」「良識派」をこそ,正面から批判する作業が必要なのである。

 新刊『おどろきの中国』(講談社現代新書,2013年2月)は,現在の日本社会における「リベラル」の内実を如実に示しており,ここで採り上げて名指しで批判するゆえんである。「なぜ日本人の「常識」は彼らに通じないのか? 日本を代表する三人の社会学者が対症療法ではない視座を求めて白熱の大討論!」という帯(表4)の惹句は版元の編集者が書いたものか,その“日本を代表する三人の社会学者”橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司の共著である。
 大澤さん――この人,9・11直後の議論(一例として日仏会館でのシンポジウム)で「公共性」を振り回す莫迦共に批判的だったので好意的に見ていたのだが――の「毛沢東は皇帝である…という命題は,社会学的に見て正しい主張なのか」という問いから“白熱の大討論”を始めている。

橋爪 毛沢東は皇帝か。イエスであり,ノーですね。〔中略〕皇帝そのものかと言うと,決定的な点がちがっていた。毛沢東の中国共産党は,伝統中国の官僚制に比べ,はるかに社会の末端にまで支配の根を下ろしているという点。〔中略〕都市にも,新しい共産党のユニットをつくった。「単位」〔ルビ:ダンウエイ〕(英語では,ワーキング・ユニット)というものです。
大澤 単位というのは,日本にはまったくないタイプの集団ですね。どんなものですか?
橋爪 単位とは,まあ,職場だと思って下さい。工場,病院,学校,商店,バス会社,政府機関,……など,どれもが単位。都市は,単位の集まりである。そして,労働者は必ずどれかの単位に所属する。中国に独特の制度です。〔中略〕農民も,都市生活者も,こういうふうに,生活手段を握る共産党に首根っこを押さえられている。この共産党の頂点に立つ毛沢東の権力は,伝統中国の皇帝が及びもつかない,絶大なものであると思います。

こうして「日本を代表する三人の社会学者」は延々とおどろおどろしく「歪曲,誤解にまみれた「嫌中,嫌毛」狂想曲」(by 矢吹晋さん)を繰り広げるが,歴史的視座はまったく欠如している。物事には歴史的な生成の過程があるということを知らずにどうやってその物事の本質に迫ることができようか。

 中国社会の単位とは,長い闘いの産物なのである。中華人民共和国の建国は,日本侵略者に対する抵抗戦争,国民党軍との内戦の末に勝ち得たものだった。南昌起義から数えても21年,あの長征をもはさんで,直接的生活の生産(衣食住をこしらえ,子供を産み育て…)を包み込み戦い続けた。単位には革命戦争と解放軍の歴史が刻まれているのだ。

 嗚呼,著者たちは自分自身が歴史的視座を欠いていることの自覚すらないようである。本書の帯(表1)には「そもそも「国家」なのか?」とあるが,「そもそも「学問」なのか?」と彼ら自身が問われているのである。(M)


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