繙蟠録09/06/12付をめぐるmixi上での森洋介さんとのやりとり

対話 「反貧困」運動について考える

森洋介+前田年昭
森洋介   2009年6月12日 15:58
 「6/12付 「反貧困」の心情」について。
 かつての物取り主義勞組みたいな「反貧困」運動に乘れないといふのは理解できます。ベーシック・インカムがどうとか馬鹿らしくて聞く氣がしませんし。しかし……次の箇所は矛盾,でなければ飛躍でせう。
「健康保険も年金もなければどう生きていけるのか,未来がない。[…略…]どん底原住民はもともと健康保険も年金もないなかで,どっこい生きてきた。ないない尽くしで奪われた未来を取り戻すには,現在を革命する以外にない。」
 もともと健康保險も年金も無い儘どっこい生きてゐる貧民としては,別に革命の必要も無くて,現状維持でよいわけですが……?
 保險や年金を寄越せと言ひたいわけぢゃなし。單に低收入で生きてゐるだけで全然「階級」ではないし(「流動的不安定貧民」といふのは,その形容からして,定まった階級を成さぬことこそが特性の筈。なんだかマンハイムの自由浮動的インテリゲンチャといふ概念みたいになりさう)。そもそも,そんなに生きたいわけぢゃなし,死んでもいいのだし。未來は,奪はれたものといふより課せられた重荷と感じます。あゝ早くお迎へが來ないか喃。
 「競争そのものを廃止すること」は,生きてある限り無理でせう。生存競爭自體からドロップアウトすることを肯んじられない限りは。生命力(生活力かも?)に乏しい人間からしますと,「抵抗と革命の力」といったものがもたらすであらう抗爭は競爭と一緒に見えてしまひますが如何。
前田年昭   6月12日 16:33
 森さん,コメントありがとうございます。
 ご指摘のところ,誤解をさせる小生の文章力のなさを反省しています。ちょうど先ほど,ミニ改訂した【註】ところですが,「健康保険も年金もなければどう生きていけるのか,未来がない」というのは私の実感でも主張でもありません。それは,ベーシックインカムを言う人々の言い分です。つまり,没落し転落する(と恐れおののいている)中産階級の言い分です。
 註:【健康保険も年金もなければどう生きていけるのか,未来がない。】を【「健康保険も年金もなければどう生きていけるのか,未来がない」というわけだ。だから生きさせろと要求しているようなのだ。】に書き換えた。
 森さんがおっしゃるように「もともと健康保險も年金も無い儘どっこい生きてゐる貧民としては,別に革命の必要も無くて,現状維持でよい」というのもひとつの生き方として共感を持ちます。同じように,個別に強盗を乞食をやるのもまた同等にひとつの生き方と私は思っています。
 私は,徒党を組んでこの世間をどうにかしようと思うなら,保険や年金をどうにかしろなどというチンケなモノを求めるのではなく,政府転覆を,革命を求めるのがよい!と言っているのです。
 「「抵抗と革命の力」といったものがもたらすであらう抗爭は競爭と一緒に見えてしまひます」とは,これまでの日本の社会運動が,エリート主義と大衆蔑視にまみれた代物だったがゆえの当然の感じ方と思います。そのとおりだったと思います。でも,嵐のように立ち現れ,そして消え去った義和団運動や毛沢東運動を思うと,私はなぜか,心がワクワクするのです。こんどやるなら,あれだ!と。

追記
 日本の左翼運動は新左翼も含めみな,東大新人会以来の流れを何一つ出ていない。彼らの愚民感はヒドイものである。組織内でも,学歴や文筆や演説やの力によって序列があるし,内部の抗争や競争は絶えることがない。世の中を変えようと主張している組織の内部を見れば,その人たちが作ろうとしている社会なるものがどんなものか,明らかだ。
 全共闘はこれを転覆する可能性があったが,全国全共闘のトップを東大全共闘にするようなトンデモをやってしまったことによって自滅した。日大全共闘や夜間中学をトップにすえることで,ちがう社会の可能性を示せたのに!である。
森洋介   6月12日 17:33
 いえ,「健康保険も年金もなければどう生きていけるのか」が前田さん自身の言ひ分でなく自由直接話法であることは,誤解してをりません。そのあとが,革命へと繋がる必然性がないので論理的矛盾乃至飛躍と感じた次第です。ステイタス・クオもひとつの行き方と認めるとおっしゃるなら猶更,「革命する以外にない」ことはなくてそれ以外の選擇肢が現にあるわけですから。修辭上の誇張なるのみと言はれればそれまでですが。
 悲觀論かしれませんが,おっしゃる「エリート主義と大衆蔑視」を拔きにしたとて人間にエゴイズムがある限りどんな社會運動にも競爭は不可避だと思ふのです。そこで消極的に引き籠らずに活動する人は,さういふ縁切りできないものともどうにかうまいことつきあってゆかねばならないのでせう。
前田年昭   6月12日 18:57
 ふむ。
 「革命以外にない」のは小生の好みとういうか,主張ですから,ご指摘の通り,ここは〈飛躍〉です。ここがロドスだ,いっしょに跳ぼうぜ! なんちて。
 「消極的に引き籠らずに活動する人は,さういふ縁切りできないものともどうにかうまいことつきあってゆかねばならないのでせう」とのことですが,いえいえ,そうではないのです。そのような競争のある運動や組織からはすたこらさっさと逃げる「以外にない」(=修辭上の誇張!)。
 義和団運動にしろ,毛沢東運動にしろ,その競争やら何やらを超え大同社会の夢を引き寄せた一瞬(たしかに一瞬にすぎないかもしれませんが)があったからこそ,千年王国運動の熱狂と祝祭を生み出し得たのだと思います。
 でも,これまた「生命力(生活力かも?)に乏しい人間からしますと」熱狂や祝祭など望んでいないと言われてしまいそうですが……
森洋介   6月13日 13:08
 熱狂や祝祭である革命とは,バタイユ風のイメージでせうかね。小生など,福田恆存が譯し論じたD・H・ロレンス『アポカリプス論』を想起しますが(『現代人は愛しうるか』中公文庫,1982→『黙示録論』ちくま学芸文庫,2004)。ロレンスの論は,前半で信仰にさへ忍び込む權力慾を批判したところに加へ,後半ではオカルト思想に入り込んでゐるといふところが,いまの話題に重ねられるやうに思ふ次第。小生も知識としてのオカルトは好みますが,そこ止まりです。なぜなら,たとひいづくかで起きるのかもしれないにせよ,少なくとも縁無き凡夫であるこの身には如何なる特權的瞬間も訪れないと思ひますので。「おお希望はあるとも,大ありだ。ただ,僕らにとってのではないんだ」てなことをカフカが言ってゐたとか。
前田年昭   6月13日 23:38
 森さん
 コメントありがとうございます。
 森さんの「そもそも,そんなに生きたいわけぢゃなし,死んでもいいのだし。」というのも確かにわからないわけではありませんが,貴兄の古本漁りの情熱と 生 命 力 を見ている限り,ちょっぴり眉唾(失礼!)。
 たしか,黒田喜夫の詩のなかだったと思いますが,

  このまま生きることはできない
  このまま死ぬことはできない

というのがあったはずですが,私の実感はこのあたりでしょうか。全共闘を経験した私にとって,もういちどあのとんでもなく愉快な時代を見てみたい,見ないうちには「死ぬことはできない」のです。
※ 森洋介さんのお許しを得て、mixiから転載しました。論議が拡散しないように二人のやりとりにしぼって再編集しましたが,発言内容自体は初出のままです。09.06.15(M)

web悍 Topへ