創刊記念イヴェント記録 #1/3
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前田

こんばんは。きょうは本当に大勢来ていただいてありがとうございます。きのうのように寒くなくてよかったです。大阪から千坂恭二さんをお迎えしてのトーク・セッションを始めます。実は私自身,千坂さんと直接お会いするのはきょうが初めてです。そういうこともあり,私はきょうは対談相手というよりも聞き手として,まず一時間ほどお話をお聞きし,それから会場のみなさんからの質問を交えて討議したいと思います。

 千坂さんは,60年代後半から70年代,ほとんど毎月のようにどこかの月刊雑誌に文章を書いておられ,あの時代の生んだスターでした。今回,1月末にジュンク堂に企画を通してもらい,友人たちに案内を出しました。たとえば私の旧友のなかに神戸の大学で哲学を教えている松葉祥一さんがいますが,すぐに返信メールが届き,「千坂恭二,懐かしい。元アナーキスト高校生としてはあこがれの存在でした」とありました。私自身,あの頃の記憶を申し上げますと,72年2月の『情況』で藤本進治と並んで巻頭に千坂さんが書いた文章は印象的でした。アナキズムがアナーキーな状況ということとほとんど同一視されているが,気分としてのアナーキーではなくアナキズムとは何かを考える,そう主張する硬派,原則派の書き手という印象でした。

 今回は,『悍』第1号に千坂さんが発表された「一九六八年の戦争と可能性」,それと97年の『情況』に載った「日本的前衛とアジアの大衆」,この二つを中心にして,「大東亜戦争革命論」ということでお話をうかがっていきたいと思います。

日本は一国で国際的に孤立していたのではない

前田

千坂さん,従来,先般の戦争を考える場合に「大東亜戦争」という言葉を使うことへの反発やアレルギー,タブー視する傾向がありますよね。そういうことについて,千坂さんはどういうふうに考えていますか。

千坂

名称的に,大東亜戦争というのは普通は左翼は使わないですよね。僕も普段は大東亜戦争という言い方はしないんですよ。第二次世界大戦アジア太平洋地域戦というような,非常に中性的な言い方をします。というのは,大東亜戦争という言い方であると,日本だけが戦争をしていたような感じになる。ところが,第二次世界大戦と言ったときは,あちらにヨーロッパ・アフリカ戦というのがあって,そしてこちらにアジア太平洋戦というのがある。確かに戦争遂行において,日本とドイツの間には統一的な意思一致はなかったんでしょうけれども,では,日本がなぜ仏印,今のヴェトナムに進駐できたのか。ドイツがフランスを倒して,フランスがヴィシー政府になって親独的な中立政権になったから仏印に平和進駐できたわけです。そういう形でヨーロッパの戦争とアジアの戦争は連動している。

 ところが,いままでの戦争に対する見方は,右翼も左翼も,結局はヨーロッパの戦争との関係を全く見てこなかった。あたかも日本だけが一国で戦っていたような見方をしている。ヨーロッパでは主流がナチス・ドイツですよね。ナチスに対するネガティヴなイメージが右翼にも左翼にもあった。右翼にしたら,日本は万古無比の国体で,戦争は聖戦である。それをナチスと一緒にされてたまるかということでしょう。右翼は,ナチスは白人であるから,日本がドイツと手を結んだのは偶然的で技術的なもので,本質的なものではないのだという見方をしていると思うんです。また吉本隆明さんなんかの戦争論でも,結局は日本一国戦争論なんですよね。要するに,日本は孤立していた。世界史的孤立っていうんですか,日本の大衆は世界的に孤立していて,単独で戦ったたのだ,と。

 これであの戦争を総括できるのか。もし,日本が単独で戦争をしていて,俗に言われるように「包囲」されていたのだとして,その包囲を突破しようとして攻めていった。ところが,結局は物量が足らなかった。反撃され包囲を狭められ,もう行き場がない,それでもう降伏するしかない,とこういうことになりますよね。ところが,もし戦争が日本単独ではなしに,海外の同盟国がバックアップするとどういう現象が起きるかというと,亡命ができる。本国がダメであれば,たとえば潜水艦で天皇を移して亡命政府を作って徹底抗戦ができるわけです。そうすると,「戦後」というのは必然的ではなくなるんですよ。日本一国で戦争をして逃げ道がなかったというのであれば戦後になるんだけれども,もし同盟国がいたのであれば,戦後とは違う選択肢が可能であったと思います。もちろんその場合に,ドイツが5月に降伏して日本は一国になったじゃないかと言われるかもしれませんけど,それはあくまでも歴史的事実であって,戦争そのものの性格として,海外に味方を持っていた,当時の言葉でいうABCD包囲陣の外に味方がいたとするならば,そこへ亡命できる。そうすると,戦争の性質が大きく変わってくると思うんですよね。

 じゃあ,なんでそういうような見方をしなかったかというと,ファシズムに対するアレルギーというのかな,ナチスに対する否定的なイメージ,端的に言えばホロコーストの問題があると思うんですよね。そういうことをやったナチスと一緒にされたくないといった感じ。だから,たとえば右翼なんかでも,結局は日本無罪論なんですよ。日本無罪論の真理は何かと言ったら,「日本は侵略なんて,そんな悪いことはしてません。民族防衛をしようとしたのだ」という形ですね。でも,僕に言わせれば,それはアメリカに対する泣き言なんです。まだしも左翼の侵略戦争論のほうがまっとうだと思うのは,日本の中に侵略という否定的なものにせよ「意志」を見ているからです。要するに,アメリカとかイギリスが支配している世界を引っかき回してやるという,向こうからすれば侵略なんだろうけれども日本の意志がある。保守的な人の言う日本無罪論には,意志すらないんですよね。それは当時の戦争の現実に追いついてないし,戦争を矮小化しているのではないかなというのが僕の基本的な見方なんです。

前田

そうですね。右派の人たちの言う「大東亜戦争は防衛戦争だった」論でもなく,左派の人たちの言う「侵略戦争だった」論でもない。日本は革命戦争を闘ったという主張ですね。旧権力の側から言えば無罪ではなくて有罪であると。この戦争の性格を考えるにはやはり,日本の近代の性格をどう捉えるのかから考える必要がありますね。

 このポスターにも千坂さんの主張の骨子を書いてあります。「大東亜戦争は,アングロ・サクソン的帝国主義のヘゲモニー下にあった世界に対する世界革命戦争である。明治以来の近代日本とは革命国家だったのである」。明治以来の日本を革命国家として見るというのは,従来の脱亜か講和か,近代か反近代か,という二分法とは違います。竹内好さんも橋川文三さんも,この戦争の二重性をずっと指摘され,バリバリの近代主義者であった丸山眞男までが,やはり戦争の二重性ということを前提していますが,そこにある近代か反近代かという二分法ではなく,実は三つ巴ではなかったのか。つまり西欧的近代に対して,一つはドイツ的な近代,遅れてきたがゆえに近代批判の契機をもったもう一つの近代がある。さらにもう一つ,国粋的近代がある。この三つ巴ではなかったかというのが千坂さんの主張ですよね。

日本の近代は,士族的近代,ドイツ的近代だった

前田

これは明治維新をどう見るのか,明治以来の日本国家をどう見るのかということに関わってきます。戦争の性格を考察する前に,少し時間を戻して,明治日本はどういう性格だったのかについて聞かせていただけますか。

千坂

明治だといちばん有名なのは福沢諭吉の「脱亜入欧」です。日本が近代化するためにアジアから出てヨーロッパ化する。でも,本当にそうなのか。本当に日本はアジアから抜け出してヨーロッパに行ったのか。これは単純に考えてもすぐわかると思うんですけど,日本が行ったヨーロッパというのは,実は必ずしも一つの単位で捉えることができない。ヨーロッパの中もいろいろと複雑に絡み合って拮抗しているわけなんですよね。日本が最終的に選択したヨーロッパはドイツなんですよ。では,ドイツはヨーロッパというカテゴリーで把握していいのだろうか。確かに,日本からすると地理的にドイツはヨーロッパにあるのだけれども,近代史でヨーロッパに対して反対の手を挙げた,つまり抵抗したのがドイツなんですよ。近代というのは煎じつめればフランスなんです。ドイツはフランスの横にあって,フランスからの影響を受ける。そして,それに対して抵抗する。ドイツのフランスに対する抵抗は,近代に対する批判になるんです。そのいちばんわかりやすい例が,ゲーテの先生になるのかなあ,ヘルダーとかね。つまり,フランスの普遍主義に対して,個別主義を主張する。あとはドイツ・ロマン派であるとか,ドイツ観念論もそうですよね。ドイツ観念論とは,結局,フランスに対する批判なんですよね。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』は言うまでもありませんが,ヘーゲルの『法哲学』にしても,フランスに対する批判です。ドイツはヨーロッパの中で,反ヨーロッパあるいは反近代の最先端にいた。日本が脱亜入欧で行ったヨーロッパは,ヨーロッパの中にある反ヨーロッパであった。

前田

ヨーロッパの中のアジア……?

千坂

そうですね。そこらへんをきちっと見ていかないと,近代の脱亜入欧と言われているものの本当の姿が見えてこないのではないかと思います。では,ドイツとはヨーロッパでは何なのか。フランスでは第一次世界大戦のころ,ドイツを批判するとき「フン族」と言うんですよ。フランス人はドイツ人をアジア人だと批判するんですよ。ドイツとは,日本からするとヨーロッパなんだけれども,ヨーロッパからするとアジアの最前線だという見方をしている。だから,脱亜入欧ではなくて,脱亜入独,あるいは脱亜・反欧・入独。要するに,ヨーロッパがフランスだとすると,反西欧と言うのかな,三つ巴の構造になっていると思うんですよ。それを二極構造で見るから,ドイツの問題が抜け落ちる。ドイツの問題が抜け落ちると,アジアの問題が抜け落ちる。結局,日本はアジアの問題とドイツの問題を捉えそこなった。

 日本の明治維新の近代というのは,サムライがやった近代なんですね。しかし,俗に言う近代というのは,平民の近代だと思うんです,市民革命であればね。日本の近代は士族がやった近代である。士族の条件は,読み書きができる,武術の心得がある。士族というのは戦士ですよね。近代のドイツがフランスに対して出したイデオロギー闘争も,要するに「商人対戦士」ということなんです。つまり,西欧の商人に対して戦士であるドイツが抵抗するという形です。日本における士族的近代は,その社会性からしてもドイツ性をもっていたと言えます。当時の日本人がドイツのことを意識していなくても,本質的な意味で,ドイツ的な反西欧的近代性をもっていた。だから実際にドイツに行ったときに,ハマったというんですかね。そのあたりのことが正確に理解されなかったため,先ほど言った大東亜戦争の問題も一国論になってしまった。日本浪漫派でもそうでしょうし,京都学派でもそうでしょうが,たとえば京都学派は,ドイツ観念論の影響を非常に受けているにもかかわらず,戦争については高山岩男の『世界史の哲学』でも,全くドイツの捉え方を失敗しているんです。彼らはドイツをやはり西欧のカテゴリーで見てしまっている。だから,自分たちを位置づけられないんです。

廣松渉さんはファシズムを内側から考えようとした

前田

京都学派に対して,左翼はこれまで外側からの批判しかしてこなかったと思うんですけれども,亡くなられた廣松さんは内在的に批判しようとしました。つまり,京都学派の総括をとば口にしてファシズムの地平を超えようとした,誤解を恐れずに言えばファシズムのなかに新たな可能性を見いだそうとしたわけですよね。

千坂

廣松さんはね,そんなにファシズムについて書かれてないんですよ。『マルクス主義の理路』の中の「全体主義的イデオロギーの陥穽」だったかな,あれでファシズムについて書かれていますけれども,廣松さんが『〈近代の超克〉論』の中で使っている文献などを見ますと,廣松さんがファシズムに注目していたのは,ファシズムには近代のアトミズムに対する批判があるということですね。廣松さんの理屈で言うと,ファシズムを批判できるのは物象化論だけであると。では,ファシズムと物象化論は何が違うのか。ファシズムは社会を実体化していくが,物象化論は社会を実体化せず社会的諸関係の総体として見る。そこで物象化論はファシズムをアウフヘーベンするというのが,大雑把な廣松さんの段取りなんですけどね。それを日本に見て書いたのが,例の『〈近代の超克〉論』,昭和思想史論というか京都学派批判ですよね。ところが,あれは京都学派批判ということになっているんですけれども,京都学派に対する廣松さんの思い入れが,読んでいてものすごくよくわかる。ああ,廣松さんは京都学派にかなり好意的だったんだな,という感じはするんですけれどね。

前田

その後,廣松さんは亡くなられる前に『朝日新聞』に文章を書いて,「東亜の新秩序」というスローガンを左翼の側に,反権力の側に取り戻すべきだ提起します。これがまた物議をかもし,一時は話題になりましたが,真剣に考え続けていこうとした人たちはそう多くはありませんでした。

千坂

多くなかったですね。やっぱりいままでの先入見とかがあったんじゃないでしょうか。たとえば,子安宣邦さんは『「アジア」はどう語られてきたか』で廣松さんを批判したんですよね。子安さんも結局,近代を人間論的に見ているからああいった批判になるのだろうけれども。廣松さんがファシズムに着目した理由は僕もわからないんですけれども,こうだったと思うんです。近代というのは三つしか現実がないんですよ。つまり,資本主義と,共産主義社会主義,いわゆるスターリン主義的ですよね,それからファシズムです。この三つしかないんです。人間はどんな思想を抱こうと何かの手先になってしまう。だから,自分は何の手先になるかということを自覚しないといけないわけです。

 たとえば,ドイツが東西分裂したときに,エルンスト・ブロッホというマルクス主義者が東側ドイツにいた。で,西ドイツに亡命した。そして東ドイツのスターリン主義を批判した。それはどう考えても西ドイツの手先になっているんですよ。自分の思想が現実性をもつためには,さっきの三つの現実しかないんですからね,どれの手先になるか,です。手先と言うのは語弊があるかもしれませんが,もし資本主義がダメでスターリン主義もダメだということになると,もう選択肢はファシズムしかないんです。でもファシズムを肯定できないのであれば,今度はファシズムをアウフヘーベンしていくしかないんですよね。たぶん廣松さんはそういう問題意識をもっていたんじゃないかと思います。昔だったら,「反帝国主義・反スターリン主義」という言葉がありましたけれども,では,反帝国主義・反スターリン主義を受け入れて何になるのか。現実は三つしかないわけだから,唯一,反帝国主義・反スターリン主義の現実をもつものはファシズムだけでしょう。何のことはない,ファシズムというのは「反帝・反スタ」ではないのかと。彼らは,アングロ・サクソン,米英の資本主義が支配している世界をとにかくひっくり返そうとした。その内容はともかくとして,ひっくり返そうとした。それに対して,トロツキーが何をしたかというと労働者国家の擁護論なんですよね。つまり,ソ連はスターリニスト官僚によって歪曲されているけれども,労働者国家としての社会構造は残っているから労働者国家ソ連を擁護しようと。結局,トロツキーのそういう立場は現実的にはスターリン主義の分派になってしまうんですよ。それに対して,ファシズムのほうがまだ反スタ主義をもっていたのではないかと思うんです。では,なぜそういうふうに考えることができなかったのかといえば,ホロコーストなんですよ。ホロコーストをするのがなんで革命的なのか,そんな残虐なことをして……という形で,みんな二の足を踏むことになるんですよ。

前田

そうですね。

千坂

だから,ホロコーストとは何なのかという問題をわれわれは解かなければならない。ホロコーストについてはいろんな本が出てますし,映像もいろいろとあるんですけれども,では実際にホロコーストとは何であったのか,ナチスはなぜあんなことをしたのか,なぜあれを継続できたのか,ということについて,きちっと説明している本ってないんですよ。たとえば,残虐行為であるとか,人種差別であるとか,反ユダヤ主義であるとか,そういう外在的な説明ばかりなんですよね。外在的な理由でああいう持続的でシステム的な物理的抹殺ができるのか。できないですよね。たとえば,カソリックなんて反ユダヤ主義ですよ。人種差別なんて,ナチスだけじゃなくて,いまでもどこでもやっているじゃないですか。むしろユダヤ人だってやっているぐらいですからね。だから,そういう一般論なんかではホロコーストは語れない。それからもう一つは,たとえば,残虐行為という説明についても,殺戮衝動というパッション的なことでやるのであれば,一週間であるとか一月ぐらいならやれるかもしれません。わーっと来て,やっちゃえ,やっちゃえという感じでね。

 ところがホロコーストはちゃんとしたシステムを作って,冷静に,よく言われるように,工場で商品を作るように死体を生産するわけでしょう。そのようなことは残虐とかいった心理ではできないんですよ。もっとそこには倫理的な動機が要るわけです。それを持続させるためにはね。彼らはたぶん「善き行為」ということでやっていたと思うんです。あるいは,そういうものであろうとした。たとえば,ヒムラーが部下の親衛隊員に行った訓示などを見るとよく分かるですよね。「われわれのやることは非常に苦痛である,苦痛であるがその苦痛に耐えてやれ」と。これはカントの倫理学ですよ。では,そこにどんな倫理的動機が働いていたのかというと,これは僕の一つの仮説なんですけど,あれはナチスが社会主義者であったことの存在論的な証明というか,そういう構造をもっていたんじゃないかと思うんです。国文社から,フランスのジェフリー・メールマンの書いた,『巨匠たちの聖痕』という本が出ています。「コンバ(闘争)」時代のブランショであるとか,いわゆるフランスの知識人たちが昔は反ユダヤ主義であったことを取り上げています。なぜ反ユダヤ主義者であったかというと,ユダヤ人というのはヨーロッパ近代においては資本主義のシンボルだったわけですよね。だから,メールマンによれば社会主義者は総じて反ユダヤ主義者であった。ところが,ナチスが出てきてホロコーストをしたため,彼らは反ユダヤ主義の旗なんか掲げていられないから,メールマンに言わせると「キアスム的転換」というのですが,地と図を入れ替えて,同じ理屈構造をもっているんだけれども,全く正反対の話にしてしまう。それで,戦後はみんなそのキアスム的転換によって反ユダヤ主義と同じ論理構造のまま反ファシストになっちゃったというわけです。


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